5-5 : 〝ブチリッ〟
四人目の人物がこうもり傘から雨粒を落とし、床に倒れた扉を革靴で踏んだ。
「本日は生憎の雨模様。皆さん如何おすごしですかぁ? あぁ俺? 俺は道中葉巻が吸えなくて今すごくイライラしてる。湿気がねぇ、いかんのよ。これが全く良くない」
四人目は三人目が掛けているテーブル席の向かいに座り、銀製の葉巻入れを取り出した。
「……あー……ここって喫煙オーケー? それとも禁煙? ここで吸ってもいいか? いい? よしいいなありがとうすごくいい店だ」
誰の同意も得ないまま、ガシュ……とガスライターで葉巻に火をつけ。
「……ふっー……。……あぁーっ……生き返る……」
「お待ちしておりました、CEO」
相手が人心地着いたのを見計らい、そして秘書の男はきっちりと頭を下げながら、〈ぽかぽかオケラ亭〉にジェッツ・ヤコブソンその人を迎えた。
「ん、ご苦労さん」
ふぅーっと秘書の男へ紫煙を吹きつけながら、ジェッツが労う。
「やりゃできるじゃんかよぉ。番犬どもを何人出したところで、結局クソはクソだ、束になっても名探偵になるわけじゃあない。こういうことにはやっぱり使えんわな。最初っから全部お前に任せとけば良かったなぁ、うんうん」
「お誉めに与り光栄です」
ジュウッ。
それは、ジェッツが火の点いた葉巻の先端を、秘書の顔面に押しつけた音だった。
「……っ……CEOっ……こ、れは……っ」
「なぁ……なぁなぁ、なぁー? 誉めてねぇわけだが? 何で一週間もかかってんだよウスノロ……時間がないってことはお前が一番よくわかってるよなぁ?」
「……申し訳、ありませんっ……処分は、後ほど、謹んで……っ」
葉巻を押しつけられながらも、秘書の男は動じずに受け答えする。異常な光景だった。
「あぁ……まいいや。それより用件を進めよう。企業のトップは暇じゃあない」
ジェッツが唐突に、カウンターを振り向いて。
「そうですよねぇ? クマ社長?」
ヘビのように鋭い目が、クマ社長の丸い目を真っ直ぐに射貫いた。
「ジェッツ……わしに何の用やんな」
「ん? んー……あぁ、ここってあれか、食堂なの? へーっ、ふーん……」
ジェッツはクマ社長を無視して、今度はメナリィのほうをじっと見る。
「お姉ちゃん、お勧めは?」
「え、あ……お勧めは〝モグラコロッケ〟です、けど……」
「ほぉー……ああ、だいじょぶだいじょぶ。飯はすませてきてる。お構いなく、いやほんとに。〝本日閉店〟って外にあったのは見えてたんだ。蹴破ったのはまぁ、演出の一環なわけだが? 舐められたら終わりなんでねこの仕事。最近暑かったから食が細くてイライラしやすいのよ、俺」
ジェッツが一息に捲し立てる内容は、あちこちへ飛んで要領を得ない。
掴み所がなく、この男が何を考えているのかメナリィには全く理解できなかった。
天井に向けて、ジェッツがふぅーっともう一度紫煙を吐き出す。店内は酷い臭いに包まれていた。
そのまま…………ギョロリッ。
ジェッツの血走った目だけが、二人を睨んで。
「…………エーミール女史。あの雌狐を出せ」
それはまるで、空中を漂う煙すら停止するような。
胃がキリキリと捻れるような、重苦しい沈黙が降りる。
「……。……何の話をしよんね――」
「ああ、そういうのいいっすよ? クマ社長。お互い茶番はそろそろ止しましょう。俺もちょっとふざけすぎました。失礼失礼」
背もたれに寄りかかり、秘書の男が向かいにいるのも構わずジェッツが両脚を投げ出す。
「クマ社長。あんたのこと、この数日秘書に尾行させてました。ついでに俺があの赤髪女のこと探してるって噂、大っぴらに言って回ってたのは俺の息がかかってた奴らです。あんたの人脈、こういう人捜しのときにはマジで馬鹿にできないんで。お陰様でやっとこさビンゴですわ」
「相変わらずヘビみたいに物陰でチョロチョロしょんのが得意やんな、ジェッツ。ほんで? その何とかいう姉ちゃんと、あんさんが何だ言うねんや?」
「あら、まだ惚ける感じです? んー……何て言いますかねぇ、本命の制裁相手は別にいるんですがね? そいつの顔も名前もこれが全くわからない。そこでエーミール、この阿婆擦れに用があるんですよ」
ジェッツが身振り手振りで、ペラペラと捲し立てていく。
「先日、うちに喧嘩ふっかけてきやがった馬鹿がいた。こいつが俺の本命、某氏。ぶちのめしたくてウズウズしてます。エーミール女史とは別件で名刺交換した仲なんですが、事のなりゆきでこのクソビッチが某氏と繋がってる線濃厚なんですよ……だから彼女をね、こちらへ引き渡していただきたいわけです。あとはこっちで拷問でも何でもして吐かせますんで。どうですかねぇ?」
