5-2 : 雨
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その後もクマ社長は長い時間、エーミールへ昔話を語って聞かせた。
そして手向けの〈霊石〉が、ようやくチロチロと消えかけてくる頃。
クマ社長が去ってからも、エーミールは一人、ベンチに腰掛けたままでいた。
「……ヤーギル」
コートから銃を抜き、ぎゅっと抱き締める。
青い閃光。
カエルの姿になったヤーギルが、エーミールの胸に納まっていた。
「ケロロォン……」
「ごめん、ヤーギル……しばらく、このままでいさせてくれ……」
親友と呼ぶ〈蒸気妖精〉を、強く強く抱き締める。
その温もりを、決して離さないように。
「……ケロケロ」
前髪の垂れた主の顔をつぶらな瞳でじっと見上げ、喉袋をぷくぷくと膨らませながら。ヤーギルはエーミールが喋れるようになるまで、じっとそのまま待ち続けた。
献火台は夜に沈み、二つの月明かりも今宵は珍しく雲に霞む。
「……ヤーギル。私には――」
お互いの顔も見えない暗闇の中、ベンチにかけたままのエーミールが、そしていつ振りかに口を開いた。
「――私には、サイハのように十年も意固地になれる大切な人なんていない……。私にはメナリィのように、そんな無茶をする馬鹿をずっと笑顔で待ち続けるなんて真似もできない……できないよ、そんなこと……」
ポツリ。ポツリ。パタパタパタ。
鉱脈都市に、いつ振りかの雨が降る。
荒野へ水が染み渡り、その影を一段と黒くする。
ケロロッ、ケロロッ。
ヤーギルが、雨を喜ぶカエルの唄を歌いだす。
「監視任務だなんて、笑わせる……私は、自分のことしか考えていなかったじゃないか……ヤーギル、君の操者は、そんな冷たい人間さ……嫌になっちゃったよ、こんな自分が」
エーミールが俯いて、彼女にしか見えない何かを見つめながら消え入りそうな声で呟いた。
ヤーギルの口元に、雨粒が落ちる。
その一滴だけが、ほんのりとしょっぱかった。
「ケコケコ。エーミール殿。エーミール・ワイズ殿」
せめてもの雨除けにと、ヤーギルが小さなシルクハットを主の頭にぽふりと載せた。
「貴女は冷たい人間でも、嫌な人間でもありませぬ。貴女は、誰かのためにこんなにも苦悩することができるのです――そんな貴女はこのヤーギルめの、自慢の操者でありますゆえ」
そしてコツンと、ヤーギルは小さなステッキでエーミールの額を突っついた。
「ですからほれ、元気を出されい! ケロケケロ!」
「…………」
やがて、パチンッ! と。
ヤーギルを抱き締めていた腕が解け、暗闇の向こうでエーミールが自分の頬を叩く音がした。
「……。……ああ、すまない。一雨打たれてすっきりした」
「ケロンッ。それは上々でございますれば! はてさて、すっかり暗くなってしまいましたぞ? 早く帰らねば、サイハ氏が心配しております」
「あいつはそんなこと思わないよ。邪魔者がいなくてすっきりしてるだろうさ、きっとね」
「ゲロロォ……確かにそのとおりやもしれませぬ……」
「……ふふっ」
「ケロケロッ!」
微笑が零れて、エーミールは立ち上がった。
脳裏に浮かぶサイハの嫌そうな顔とうるさい声が、今は不思議と懐かしい。
雨を降らせていた薄い雲は晴れ、二つの月と無数の星が夜空をいっぱいに埋め尽くしていた。
「どれ、ただ鬱陶しがられるのも面白くない。少し寄り道して帰ろう、ヤーギル」
「ケロロォ? 何をなさるおつもりですかな? エーミール殿」
O脚でひょこひょこ歩きながら、カエルが主人と手を繋いで顔を見上げた。
「何、大したことじゃないさ――あのチンピラ男に、差し入れでもしてやろうと思ってね」
そう言って歩いてゆくエーミールの脳裏には、クマ社長が去り際に語った言葉が残っていた。
『メナリィの親父はよぉ、危ねぇ工事ん出るたんびに、ガキだったサイハに言って聞かせとったやんな――もしも二人が十八歳んなったとき、自分が傍にいてやれんかったら――』
◆ ◇ ◆
『――サイハ。聞け』
それは、彼の耳にだけ聞こえる声だった。
『レスローの男の仕事はな、命懸けだ。ある日急に帰ってこれなくなる。そういうこともあるってことを、頭の隅にきちんと入れとけ』
十年前から、ずっとずっと彼のなかに刻まれている声。
何回する気だよ、その話。と、彼はその声を笑い飛ばす。
『だからサイハ、オレと約束してくれ』と、けれどその男の声は、いつも真剣で。
――何だよ。何で「約束してくれ」なんて、オレなんかにそんな、かしこまったふうに言うんだよ。
彼が呟く。少年の姿をした彼が、大きな背中をした男の幻に向かって。
――いつもみたいに拳骨つきで、「約束しろ」って。なぁ、そう言えばいいだろ。……そう言ってくれよ……義親父。
少年の声は、いつの間にか叫び声になっていた。
それは記憶のなかへ、空想でもって切り込もうとする行為。
虚しく、儚く、届かない願い。
『もしもお前らが十八歳になったとき、オレがお前らの傍にいないようなことがあったらよ――』
――やめろよ、やめろ! 何でそんなこと言うんだよ! 柄でもねぇのに、オレに頼み事なんてすんなよ!!
