センスの塊、「洋楽歌詞対訳」に注目しよう!
深夜に今晩は!シサマという者です。
実はここ最近、この「唯我独尊」エッセイが私の作品の宣伝ばかりになり、活動報告の拡大版みたいになっていた事に対しては常に反省しておりました。
ですから、今回は原点回帰とばかり、久しぶりに創作論へ舵を切って行きたいと思います!
まずは最近、私が小説やエッセイに加えて、「詩」のジャンルにも活動範囲を広げている事は、このエッセイでも述べさせていただきました。
投稿するからには、出来るだけ多くの方に読んで貰いたいという気持ちは当然ありますし、「詩」のジャンルであれば、日間ランキング入りに必要なポイントも他のジャンルより少なくて済む現実があります。
ですから、日間ランキングの最初のページに掲載されるトップ5入りは、私に限らず多くの作者様が常に目指す所ではあると思いますね。
とは言え、ジャンル詐欺等が問題になりがちなこの「小説家になろう」サイトに於いて、ランキングに載りやすいにも関わらず、他のジャンルから「詩」のジャンルに来て名前を売ろうという作者様は殆どいません。
その理由としては、そもそも「詩」のジャンルはそれほど多くの読者様がいないという現実と、明らかに小説やエッセイとは文章作法が異なるが故に、下手に作家としての引き出しを疑われかねない挑戦をする意味は無い、という現実があるでしょう。
更に、小説やエッセイには存在する「テンプレ」や「人気テーマ」が、「詩」のジャンルには存在しないという現実が挙げられると思いますね。
全体的な傾向として、「詩」のジャンルに於いても、「小説家になろう」サイトで日夜頑張る人を応援するメッセージ色の強い作品は、比較的多くの読者様を集められる様に感じます。
しかしながら、元来「詩」とは作者の心の叫びの様な側面がありますので、自分自身や自分が愛したもの以外の、「不特定多数」な対象に注げる情念には限りがあるのだと思うんですよね。
だからこそ、「詩」のジャンルの作者様達は、例えランキング上位を不動のものとした人気作品が登場しても、二番煎じを狙わず、心の叫びである自分に正直な作品の投稿を続けるのだと思います。
私個人としては、ランキング上位に断トツの作品が登場した場合、その作品の勢いが落ちてきてから自作品を投稿しようかな……などといった、「デイトレーダー」みたいな邪念が渦巻く時も、正直ありますよ(笑)。
ただ、そんな私でも自信作が完成した時は、ランキングの事など何も考えず、ついでに投稿時間も全く考慮せず(笑)、完成したらすぐに投稿してしまいますね。
それが真の詩人の姿ではないかなと思います!
……さて、そんな私は所謂「歌詞」の形限定で「詩」のジャンルに挑戦させていただいているのですが、それには理由があります。
まずひとつ目の理由として、大学時代から完全オリジナル志向のアマチュアミュージシャンを20年以上続けていて、大学で日本語と日本文学を学んだ経緯からも、歌詞を他人に委ねたくはなかったから。
そして、ふたつ目の理由としては、兄の影響で小学生時代から洋楽に親しんできた私が、洋楽の「歌詞対訳」の格好良さに魅せられたという体験があったからです。
私が洋楽に出会う前は、これまた兄の影響で当時のヒットチャートを席巻していた「安全地帯」というバンドを愛聴していました。
皆様ご存知、玉置浩二さんのいるバンドですね。
今思えば、当時の安全地帯の作詞を担当していた松井五郎さんの、日本語を大事にした、少ない言葉数で歌詞をまとめ上げる手法にも、私はかなりの影響を受けています。
現在のミュージック・シーンでは、アーティスト自身が作詞・作曲を行う事がほぼ常識となり、ヒップホップからの影響により、伝えたい言葉を削る事なく、詰め込む形の作詞が一般的となりました。
その一方で、高齢の音楽ファンは言葉とリズムの複雑さからヒットチャートに付いていけなくなり、先述の松井五郎さんも、自分のスタイルを曲げずに作詞が出来る演歌・歌謡曲フィールドに活動の場を移しています。
洋楽の歌詞対訳の魅力を語っても、今の若い音楽ファンにはピンと来ないと思いますね。
それもそのはず、今や音楽業界はライヴなどの興行に軸足が移っていて、歌詞カードというものが不可欠だったレコードやCDの時代は終わってしまったからです。
更に、レコード会社がCD不況の中で延命の為の経費削減を進める余り、洋楽の解説や歌詞対訳を省略する動きが顕著になった事も、「歌詞対訳」離れを加速させてしまいました。
しかしながら、洋楽CDを未だに購入している私の様な人間が、解説や歌詞対訳もろくに用意せず、輸入盤よりも1000円近く高価な日本盤CDを購入する訳が無いですけどね。
……あ、すみません。脇道に逸れました(笑)。
歌詞対訳の魅力の話に戻ります!
