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第四章<荒野の幻影>第八場(1)

「魔王! あなたなんか、信じない! 消えろ!」

 絶叫とともに短剣を振りかざし、里菜は魔王に駆け寄った。

 その瞬間の里菜の心に、もはや魔王への憎しみはなかった。さっき、最初にこの部屋で魔王に切りつけていった時は、怒りと憎しみが里菜を満たしていたが、今、里菜をつき動かしているのは、ただ、アルファードを死なせたくないという、その一心だった。他には何も、考えていなかった。魔王を殺すためではなく、愛する人を生かすためだけに、里菜は走った。

 その時、アルファードを突き放してくるりと振り向いた魔王は、思いがけない行動に出た。魔王は、偃月刀を投げ捨て、里菜を抱き締めようとするかのように無防備に両腕を広げ、里菜の前に立ちはだかったのだ。

 その、広げた腕の中に、里菜はまっすぐに飛び込んでいった。

 呆然と見ているアルファードの前で、里菜の純白の花嫁衣装と、魔王の喪服のような黒衣がぶつかりあい、風を孕んでふわりと広がりながら絡みあった。

 すべての動きが止まり、ひととき打ち重なってなびいた白い布と黒い布が、勢いを失って静かに垂れ下がった時、里菜は、魔王の腕の中にいた。

「エレオドリーナ。愛しい、妹よ……」

 甘く、優しく、魔王が囁いた。

「長い、長い間、私はこの時を待ち続けて来たのかもしれない。たぶん私は、この日のために、その短剣をそなたに贈ったのだよ……」

 言い終えると、魔王は抱擁を解き、胸に刺さった短剣ごと、ゆっくりと里菜の足元に崩れ落ちていった。

 それは、魔王の、長い絶望の終りだった。

 魔王は、胸に短剣を生やしたまま、床に倒れこんだ。

 一瞬の後、立ち尽くす里菜の影ででもあるかのようにその足元に黒々とわだかまる魔王の黒衣の下から、人の形がふっと消え失せ、代わりに、何か黒い煙のようなものが立ちのぼった。

 同時に、轟音とともに床が激しく揺れ始めた。

 壁が、天井が、土埃を上げて、崩れていく。

 ばらばらになった石材が、頭上から振り注ぐ。

 天井の崩れたところから、ぽっかりと、空が覗いた。塔の中にいるうちにいつのまにか一日が過ぎていたのか、それとも魔王の消滅が引き起こした怪異なのか、空は、夜のように黒かった。その空に、燃えるように赤いオーロラのようなものが広がっていた。巨大なオーロラは空一面を覆って、炎のように激しく揺れ惑い、荒れ狂い、天上の闇を焦がしていた。

 ゆっくりと崩れ始めた塔の中、里菜は、周囲に石材が降り注ぐのも構わず、揺れる床に呆然と立ち尽くしていた。魔王のマントの下から立ち上った黒い煙が、すっ、と、里菜に寄り添い、その手首に纏わり付いてきたのだ。

 里菜の手首の、最初に夢の中で魔王に会ったときに付けられた刻印のような傷跡は、あの後すぐに急速に薄れて、ほとんど人に気付かれないほどになっていたが、それでも確かに、まだ残っていた。その傷跡に、今、黒い気体が吸い込まれるように消えていくのを、里菜は声もなく見つめていた。

 ちょうどその時、里菜の真上の天井に穴が開き、石材が、里菜の頭上に崩れ落ちてこようとした。

 不思議な夢を見ているように魔王の最後を眺めていたアルファードが、はっと我に返った。

「リーナ!」

 アルファードは、叫びと同時に跳躍し、飛び掛かるようにして里菜を床に押し倒すと、その上に覆い被さった。もうもうと上がった土煙が、二人の姿を覆い隠した。


 今や、崩壊は塔全体に及んでいた。

 暗黒の空に狂ったように乱れ舞う赤いオーロラの下、魔王の消滅と同時に魔法の支えを失った塔が、ゆっくりと崩れ落ちてゆく。

 塔の中にいる里菜たちには、それは、轟音と危険を伴う現実的な崩壊だったが、もしもその光景を、塔の外、荒野から見ているものがあれば、それは寂しい夢の中の光景のようにしんとして、まるで音のない幻影のように見えていただろう。

 けれど、この最果ての荒涼の地には、空から崩壊を見下ろす鳥も、地上から見上げる獣たちもいない。

 誰ひとり見守るものもないままに、幻の城が、消えていく。ひとつの古い悪夢が解体してゆく。

 ばらばらになった石材は途中でさらに砕けて砂に変わり、ずっと止まっていた砂時計が動き出したように、音もなくなかぞらを流れ落ちる。凝り固まった古い時間がさらさらと落下して、無人の荒野に降り積もる。

 土煙の中で徐々に崩れてゆく塔の回りを、風が、弔うように、泣きながら吹き荒れていた。

 そのほとんどが崩れ去った時、塔の残骸は、突然、魔物が消える時のように青白い炎を上げて、紙のように燃え上がった。

 青い炎はすぐに消え、後には、何も残らなかった。瓦礫や砂の山はすべて消え失せ、ただ、乾いた荒野だけが、どこまでも平らに広がっていた。

 時を同じくして空のオーロラも消えていった。オーロラが消えた空は、いつのまにか、北辺の地の曇った午後の、ぼんやりとした灰色の薄明かりを取り戻していた。

 その、灰色の空の、ちょうど塔のてっぺんの部屋があったはずのあたりに、ぼんやりと光る、不思議な球体が浮んでいた。しゃぼん玉のようなその透明の球体は、塔が消えてもまだ収まらぬ土煙の中をゆっくりと下降し、砂の上に、ふうわりと着地した。

 風が、砂塵を吹き払っていく。

 土煙が晴れた時、球の中には、ぐったりとした里菜を腕に抱いたアルファードの姿があった。里菜の服はもとの質素な青いワンピースに戻っている。

 地面に触れたしゃぼん玉が割れるように、ふたりを包んでいた透明な膜が消えた。

 荒野に降り立ったアルファードは、地面に片膝をついて、里菜の身体を、壊れ物を扱うようにそっと砂の上に横たえた。その上半身は自分の膝にもたせかけて、両腕で肩を抱き、仰向いた顔を心配そうに覗き込む。

 アルファードの動作は慎重だったが、横たえられた里菜は、白い喉をのけ反らせ、激しく身悶えていた。額には汗が浮び、その目は苦痛に見開かれ、中空をさまよっている。

「あ……あーッ!」

 苦しげなあえぎと共に、手足を引きつらせて、華奢な身体が跳ね上がろうとする。アルファードは、暴れる里菜の身体を自分の上体で押え込みながら、膝に乗せた小さな頭を胸に掻き抱いて、呼び掛け続けた。

「……リーナ! リーナ!?」

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