聖女と偽物の聖女
―― 一週間後
ガラスから差し込む朝日はまだ淡い色をして、温室の中に静かな光を映している。
薬草畑から漂う爽やかな香りは、いつもより鮮やかに感じられた。
今日、フィデリオ様が戻ってくる!
いつもより早く目を覚ましたラウラは、部屋にいても落ち着かないため温室に向かった。
皆が来る前に、オリヴァー薬師長に頼まれていたヴェレ草の収穫に取り掛かる。
生い茂った薬草は、葉が大きく枝分かれも多い。
「これは成功なのでは!」
深緑に覆われた畑を見て、ラウラは思わずつぶやいた。
オリヴァーさんが言うには、この種は通常より成分が濃い品種だそう。
でも、その分きっと苦くなっているはずと言ってたっけ。
そんなに苦いのかな?
薬草を摘みながら、ラウラは葉を一枚口に入れた。
「ん゛ん゛っっ‼」
慌てて駆け出し、畑の横にある湧水を両手ですくって口をすすぐ。
くぅーーー苦いなんてもんじゃないっ! せっかく大量に採れてもこれじゃ駄目ね。
ん? でも、苦みは強烈だけど香りはいいかも。
調合次第ではいけるかしら?
ラウラが毒消し草を見つめながら考えていると、薬草園の入り口から声が聞こえてきた。
あれは……リーアムさん? オリヴァーさんの声もする。
ううん違う、全員いる!
どうやら薬師たちも、ラウラと同じように早起きをしてしまったようだ。
皆、フィデリオの帰宅を待ちわびている。
ラウラは嬉しくなり、収穫の手を早めた。
バルウィン家の調合施設に、薬草の香りが立ち込める。
蒸留器の音色が響く中、薬師たちは慣れた手つきで作業の準備を始めている。
ラウラは籠いっぱいに収穫したヴェレ草を持って、温室から調合施設へと向かった。
「皆さんおはようございまーす」
「おはよう聖女ちゃん。、もう来てたんだ」
「聖女ちゃんおはよう」
「おはよう! よく育ってるねえ、さすが聖女ちゃん!」
温室から出てきたばかりのラウラに、薬師たちが次々に声をかける。
「おはようございます皆さん。もう! 『聖女』って言いすぎです! たまには名前で呼んでください」
籠いっぱいの薬草を抱えたラウラは、葉の間から顔を覗かせて少しだけ眉を下げた。
薄紫色の瞳が、温室に差し込む日差しにきらめいている。
「いいじゃん、もう慣れたでしょ。それに、うちには『学者』もいるし」
「オリヴァーさんは薬師長ですからね!」
「そんなこと言わないでくれよ聖女ちゃん。俺は気に入ってるんだよねえ、この呼び名」
「私は恥ずかしいんですっ!」
いつも優しい薬師たちに、ラウラも本気で言っているわけではない。
今日はやけに『聖女ちゃん』と呼ばれるので、少し冗談を言ってみただけだ。
「特にエルノさん! この前みたいに街中では呼ばないでくださいよー」
「わかってるって。じゃあ聖女ちゃん、その薬草をこっちにもらおうか」
「もうっ! はい、お願いします」
にこにこしながら腕を伸ばすエルノに、ラウラは薬草の入った籠を渡そうと背伸びをした。
その瞬間、鼻先を甘い香りが撫でるように通り過ぎた。
同時に、目の前にあったはずのエルノの腕が、だらりと垂れさがる。
「え?」
驚いたラウラは、周りを見回した。
目の前のエルノだけでなく、薬師たち全員の視線が温室の入り口に集中していることに気づく。
無意識のうちに、ラウラも皆と同じように入り口へと身体を向けた。
「皆さんこんにちは。わたくし、フィデリオ様に頼まれてここに参りました」
入り口には、見たことがない女性が立っていた。
彼女から発せられる声に、薬師たちが一斉に息を呑むのがわかる。
膝の裏までありそうなほどの長い髪が、銀の糸のように揺れている。
長い睫毛に囲まれた瞳は、朝焼けを思わせる淡いピンク色。
高揚した頬を持つ肌は、同じ人間とは思えない程真っ白に輝いていた。
温室にいる者全員の注目を浴びた女は、また口を開いた。
「フィデリオ様から……『屋敷に偽物の聖女がいるから、追い出してほしい』と、頼まれたんです」
美しい女はそう言うと、悲しそうな表情でをラウラを指さした。
「さあ皆さん、彼女をここから追い出して!」
「えっ! 私?」
「そうよ、偽聖女さん」
「待ってください、偽物呼ばわりされるも何も……わた……んんっ」
困惑した表情で声をあげたラウラは、急に喉を詰まらせた。
さっきまで離れた場所に居た女が、いつの間にかラウラの目の前に立っていたのだ。
驚くと同時に、息苦しさで声が出せなくなっていた。
むせ返るような匂い……この美しい女性から?
何かに似ているけど、今までに嗅いだことがないくらい濃厚で眩暈がする。
これ以上吸い込むと気分が悪くなりそう……そうだ、皆は大丈夫なの?
ラウラが辺りを見回すと、温室内に居る薬師たちのほとんどが、だらしない表情で女を見つめていた。
まるで夜の灯りに群がる虫のように、全員焦点の定まらない瞳で女の周りに集まりはじめる。
おかしい、こんなの普通じゃない……。
そう感じたラウラは、すぐにこの場から離れようとした。
しかし、異常な足の重さに、ゆっくりと後退ることしかできない。
そのうえ、胸焼けするような香りにまとわりつかれ、息を吸いたくない。
ラウラは、両手に抱えたままの薬草を見つめた。
さっき摘んだばかりのこのヴェレ草は、オリヴァー薬師長の自信作。
一枚齧っただけで、わずかに体調が良くなったのはラウラも体験済みだ。
普通の薬草より、かなり効能が高いのは間違いない。
しかし、これが信じられないくらい苦いということもわかっている。
「やるしかないか……」
ラウラはぽつりと呟き、大きく息を吸い込むと薬草の束に顔を突っ込んだ。
そして、食べられるだけ口に頬張り思い切り噛みしめた。
「う゛ぅぅーに゛がーーーーいぃーーーー!! 舌が痺れる゛ぅぅーー」
「あら、偽物の聖女は馬鹿なのね」
薬草の束から顏をあげたラウラを、淡いピンクの瞳で軽蔑するように睨んだ女は、唇の端だけをあげて笑っている。
女の周りには、目の輝きを失った薬師達が、すがるように取り囲んでいた。
全員がラウラの事なんて完全に忘れているかのようだった。
そんな薬師たちに向かって、女は両手を開き、まさに聖女の微笑みを見せた。
「皆さん安心して、わたくしが本物の聖女! ロクセラーナよ」
「このかたがーほんもののせいじょさまーなんてうつくしいー」
「せいじょさまーーにせものをおいだしてくださーいー」
「おまえはにせものーせいじょじゃないー」
いままで一緒に仕事をしてきた仲間たちが、ラウラを指さして声をあげている。
薬草の苦みに顔をしかめながら、ラウラはゆっくりと後ろへ下がった。
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