【第五十五話】雨
学園が用意してくれた馬車の中で、ウィリアム様はまるで縛り付けられたかのように動かなかった。
その顔色は青白く、唇は強く引き結ばれている。
一方の私はまだこの状況が信じきれないでいた。
先程の伝令の言葉を思い出す。
『伝令です‼︎ムーア公爵閣下と公爵夫人が、意識不明の重体でございます‼︎至急ムーア公爵領へお戻り下さい‼︎』
(公爵領内の馬車は一つ残らず走行出来ない状態にしたはず…この伝令は何かの間違いでは…?)
私がそう考えている間にも馬車は進んでいく。
そして私たちはムーア公爵領内にある事故現場近くの病院へ到着した。
「ムーア公爵卿、こちらです」
ウィリアム様が病院に入るなり看護師が走り寄ってくる。
看護師が先導していった先は角部屋の病室だった。看護師は手を伸ばし病室の扉を開ける。
その瞬間、私は鼻腔に独特な匂いを感じて立ち止まった。
(…泥と血の匂いだ)
ウィリアム様は先導されるがままに病室へ入って行く。
それを見て私も病室内に足を踏み入れた。
室内は重苦しい空気に包まれていた。
医師と思しき老人がウィリアム様に近付いてきて、重々しく口を開く。
「公爵卿、はるばるお疲れ様でございます。…若い身空の公爵卿には酷な事ですが、わしは公爵卿にある事実を申し上げなければなりません」
ウィリアム様は何も言わず黙り込んでいた。
そんな彼に老人医師は告げる。
「公爵閣下と夫人はお亡くなりになりました。ご確認をお願いします」
ウィリアム様はそれを聞いて尚、無言でその場に佇んでいた。
しかし医師が歩き出すと、遅々とした動きで部屋の奥へ進んでいく。
奥にある大きな寝台には広く白い布がかけられていた。人間大程の膨らみが2つ盛り上がっている。
医者がその布を取り払う。
そこには、2人の人間が横たえられていた。
黒い髪をした男性…ムーア公爵の顔色は土気色で、だらりと力なく腕が垂れている。
その隣に横たわる白金の髪色の女性…ムーア公爵夫人の元々白い肌はさらに白くなり、その薔薇色だった頬に色はない。
2人の瞼はかたく閉じられており各所から血が滲んでいる上、泥に塗れていた。
一目見て感覚的に理解した。
(この2人は確かに死んでいる)
もうその生は失われ、生き返ることはないのだと悟る。
「…当時の状況は?」
私が誰ともなくそう呟くと、1人の男が一歩こちらへ進み出た。
よく見るとその男も怪我をしており所々包帯を巻いている。
「今朝、ムーア公爵邸の馬車の車輪が破壊されるという事件がありました。邸宅内は一時騒然となり本日の公務を見合わせる事になりかけたのですが、古株の使用人が納屋に昔の馬車が一台仕舞いきりであった事を思い出したのです」
(何だと…?)
私はそれを聞き愕然とする。
(納屋に馬車がまだ残っていた…?)
呆然とした私の様子に気づかない様子で男は話し続けた。
「公爵閣下はその馬車で公務へ向かわれる決定をなされました。自分は本日の御者を任され、昼頃邸宅を出発。中程まで進んだ時に事故は起きたのです」
御者の男は暗い顔をする。
「最初は何が起こったのか分かりませんでした。突然衝撃が来て吹き飛ばされ、気が付いた頃には全て終わっていました。自分は低木に偶然落ちて助かりましたが、中にいらっしゃったおふたりは頭を強く打って…」
そう言って男が項垂れた。
私は絞り出すように言葉を発する。
「…相手方はどうなったのです」
私の言葉に医師が口を開いた。
「相手方の馬車は新興の商人一家の物で、彼らは現在意識がありません。手は尽くしていますが…」
それきり医師は口を閉ざす。
(同じだ…『君と白薔薇』のシナリオと、何もかも)
私は言葉を失い立ち尽くした。
その時、ウィリアム様が静かに寝台の2人の元へ歩み寄った。
「…ここに来るまでに覚悟はしていたつもりだったけれど」
彼は寝台の横に跪く。
「やはり受け入れられない。受け入れられる筈がない」
その消え入るような声は病室の空気に混ざり合う。
「いつか分かり合えればと思っていた。たとえ愛情を向けられていなくても、父上と母上は僕にとって…」
そう言ったきり彼は沈黙する。
暗澹たる静寂が部屋を満たしていった。
ムーア公爵と夫人の葬式は雨が降る日に行われた。
領民たちは各々喪に服し、王の名代としてやってきた王太子や近隣の貴族たちが葬式に参列した。
喪主のウィリアム様は粛々と式を進めていく。
ウィリアム様は事故以降、まるで機械仕掛けの人形のように淡々とやるべき事をこなしていた。
フィンレー王太子はそんなウィリアム様を見て痛ましげな顔をしていたが、王の名代としてやってきている以上、彼がウィリアム様に私的な声を掛けることは叶わなかった。
やがて公爵と夫人の遺体が棺に収められる。
2人の亡骸が、『君と白薔薇』でのウィリアム様の最期と重なって見えた。
(私は今回、何も変える事が出来なかった。結局、公爵と夫人は亡くなってしまった)
絶望が足元から這い上がってくる。
(私が何をした所でウィリアム様もこの2人のように…)
膝から崩れ落ちそうになる程の、強い絶望感が私を襲った。
式は終わり、いつの間にか墓場には私とウィリアム様の2人きりになっていた。
墓場に供えられた花束が雨に打たれて水滴を弾く。
黒い傘をさし、喪服を纏ったウィリアム様はただ黙って公爵と夫人の墓を見つめている。
「…呆気ないね」
ぽつりと彼が呟く。
「兄上の時もそうだった。人というのは本当に呆気なく亡くなってしまう」
彼は私の方を振り返る。
その表情は傘に隠れていて伺えない。
「リア、君は僕を置いて逝ったりしないよね」
その声は平坦で、とても異様な感じがする声音だった。
ウィリアム様の精神が追い詰められているのを感じて私はごくりと唾を飲み込む。
彼のその様子を目の当たりにして、私の脳裏に自らの決意が過った。
(私の望みは)
目を強く閉じると、当時誓った決意が蘇ってくる。
(ウィリアム様を守り、彼に幸せに生きてもらうこと)
私は刮目し、ウィリアム様を見つめた。
(私は諦めない。絶望に負けない。ウィリアム様が生きている限り、私は彼に幸せが訪れる事を願い続ける。どんな事があろうとも絶望に心を奪わせはしない)
「…物事に絶対はありません。『ボクは死にません』と言うのは簡単です。しかしそれは真実ではない」
私のその言葉に、傘を握るウィリアム様の手に力が籠る。
「確約は出来ません。それでも…ボクは貴方のために精一杯生きる努力をする。そう約束します」
私がそう言うと彼は一際大きく肩を震わせた。
そして私の元へ近づくと傘を手放し私の事を掻き抱く。
私は身体を硬直させた。しかし、
「ごめんリア、今だけは抱きしめていさせて」
彼の声が震えているのを聞いて動きを止めた。
(私の性別が明らかになるかどうかなど、今の彼の心の安寧を保つ事以上に大切なものか)
私はウィリアム様が濡れないよう傘を差し出しながら、もう片方の手で彼の背中をさする。
彼は激情を堪えるように私を強く抱きしめていたが、やがて決壊するように慟哭した。
雨の中、私たちは抱擁し合う。
その熱はウィリアム様が確かに生きているという証。
私はウィリアム様の肩に頭を預けると、彼の背中をさすり続けた。




