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第四章<荒野の幻影>第二場(2)

 階段は今や、明らかに下りになっており、しかもいつのまにか、らせんを描かなくなって、まっすぐ下に降りていた。ほどなく階段は終り、その先は平坦な通路になった。

 通路の先は曲がり角になっていてその先は見えなかったが、それにしても、その曲がり角まででもかなりの距離がある。いくら大きな塔だとはいえ、あの塔の内部に、これほど長い直線の通路があるとは思えない。ここはおそらく、塔の地下なのだろう。たぶん、『魔王の城』と呼ばれているもののほとんどの部分は地下にあって、塔だけが地上に現われているのだ。

 ふたりはいくつもの角を曲がりながら通路を進んでいった。そこはまさしく、複雑な構造を持つ広大な地下の宮殿であるらしく、全体に古びて、どこかがらんとしてはいたが、通路のところどころにあるアルコーヴにはそれぞれ完璧な調和を見せて精緻な彫刻などが飾られ、そこここに、色褪せてはいるが豪華で重々しい装飾布がずっしりと垂れ下がっている。薄暗くてよく見えないながらも、隅々まで荘厳にして重厚な意匠が凝らされ、手の込んだ装飾がほどこされているらしい様は、かつて栄華を究めた王国の、時のはざまに迷い込んで打ち捨てられた王城の廃墟を思わせた。

 そのころには、周囲は、そうした調度がぼんやりと見分けられる程度にまで明るくなってきていたが、それは明らかに太陽の光でも蝋燭やランプの明りでもない、青ざめた不思議な薄明かりだった。特定の光源は見当たらず、どこからともなく通路全体をぼんやりと照らし出しているそれは、キャテルニーカが、「火でも光でもなく、魔物を退ける力はない」と言っていた彼女の光球と、明るさこそずっと弱いが、よく似ていた。魔王の宮殿で使われているということは、これはたしかに魔物に害を及ぼさない照明なのだろう。事実ふたりは、幾度か、角を曲がった瞬間などに、魔物の灰色の姿をちらりと見かけたような気がした。が、魔物がふたりに襲い掛ってくることはなかった。

 ふたりは何度も別れ道にさしかかった。そのつど、ふたりは、里菜の短剣をかざしてみて、シルドライトが明滅しない方向を選んで進んだ。魔王の宮殿の中で魔物がいない方角を探しても無意味なのは分かっていたが、他に道の選びようがなかったのだ。

 そうした別れ道とは別に、左右の壁のところどころに細く暗い側道の入り口らしきものが口を開けていたが、追手から身を隠す必要でもあるならともかく、ふたりとも、理由もないのにわざわざそんなところに入り込む気にはなれなかった。そこには、何やら得体のしれぬものがいろいろ潜んでいるらしく、実際、ふたりは幾度も、そこからふいに奇怪な姿をした生物――あるいは生物ですらないのかもしれないもの――が姿を現わすのに遭遇したのだ。

 それらの『生物』は大さも形も様々だったが、どれも、吐き気を催すような醜悪で異様な姿をしていることは共通していて、たいていはどちらかと言えば弱々しく、嫌悪と同時に不思議と哀れを呼び起こすような、ちゃんとした生き物になろうとしてなり損なってしまったかのような、どこかまだ形の定まらぬ感じのものたちだった。それでも、それらには、それぞれどこかに、地上で見慣れた何らかの生き物を思い出させるような部分があって、それがよけいにグロテスクで、しかも妙に哀しげだった。

 それらのあるものは、何も見えていないかのようにふたりの前をただずるずると横切って反対側の通路に消えていっただけだったし、あるものは、うっかり廊下にでてきてしまったもののふたりの姿に気づいて怯えたとでもいうように、あわてて元の暗がりに引っ込んでいった。が、幾度かは、やや身体付きのしっかりしたような『生物』が、うっかり間違って、という感じでふたりの前に立ち塞がり、どこか戸惑いがちに攻撃をしかけてきたこともあった。

 そういうときは、アルファードが、やむをえずそれを切って捨てた。

 それらの出来損ないの生き物のようなものたちは、恐らく自分に何が起こったのか理解もせずに、あっけなくくずおれていった。その血は奇妙に粘ついて、いやな臭いがし、その度に里菜もアルファードも、嫌悪と哀れみに顔を曇らせ、吐き気に耐えた。ふたりの心に勝利感はなく、ただ、苦い思いだけが込みあげてきたが、以前牧場まきばでドラゴンを倒した時のように、その『生物』の魂のために<黄泉の大君>への祈りを唱えてやることはできなかった。そもそも彼らに魂があるのかどうかすら定かではないのだし、その祈るべき主は、おそらく彼らのことなど気にもとめていないだろうという気がしたのだ。

 その『生物』たちは、魔王がふたりの邪魔をするために差し向けたというには、あまりにも弱すぎた。もしかしたら、魔王は、彼らの存在を知っての上で、どうせ何の役にもたたないし、たいした邪魔にもならないだろうと、彼らがふたりを襲うのを放置しているのかもしれない。

