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第四章<荒野の幻影>第三場(4)

!ご注意!

この回には、流血描写、及び精神的に痛い内容が含まれています。

年齢制限が必要とは思いませんが、特に苦手な方はご注意くださいm(__)m

(飛ばして読んでもストーリーはだいたい分かると思います)


 ドラゴンが、わざとらしく哀れむように首を振って告げた。

「アルファード、哀れな捨て犬よ、迷子の子羊よ……。教えてやろう。お前も薄々気付いていただろう通り、この世のすべてのものは、お前を裏切るのだよ。お前から、去って行くのだよ。その証拠に、あの娘でさえ、すでに去って行ったではないか。いや、否定しても無駄だ。現に、あの娘は、お前がこんなに傷つき苦しんでいる今、ここにいない。だいたい、本当は、もう、とっくの昔から、あの娘の心は、ずっとお前を裏切っていたのだ。あの娘は、あの従順そうな無垢そのものの顔つきの下で無能なお前を密かに蔑み、嘲笑いながら、強く美しい魔王に心を奪われていたのだ。お前も、そのことに、本当は気付いていたのだろう? ただ、それを認めたくなくて、気付かないふりをしてきたのだろう?」

 ドラゴンの毒々しい長広舌を聞きながら、アルファードの動きが、しだいに鈍くなってきた。いたずらに暴れ回って無駄な体力を消耗し、極限を越えた疲労に朦朧となった彼は、いつしか、剣を無防備にだらりと下げ、肩で息をしながら、ふらふらと立ち尽くしていた。

 もう、攻撃する力は残っていなかった。涜らわしい言葉を聞かぬよう耳を塞ぐために腕を持ち上げる力すらなく、荒い息の下から切れ切れに低い唸りを漏らすことだけがドラゴンの不当な言葉に対して今の彼に出来る精一杯の抵抗だった。憔悴した顔の中で、ただ、影に沈んだ双眸だけがぎらぎらと燃え上がって、憎悪の炎を一時も絶やさずにドラゴンを睨みつけていた。

 ドラゴンは、そんな視線をむしろ愉しむように、薄笑いを浮かべて得々と話し続けた。

「アルファード、下等な偽善者よ。お前は、覚えていないか? 私は、お前に、何度も忠告したのだよ。お前の夢の中に、ひそかに忠告を吹き込んでやったのだよ。早くあの娘を食ってしまえ、殺してしまえ、あの白い喉笛を噛み切ってしまえと。

 それなのに、お前は臆病すぎて、私の忠告に耳を傾ける勇気さえ持てずに現実から目をそらし、自分を謀り続けてきた。その、偽善と欺瞞と臆病の、結果が、これだ。

 弱さは罪だ。臆病は罪だ。だからお前は、その罪に対して、罰を受けた。あの娘を失うという罰を受けた。お前がさっさと食ってしまっておかなかったから、あの娘は、今、とうとう、こんなにも苦しんでいるお前を見捨てて、魔王のところへ行ってしまったのだ。今ごろは、もう、魔王の腕に抱かれて、お前を忘れておろうよ。お前がずっとひそかに怖れていた通り、あの娘は、やはりお前を裏切ったのだ。無様で薄汚い役立たずのお前などより、美しく力ある魔王を選んだのだ。

 が、あの娘を責めるわけにはいくまい。お前はそんなにも愚かで弱く劣っているのだから、見限られて当然だ。誰だって同じようにするだろう。お前を、見捨てるだろう」

 ドラゴンは、ここでにんまりと目を細めてアルファードの顔を覗きこみながら、満を持した最後の手札とばかりに、ひときわ毒々しく告げた。

「そう、かつて、お前の母親が、お前を棄てて見知らぬ男のもとに去ったように……」

 この、思いもよらない言葉に、アルファードの中で、ついに最後の自制が崩れた。

「……何っ!?」

 気がつくとアルファードは、ついにドラゴンに向かって言葉を発していた。その瞬間、あらゆる記憶が映像となって、津波のようにアルファードに襲い掛った。



  *


 里菜は、果てしない無の深淵を、陶然と見つめていた。

 闇は輝く程に深く、すべての光を内包していた。 里菜は、吸い寄せられるように扉の向こうに足を踏み出した。

 気がつくと里菜は、床も天上も壁もない一面の空間に浮かんでいた。見えない虚無の黒い指が里菜を絡め取り、目の眩むような光と闇の渦と、ごうごうと耳をろうせんばかりの静けさが里菜を押し包む。

 海の上に仰向けに浮かぶ時のように、か細い四肢を無防備に宙に投げ出し、全身を闇に預けて、里菜は、時のない闇の海をゆるやかに漂っていた。右も左も、上も下もわからなかった。不思議な浮遊の中で永遠の虚無にその身を委ね、いつしか里菜は、自分が誰なのかも忘れかけていた。

 どこからか、聞き覚えのある声が、魂の奥深くに直接語りかけてきた。

『エレオドリーナよ。どうだ、この眺めは。美しかろう。そなたへの、贈り物だ。……完全とは、全き無。すべてが在って欠けているところがないことではなく、何もないから欠けることがありえないということなのだ。ここには、何もないからこそ、無限があり、完全がある。ここに永遠の美がある……』

