「俺はお前らとは違う」という意識は人間として持てばいいだけで、作品にまで持たせる必要はない
今回は、最近再びエッセイの題材として盛り上がりつつある、テンプレ的手法と反テンプレ的手法、或いは短編小説等の在り方を巡る正統行為と邪道行為といった、相反する要素について考察したいと思います。
結論から先に言わせていただくなら、これらの相反する要素を無理矢理取捨選択させたり、強引に自分の価値観やポリシーに組み込まなくても良いというのが、私の意見になりますので、以下の文章はその事を踏まえて読んでいただけると幸いですね。
コロナウイルスパニックによる自粛傾向が継続される中、新世代ユーザー様の参入、また暫くの間、「小説家になろう」サイトから距離を置いていたかつてのユーザー様の復帰で、レビューやエッセイ等に見られる価値観や問題意識には、明らかな変化が見て取れました。
新世代ユーザー様の特徴として、レビューやエッセイでの意思表示に積極的である反面、ブックマーク作品やお気に入りユーザーの存在が無く、他作品の評価もした事が無いという傾向が挙げられます。
この特徴は、これまでこのサイトを支えていた「読者から作者へ」という流れを変え、より幅広い指向の作品がかつての主流を忘却へと追い込みかねない、「なろう戦国時代到来」の前兆となる可能性もあると言えるでしょう。
「小説家になろう」サイトでの活動に慣れた世代のユーザー様は私を含めて、「不満が無い訳じゃ無いけど、騒ぐより自分の作品を書き続ける方がいいよな……」といった、ポジティブ思考と諦観の狭間で揺れる事が多かった様に思えます。
一方、新世代ユーザー様は主張の押しが強く、タイミングを逃さない行動力や集中力を持っている印象がありますね。
これはインターネットという存在が、物心ついた瞬間から身近にあった世代ならではで、こういったかき回し役がこのサイトに来た事を、私個人としては素直に歓迎したいと思いますよ。
さて、私は以前からエッセイで述べている様に、作者としても読者としても、所謂「なろうのテンプレ的作品」に余り興味はありませんし、短編小説を投稿する時には、それ1本で完結する物語を投稿する様にしています。
しかしながら、これは別に「俺は安易な流行りには乗らない」といったプライドや、「短編小説とは言えないプロローグ的な作品を投稿して、読者様を混乱させたくはない」といった正義感によるものではありません。
私自身が1970年代半ばの生まれであり、私の世代の人間として心身に染み付いた、「常識」に乗っ取って書いているだけなのです。
そして、私がこの「小説家になろう」サイトに来て目指すものは、高評価や書籍化とは関係無い、「ぼくのかんがえた、さいきょうのラノベをかく」という一点だけであると断言させていただきますね。
「小説家になろう」サイトでは、いくら本格派の純文学を書いた所で、その作品を真に評価してくれる場所は「小説家になろう」サイトではないと思います。
また、いくらテンプレ的な手法に頼らない名作で書籍化を実現した所で、プロの作家としての評価はせいぜい、「なろう出身作家としては骨がある」程度のものでしょう。
私は、自分の目指す作品の為に、「なろうテンプレ的手法」や、時には読者様を混乱させかねない実験精神も含めて、普段は使いませんが、必要な時はいつでも使える様に、手元でアップデートさせ続けておきたいのです。
私の処女作であり、未だに1話あたりの文章量が15000字を越えている唯我独尊連載作品「バンドー」は、近未来の世界観は勿論、剣と魔法の在り方や役所のシステムに至るまで、リアリティと整合性にはこだわっていました。
しかしながら、その世界観の中に、ポツンと不思議な能力のある動物や、人間界で修行中の女神様も登場しているんですよね。
どちらかと言えば、何でもアリな異世界のテンプレ的作品に登場させるべきキャラクターです。
私がこうしたキャラクターを、リアリティや整合性にこだわった作品に敢えて登場させている理由は、人間のキャラクター達が現実の世界さながらの窮屈なルールを無意識に守っている、そんな描写との対比によって、動物のファンタジー性や女神様の超然とした能力を自然に描けるからなんですよ。
テンプレ的作品、特にファンタジー作品には女神様がかなりの確率で登場しますが、その大半で、魔法以外で女神様の差別化を図れる描写は少なく、「優しいお姉さん」、「ポンコツお姉さん」、「わがままドSお姉さん」の3タイプに押し込まれてしまう限界を露呈しているんですよね。
女神様という設定が勿体無いと感じます。
この様な具体例を紹介させていただきましたが、要はテンプレ的作品や手法に興味は無くとも、敢えてそれを排除する意味は無いという結論ですね。
私は以前、このエッセイでも述べましたが、私の作品のテーマは「人間の意地」であり、それ以外のテーマは読者様が各々読み取っていただければそれで良いと思っています。
この「人間の意地」というものは実に厄介で、作者本人が素直に長いものに巻かれる性格で無い限り、無意識でも絶対に出て来るんですよ。
そして、その描写を待っている読者様にとっては、その「人間の意地」の描写が、「水戸黄門」の印籠ばりの超テンプレとなり、定番安心の見せ場となって行くのです。
作者の個性は、読者様にとっては既にテンプレなんですよね。
一方、投稿手法に関して言えば、私は今の所「短編ガチャ」の様な、読者様を混乱させる様な手法を取るつもりはありません。
しかし、仮に私が主人公が2人いる作品のアイディアを思いつき、片方が死んでも、もう片方がステータスやスキルを交互に受け継いでいく、「間接的不死身無双もの」の様な作品を書いてみたくなった場合はどうしましょう?
新しい事に挑戦したい意欲と、過去の手法が通用しない斬新な手法の実験、そしてその存在を多くの読者様にアピールする為に、「短期集中連載ガチャ」みたいな手法に手を染めないと、100%断言は出来ませんね。
勿論、読者様を混乱させかねないこういった手法は、特別な事情が無い限りするべきではないと考えています。
仮に、一刻も早く書籍化してプロになりたいというモチベーションがそうさせているのであれば、同様の手段を活用しているプロ作家の生き様を目に焼き付けておくべきでしょう。
とあるプロ作家は、「短期集中連載ガチャ」を多用して評価の高い作品を選び、プロ作家であり続けておられますが、彼の書く小説は「(冷静な判断を下す為に)自分が書きたくない、好きじゃないものを書くようにしている」そうで、「読者からの感想は一切見ない様にしている」とも語っておられます。
これはつまり、プロ作家である事を一切楽しめないとしても、堅気の仕事は自分には出来ない、やりたくないという、決死の覚悟があるからと言えますよね。
この覚悟がある作者様は、試行錯誤を繰り返しながら、離脱する読者様以上の愛読者様を獲得して行って貰いたいものです。
小説を読みたい、書きたいと思われる様な方々は、人間としての正体は別として、人一倍プライドや正義感が高かったりするもの。
テンプレ的作品や短編ガチャが批判の槍玉に挙がる理由も、そのやり方で得をしている人間が多く、一方で「小説家になろう」のイメージや出版状況が悪化している事による、恨み・妬み・今後の懸念が表面化したものであると考えています。
とは言え、多数派に対して「俺はお前らとは違う」という生き様は、作者様個人のパーソナリティに止めておき、自らの作品をより良くする為には視野と門戸を広げておく事が何よりも重要であると感じますね。