 そんなふうにして進むにつれて、例の不浄な熱気はますますつのり、同時に、本能的な警戒心を呼び起こす微かな異臭も、少しづつ強まっていった。首筋を、背中を、汗が流れ落ちる。前髪が汗に濡れて、額に張り付く。

 ほの暗い、入り組んだ通路を、もう、どのくらいさまよってるだろうか。ふたりはすでに、時間の感覚とともに、方向感覚も、すっかり失っていた。時々、今通っている通路のアルコーヴの彫刻を前にも見たような気がすることもあるが、同じような彫刻がいくつもあるのかもしれないし、本当のところはよくわからない。

 いくつもの角を曲がり、別れ道を選び、醜怪な『生物』を切り捨て、それからまた、彫刻や置き物で飾られた長い通路を通り抜けて、やがてふたりは立ち止まった。

 そこは、初めてふたりが行き当った、通路の行き止まりだった。それも、ただの突き当たりの壁ではない。通路はそこで唐突にとぎれ、その先は、壁でもドアでもなく、いきなりがらんとした薄暗い空間になっていたのだ。その、通路の先の空間から、例の熱気が耐え難いまでに熱く押し寄せて、ふたりを包む。あの臭気も、同じところから発しているらしい。同時にそこからは、何か、規則正しく高まりを繰り返す、風のうなりにも似た単調な音が、かすかに聞こえてきていた。

 ふたりは、突然とぎれている床の端近くまで注意深く進み出て、上下左右に広がる空洞を覗き込んだ。

 そこは、地下の大洞窟ででもあるらしく、暗くてほとんど見えないものの、はるか前方には、つきあたりのごつごつした岩壁らしきものがぼんやりと見分けられた。上方もやはり、はるかに高いところに、岩の天井があるようだ。ふたりのいるところは、どうやら、巨大な岩洞の壁の途中に開いた横穴といった位置らしい。ここまでは、砂だらけの遺跡のようなものではあっても床も壁もそれなりにちゃんとした屋内だったはずなのに、その建物の中に、突然、ぽっかりと、建物の何階分をもぶち抜くような天然の岩窟がある――。いかにも奇妙な、不自然なことだが、どう見ても、そうとしか見えない。

 おそるおそる下を覗き込むと、そこに――たぶん、三階建の学校の最上階の窓から見下ろした校庭くらい下のほうに――、ぼんやりと、地面の上にあるらしい、何か巨きなものが見えた。暗くて地面は見えなかったが、どうやら地面に横たわっているらしいそれは、薄暗い中でも金属的に鈍く輝いて見える、くすんだ銀色の物体で、自分たちがいるところが本当に三階くらいの高さだとしたらマイクロバスくらいもありそうな大きさだった。さっきから聞こえている単調な物音は、その物体が発しているらしい。

 そして、よく見るとそれは、ただのひと固まりの物体ではなく、どうも、いくつもの細長いものが、ごちゃごちゃと寄り集まって丸まったようなものらしい。それは、絡まりあう何匹もの銀色の蛇たちを思わせた。

 里菜が、その『物体』をもっとよく見ようと乗りだしかけた時、『蛇』の一本が、ゆっくりとうごめいて、一固まりの中からほどけて抜け出しかけた。

 里菜がぎょっとして凍りつくと同時に後ろからアルファードの片腕が伸びてきて、無言で里菜を荒々しく抱き取った。反射的に悲鳴を上げかけた口は、もう片方の手で素早く塞がれ、里菜はあっという間に通路に引きずり戻されていた。

 アルファードは、そのまま里菜を胸に抱え込むようにして、静かに数歩、後退った。

 おせじにも状況判断が素早い方とは言い難い里菜は、何が何だか事態が飲み込めないまま、とりあえず、自分が恋しいアルファードにこれまでになく強引に抱きすくめられているのだという事実にだけは気づいた。そう意識したとたん、全身の血がかっと頭に昇って、戸惑いのあまり、どういうわけか逃れたくなって、つい、もがき出しそうになったが、いくら周囲の状況が見えない里菜でも、幸いなことに、そこで本当に暴れ出すほど愚かしくはなかった。アルファードのただならぬ警戒の気配を感じ取った里菜は、うろたえている場合でも、ましてや呑気にときめいてなどいる場合でもないのを理解し、頭上にあるアルファードの顔を見上げ、目で疑問を投げかけた。

 アルファードは、里菜が落ち着いたのを認めると、里菜の口を塞いでいた手を離して、黙って自分の口の前に指を一本立ててみせた。その真剣な表情に里菜がかたずを呑んで頷くと、アルファードは里菜の身体をそっと放して、ついてくるように手で合図し、足音を忍ばせて通路を引き返し始めた。里菜は、わけがわからないまま、息を殺して、そろそろとついていった。