  里菜は薄く目を開けて、あらゆる光を孕んだ完全なる闇を見渡し、うっとりと微笑んだ。穏やかに満ち足りた、幸せな気持ちだった。

 その時、闇の向こうに、細い三日月がふいに現われた。どこかから昇ってきたのではなく、何もなかった虚無の空間に、ふっと現われたのだ。

  とたんに、それまで『無』であり『闇』であった空間が、『夜』になり、夜空には幾千の星々が降るように瞬き始め、同時に、時が流れ始めた。

 里菜はもう宙を漂ってはいず、いつのまにか石の床に足をつけて呆然と立っていた。

  気がつくと、空低くかかる三日月と思ったものは、白く輝く細いやいば――見覚えのある大鎌の刃だった。

 大鎌は、丈高い黒衣の人影の背に負われていた。

 それを見たとたん、里菜は、それが誰で自分が誰か、何のためにここに来たのかを思い出した。

 周囲はもう、虚無の空間でも輝く夜空でもなくなって、四方を石壁に囲まれた、ほの暗く冷たくがらんとした部屋の中になっていた。

『エレオドリーナ。よく来た。待っていたぞ……』

 魔王が囁いた。

 里菜は、ずっと抜き身で握りしめていた短剣を無言で握り直した。

 さっきまで、それを持っていることも忘れていた短剣は、気がつくと、狂ったように、激しくせわしない明滅を繰り返していた。

 里菜は、まなじりをきっと上げて、まっすぐに魔王を見据えた。掌に汗が滲む。心臓が壊れそうに震えながら脈打つ。本当はこのまま背を向けて、逃げ帰りたい。

 けれどその時、里菜の脳裏に、ローイの、フェルドリーンの顔が、そして刻印を受けたり傷を負ったりした多くの子供たちのことがよみがえった。そのとたん、里菜の胸に、魔王に対する憎しみが閃光のように広がり、満ちあふれ、ただ一言の叫びとなって、喉を奔った。

「……魔王!」

 ぎこちなく短剣を構え、里菜は、何の勝算もなく、ただ真っ直に、魔王に向かって駆け出した。

 まるで、その、黒衣の胸に飛び込もうとするかのように。



  *


 アルファードは、目の前のドラゴンの存在を忘れ、記憶の奔流に呑み込まれて翻弄されていた。顔を歪めて両手で頭を抱え込み、仁王立ちで身を反らせてはまた折り曲げ、激しく頭を振ってもがき苦しむアルファードを、ドラゴンの九本の首がゆらゆらと伸びてきて取り囲む。片目を潰された首、舌を裂かれて口から血を流している首、鱗の継ぎ目から血を流している首――。先ほどまでは痛みに悶えていた首も、今はまるで、既に死んで痛みも感じなくなった血塗れの戦士の亡霊たちででもあるかのように、もはや苦しむそぶりも見せずに、ただアルファードを取り囲み、揺れている。

 その、ゆらめく檻の真ん中で、アルファードは、ふいに、頭を抱えたまま喉をのけ反らせて天をふり仰ぐと、うつろな目を見開いて、絞り出すように絶叫した。

「……母さん!」

 次の瞬間、アルファードは糸が切れた操り人形のようにすとんとくずおれて地面に膝をつき、そのまま、その場に、頭を抱え身体を丸めてうずくまった。

 その頭上で、ドラゴンの九本の首が、なぶるように嘲るように、ざわざわと笑いさざめきながら、満足げにアルファードを見降ろしていた。



  *


 長い時を経てやっと再び巡り合えた恋人の腕に飛び込もうとするかのように魔王の許へと駆け寄りながら、その短い間に、里菜は、魔王の周囲に、ふっと満足げな笑いの気配が漂うのを感じた。その笑みに不吉なものを感じて、里菜は一瞬、かすかに躊躇したが、もう、止まることはできなかった。魔王は逃げる様子もける様子もなく、すでに里菜の目の前に立ちはだかっていた。

 里菜は短剣を振り上げ、思わず堅く目を閉じて、全身で魔王にぶつかっていった。

 その、短剣を握ったか細い手首が、空中で捕らえられ、軽く捻り上げられた。短剣はあっけなく里菜の手を離れ、からん、と儚い音を立てて床に落ちた。

 魔王は、里菜の手首を片手でぐいと引きながら、もう一方の腕を華奢な腰に回し、まるでこれは舞踏会で今からダンスを始めるのだとでもいわんばかりの優雅な仕草で、里菜をやすやすと間近に引き寄せた。

 里菜は、声も出せずに抱き寄せられながら、恐怖に目を見開いて魔王を見上げた。深く引き下ろした黒いフードの下の闇と、背後の大鎌の冷たい輝きが、瞳に映った。

 その輝きに魅入られた里菜は、一切の抵抗の力を失って、人形のようにぐったりと魔王の腕に抱かれていた。

 大きな黒いマントが、里菜の小さな身体をふわりと包み込む。

 魔王が、満足げな笑みを含んで、勝ち誇ったように囁いた。

『エレオドリーナ、私の花嫁よ。ついに、そなたを手に入れた……』

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