洋楽の歌詞は、当然そのアーティストの母国語か、ワールドワイドで通用する英語で歌われる事が殆どですよね。
しかし、日本語と違い、英語であれば一人称は「I」しかないので、これを「僕」、「俺」、「私」などと訳す選択は対訳者のセンスにかかっています。
つまり、洋楽の歌詞対訳は、アーティストのイメージによるキャラ付けが可能なんですよね。
ヘヴィメタル・バンドの歌詞対訳ならば、「俺」を一人称にワイルドなキャラ付け、繊細なシンガー・ソングライターであれば、「僕」や「私」といった常識人的なキャラ付け、しゃがれ声のソウルやブルーズ・シンガーであれば、「アタシ」なんてキャラ付けも可能でした。
キャラ付けをすると、歌詞の中のドラマだけで短編小説の様な世界観を構築する事が可能となり、作詞という作業にも良い意味での「厨二感」とでも言うか、「ダサ格好いい感じ」を演出する事が出来るのです。
この「ダサ格好いい感じ」は、私の歌詞の中で最も重要な要素なんですよね(笑)!
私の歌詞を読んでくれた方なら、絶対に納得してくれると思います。
そして何より、洋楽の歌詞対訳の魅力は、オリジナルの歌詞と読み比べて、アーティストと対訳者のセンスの対決を楽しむ事が出来る点ですね!
洋楽の歌詞、特に英語の歌詞の場合、音節的に日本語よりも言葉を多く詰め込める為、日本語の対訳は直訳という訳には行きません。
言葉が多くなってしまい、歌詞としてのリズムが崩れてしまうからですね。
従って、時には言葉を省略し、時には日本語独自の解釈を加えるという作業が必要となり、ただの通訳者では歌詞対訳の仕事は務まらないのです。
私が洋楽に馴染んでいた80年代の後半から90年代にかけては、作詞家を本業とされていた湯川れい子さんや、フォークシンガーが本業であった中川吾郎さんが歌詞対訳で大活躍されていました。
その中で、中川吾郎さんのキャリア史上、「最高の誤訳」と言えるものがあります。
1987年、オーストラリアのアーティスト、コリン・ジェイムズ・ヘイの「CAN I HOLD YOU」という曲ですね。
この曲の歌詞に、「REALLY」、「LONELY」、「WORLD」という言葉が登場し、直訳すれば、「それは本当に寂しい世界だよ」となる一節です。
しかし、中川さんは何故か「WORLD」を「WORD」と聞き間違えてしまい、「ホントウ?って寂しい言葉だね」と訳したのです!
私はこの対訳を読んで、オリジナルよりずっと素晴らしい!と感涙に咽び、それ以降、中川吾郎さんの歌詞対訳は必ずオリジナルと読み比べ、オリジナルを超える誤訳が無いか血眼で探したものでした……もう誤訳無かったけど(笑)。
私にとって洋楽の歌詞対訳は、自分自身のキャラクターを超越したドラマを生み出せる最高のお手本として、今日まで私の作詞活動に寄り添って来ました。
また、幼い頃から洋楽に馴染んでいた為に、歌詞対訳のないCDや配信で楽曲を聴いても、バラード系であればある程度の歌詞聴き取り、脳内対訳が出来る様になり、そこから自分の歌詞のアイディアを膨らませる事も出来る様になったのです。
従って、私は好きなバラード系の洋楽を聴きさえすれば、歌詞のアイディアに困る事はありません。
こればかりは、CDやミュージック・ビジネス全盛の時代に、働かなくても良い学生であった自分の幸運に感謝しなくてはいけませんが、洋楽の歌詞対訳に関しては、歌詞の文字数が多いヒップホップやレゲエ以外の有名アーティストであれば、まだ行われています。
今や絶滅寸前のレンタルCD店にも、ボロボロではあっても歌詞カードはあるはずです。
皆様も今一度、洋楽の歌詞対訳の世界を味わってみて欲しいと切に感じますね!