あくまで営業スマイルを浮かべて事情を語るジェッツであったが、言葉の端々で零れる汚い言い回しと、終始こめかみに浮いた青筋が、この男の怒りと執着を如実に語る。
「知らん言うたんが聞こえんかったんけ?」
ジェッツのヘビ睨みに対して、クマ社長も負けてはいない。
クマ社長の小さな目は笑っているが、蓄えた口髭を威嚇するように逆立てて。握り合わせた両拳からは、ボッキボキと派手な音が鳴る。
「おー怖……あんたに叩き上げられた下っ端時代を思い出す、勘弁してくださいよ。ところでクマ社長……あんたの知らない振りは見事だが、そっちのお姉ちゃんはそろそろ限界みたいですよ?」
わずかに首の角度を変えると、ジェッツはメナリィのいる方向へふぅーっと紫煙を吐いた。
「……はっ……はっ……!」
メナリィが、顔を真っ青にしていた。
よろりと足元すら落ち着かない。
ジェッツの尋問に晒されながら嘘を通す真似は、十七歳の少女にはとてもできなかった。
「メ、メナリィ……! 大丈夫け?!」
クマ社長がメナリィを抱き寄せる。
それを見ていたジェッツが、すべてを察して目を細めた。
「……オーゥケーィ。グッジョブ、すばらしい。エーミール女史との再会は叶わなかったわけだが、どうやら掘り出し物を見つけたらしい」
満足するように何度も頷き、ジェッツが足を載せたままのテーブルに灰を落とす。
ヘビの狡猾さで、その男は悍ましく笑った。
「その様子じゃ、あのクソアマを通り越して某氏と直接お知り合いだったりかな、お姉ちゃん? 聞かせてほしいねぇ、その頭のなかに浮かんでる、クソ野郎の名前と人相について……」
「ジェッツ! おんどれ、そこまで堕ちよったんか!」
とうとう堪忍袋の緒が切れたクマ社長が、殺気も露わに立ち上がった。
が。
ジェッツのほうは全く動じる様子もなく、名残惜しそうに葉巻に口をつけるだけ。
「……さて。引き揚げだ、ルグント」
何者かの、名を呼んで。
直後、グラリと。
クマ社長の視界が揺れた。
クマ社長の大柄な両脚から、呆気なく力が抜ける。
傾いてゆく世界の中で、クマ社長は背後に、あの秘書の男の姿を見た。
――あんさん……いつから……そこに、おったんね……。
片時も目を逸らしてなどいなかった。
終始テーブル席に座っていた秘書の男が動いた瞬間を、クマ社長は知覚できなかった。
〝なぜ〟……その問いかけが、意識を失ったクマ社長の口から質されることはなかった。
ジェッツの生爪のない、黒鉄を埋め込んだ指先が伸びて……
……やがて、冷たい雨が上がっていった。
◆ ◇ ◆
「――はっ……! はっ……!」
チュンチュンと、小鳥が鳴くばかりの街並みを、勇んで走り抜ける人影があった。
まだ夜気の残る路地には、昨夜の雨の忘れ形見のように霧が漂う。
「できた……っ、できたぞ……!」
上がる息に、弾む声。
「やっと、完成した……! あいつらのお陰だっ……十年がかりの、オレの夢……! 義親父! 約束に、間に合った……っ!」
転びそうになりながら、しかし彼は決して足を緩めない。
向かう先は、〈ぽかぽかオケラ亭〉。
十八歳の誕生日を間近に控えた、少女の下へ。
世界を、届けるために。
そして店の裏口を、勢いよく開けて――
「――メナリィ! 聞いてくれ! お前に、見せたいものが――」
サイハが、目にした先。
壊された正面玄関から、霧混じりの風がサイハの頬を撫でた。
「……ぇ……」
サイハが、喉を鳴らす。
忘我の淵で漏れたそれは、声にすらならなかった。
……〈ぽかぽかオケラ亭〉には、争った跡が残っていた。
蹴破られた扉。
散乱した椅子。
棚から落ちた食器の山。
厨房に転がる調理器具。
そして荒れ放題になった店内のその片隅で、クマ社長が頭から血を流して床に倒れ、うっうっと声を殺して泣いていた。
見違えてしまったその場所に、しかしメナリィの気配だけが、どこにも残っていなかった。
――【来い。〈蟻塚〉へ】
かつてサイハたちが皆で夕食を囲ったテーブルに、クマ社長の血をインク代わりにして。
その書き置きと、葉巻の吸い殻が転がっていた。
「…………………………………………………………」
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
……………………………………………………………………………………ブチリッ。
何かが、切れる音が聞こえて。
サイハの目にはもう…………何も見えてはいなかった。