 しばらくして、角をひとつ曲がったところでアルファードは立ち止まり、里菜を振り向いた。

「……もう、大丈夫だろう。驚かしてすまなかった」

 小声で囁くアルファードに、里菜も声をひそめて問う。

「アルファード。あれ、何だったの?」

 アルファードは短く答えた。

「ドラゴンだ」

「えっ? うそっ! だって、今まで見たのと、大きさも形も、全然違う……」

「ああ。あれはたぶん、伝説の雌ドラゴンだ。今まで俺たちが見てきたドラゴンは、みんな雄だったんだ。……ドラゴンの生態については謎が多いんだが、昔から、人間の前に現われるドラゴンはすべて雄だと言われてきた。もちろん、ドラゴンに性別を尋ねてみたものがいるわけではないし、ドラゴンの雄雌を実際に見比べてみたものもいないから、本当に全部が雄だという証拠はないんだが、とにかく、昔から、そう言われてきたんだ。そして、その伝説によると、雌ドラゴンはどこか人間界を離れた世界の果てのその向こうに巣を営み、そこで子供を産み続けていて、ドラゴンたちはみんな、そこからこの世界に飛んでくるのだという。雌ドラゴンには翼がないから、雄だけが人間界に飛んでくるというんだ。そして、誰も見たことのない雌ドラゴンは、雄ドラゴンがただの愚かな動物なのに対して、邪悪な知性と魔法の力と永遠に近い寿命とを持ち、人語を自在に操るといわれ、また、翼がないかわりに、雄の何倍も大きくて、九つの頭を持つといわれている」

「えっ、じゃあ、さっきの、あのヘビみたいのは、あれみんな、ドラゴンの首っ!?」

 里菜がすっとんきょうな声を上げると、こういう迂闊で大雑把な物言いを捨て置けないたちであるアルファードは、しごく真面目に、冷静に、几帳面な訂正を加えた。

「いや、少なくとも一本は尾だろう」

「あ、そうか、そうよね」と、里菜も大面目に納得し、アルファードはなんて冷静で細心で、言うことがいちいちもっともなんだろう、と、心中ひそかに尊敬の念を新たにした。

 そんなことは知る由もなく、アルファードは、辛抱強い教師のように、里菜に尋ねた。

「君は、あれが卵を抱いていたのに気がついたか?」

「えっ……。ううん」

「ドラゴンがどこでどうやって繁殖しているのかは謎で、巣とか卵とか赤ん坊とか、そういう、ドラゴンの繁殖の形跡をみたものは今まで誰もいなかったんだが、どうやら、ドラゴンの巣は、こんなところにあったらしい。そして、あのドラゴンが言葉をしゃべったり魔法を使ったりするかはともかく、卵を守っている母親であれば、気がたって凶暴になっていることは確実だ。それを君は、あんなふうにのんびりと見物しているんだから……。まったく、君は、なんて呑気なんだ。もしかすると、君こそ史上最強の大豪傑かもしれないな。まあ、とりあえず引き返そう」

 ふたりは、なおもしばらくは足音を忍ばせて、もとの道を引き返したが、もともと道を知っていて歩いていたわけではないし、目印を残してきたわけでもないから、途中で道が分からなくなった。それでもとにかく、どうせもともと分からなかった道なのだからと、適当に歩き続けた。

 けれども、しばらくして、いくつめかの角を曲がったとたん、ふたりは立ちすくんだ。

 前方で、またもや唐突に通路がとぎれて、その先が、さっきと同じような洞窟になっているのだ。

 ふたりは顔を見合わせて、そろそろと通路の終りまで忍び寄り、もういちど、その先を覗き込んだ。そして、息を呑んだ。

 そこは洞窟の底だった。階段や下り坂を降りた覚えはないのに、そこがさっきの洞窟の底であるのはあきらかだった。そこには、今度は下のほうにではなく、真正面に、さっきのドラゴンがうずくまって眠っていたのだ。

 ドラゴンのいる場所は、広い洞窟の中央あたりで、ふたりがいるところからはかなり離れていたが、それでもドラゴンは見上げるように大きかった。あの単調な音はドラゴンの寝息らしい。音のうねりにつれて、ドラゴンの腹が微かに隆起を繰り返している。九つの頭のうちのひとつが、こちらからよく見える位置にあり、その鼻孔がふいごのように広がったり閉じたりしているのがわかる。この耐え難い熱気と不快な臭気は、そこから吐き出されているらしい。

 今度は里菜も、ドラゴンの鈍い銀色の脇腹のあたりに、真珠色の淡い光沢を帯びた真円形の卵がいくつか転がっているのを見た。ドラゴンは、九本の首と一本の尾で蛇がとぐろを巻くように卵を囲んで丸くなって眠っているのだ。

 ふたりは、無言で目を見交わして、また、そろそろと後退り、角を曲がると向きを変えて、今来た道を引き返し始めた。途中までは同じ道を引き返してから、どこかで別の道にそれるつもりだった。

 ふたりは、今度は間違わずに、同じ道を通って戻っていたはずだった。ところが、しばらくすると、なぜかまた通路は途切れ、その先がさっきの洞窟になっていて、やはりドラゴンが眠っているのだ。

「アルファード……。もしかしてあたしたち、この洞窟を通らなきゃ先に進めないことになってるんじゃない?」

「ああ、そのようだ。魔王は俺達にどうしてもここを通らせたいらしい」

 ふたりは声を押し殺して囁きあい、もう引き返そうとはせずに洞窟の奥を透かし見た。

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