少年の声は、涙声になっていた。
『そのときは、サイハ。オレの代わりに……』
――ふざけんな! それは義親父の仕事だろ!? 何でオレに、オレなんかに預けんだよ!!
泣き叫ぶ少年の声は、彼の空想が作り出したものである。
本当の記憶では、彼は義父のその言葉を聞き流していた。
どうせいつもの説教話だと。
だからこの慟哭は、どこにも、誰にも、届かない。
――オレが義親父の仕事を引き受けちまったら……何があんたを繋ぎ止めてくれんだよ! 待ってる妻ももういないくせに! あんたがオレたちとした約束まで、オレが取り上げちまったら……一体、何があんたを地面の下から帰してくれんだよっ!!
無力な空想を振り上げて、彼の頭のなかで少年が暴れ回る。
十年前の記憶が紡ぐ、義親父と慕った男の背中が語った言葉を、なかったことにするために。
その人の最期の声が、聞こえてしまわないように。
……けれど。
『……そのときは、オレの代わりに、お前が。あの子に世界を見せてやってくれ――こんな小さな街じゃねぇ、だだっ広い世界をな』
どんなに、空想のなかで少年が叫んでも。
泣き暴れても。
懇願しても。
義父が遺したその言葉を、なかったことになんてできはしない。
自分の約束を、拾ったガキに担がせて。
そうして、サイハが義親父と呼んでいたその男は…………二度と帰ってこなかった。
◆ ◇ ◆
――現在。
〈汽笛台〉、倉庫。
サイハは今日も一日中、外にも出ず飯も食わず、機械構造体をひたすらいじり続けていた。
この十年。九歳のクソガキから始まって、十九歳のチンピラに育つまで。ガラクタを掻き集めて少しずつ、少しずつ組み上げてきた、サイハ・スミガネ、一世一代の発明品。
〈クマヒミズ組〉に来んかと、クマ社長が何度も持ちかけてくれていた。
けれどそれじゃあコイツを組み上げらねぇと、フリー鉱夫として〈ジャコウユニオン〉の日雇い仕事を自ら選び。
伝手を頼って〈汽笛台〉に住み着いてからは、あり金すべてを注ぎ込んでジャンク屋を名乗り。
一心不乱。
単純一途に。
サイハはこの十年を、目の前に横たわる機械へ、ただひたすらに注いできたのだ。
大きな背中の男と交わした、たった一つの約束が。こうして彼を、この時点へと至らせる。
それは呪いと、誰かは言うのかもしれない――
「うるせぇ……」
過去の足枷と、気の毒がるのかもしれない――
「うるせぇ、うるせぇ……!」
事実、それはその通りなのだろう――
「だから……たかがそれが、何だってんだ!」
その憐憫に、チンピラは野良犬のように噛みついてみせて。
「オレが、勝手にやったことだ! オレが、好きにしたことだ! これが、オレの選んだ十年だ! ――誰にも文句なんて、言われて堪るか!!」
ボンッ!
何十回と耳にした爆発音を、また一つ積み上げて。
サイハの努力は、また無駄に終わる。
だはー……と、疲労困憊。
捲った腕でゴシリと一つ、額の汗を拭った。
「くそ……」
けれども。流れる水は、その一度きりでは止まらない。
「くそ……」
ゴシリ。ゴシリ。
何度も拭う。
それなのに……汚れた頬に次から次へと、しょっぱい水が流れてゆく。
「……くそ……くそぉ……くっそぉ……!」
サイハが一人呻くなか……
数か月振りにレスローの地を濡らした夜雨は、とっくに上がっていて。
窓辺から、湿った冷たい風が吹き込んだ。
そんなとき。
「――……全く……何をやっているんだい、君は」
背後から、溜め息交じりの声が聞こえた。




