三十七話 月夜の潜入
結局、陽が沈むまで部屋の中で過ごした。
中層は普段の倍の人数の兵士が巡回していたと聞いたし、もう外でやるべきこともなかった。
そして自分で思っていた以上にこの姿は目立っていたらしく、既に街の一部では様々な噂と憶測が囁かれていたそうな。
陽が沈んだ街並みは、月明かりの下で静かに眠っている。
上層と中層とを隔てる大きな城壁から程近い家の屋根の上。
暖炉でもあるのか、煙突の陰は身を潜める場所としては絶好のポイントだ。
「何かあったら連絡しろ」
「はい」
周囲の屋根の上には、あの宿にもいた協力者たちの姿がある。
彼らはずっと前からこの都市に潜み、情報を収集し、エクスフレアの家に従ってきた影の者たち。
彼らにしてみれば、こんなに目立つ真っ白な女の子の姿はさぞ迷惑だっただろう。
作戦はあくまで静かに隠密に行うけど、もしもの時は彼らが外で陽動をしてくれる手筈になっている。
昼の一件で上層へ至る門の警備兵は増員されているけど、城内は普段と変わらないだろうという見解だった。
背中をはだけさせたぼさぼさ髪の猫背の女、その紋様が刻まれた背に誘われるようにぴとりと左手を当てた。
女は小さく頷き、口を開いた。
「探知します」
壁の向こう、上層の奥にあるだろうそれを目標に転移するのは決まったけれど、それを俺がどうやって認識するのか、という根本的な部分が未解決だった。
ルデラフィアに相談した結果、おあつらえ向きな奴がいる、ということで。
自分の匂い、色、痕跡。
かなりの距離があるだろうそれを知覚、認識するのは並大抵のことではない。
が、目の前で気だるそうに魔術を行使する女は、どうやら優秀な魔術師らしい。
「あー……ありましたよー」
ぴくん、と僅かにその背が震えた。
その言葉に次いで、目の前の女の感覚が手の平を通して伝わってくる。
大きな大きな、とても大きな傘、その内側に雨を降らせる、その雨は全て自身に繋がっている。
それに触れた魔力、その位置を把握する、魔力探知の魔術。
「すごい」
俺の魔力がしっかり染み付いている、遠い遠いそれに意識を定める。
その周囲にはどうやら魔素を揺り動かす者はいないようだ。
右手の人差し指、その付け根に刻まれている血の色をした痕が疼いた。
壁に隔てられたずっとずっと遠く、だけどいけそうな感覚。
「それじゃ、行ってきます」
一度、深呼吸をしてから。
魔術を発動した。
視界が切り替わった瞬間、床に足が着いた安心感を飲み下し、すぐさま周囲の状況を確認する。
何かが動く気配はない、窓に厚手のカーテン、月明かりが僅かに漏れる薄暗い部屋。
魔素が薄すぎて視覚の助けにはなりそうにない、距離の問題だろうか、ごっそりと魔力が抜け落ちた感覚。
その場にしゃがみ、耳を澄ませる。
……ここはどこだろう。
物音一つしない中、静かに移動して恐る恐るカーテンを開けた。
今夜は薄い雲が時折月の上を滑るだけで、明るく地上を見下ろしている。
ようやく部屋の様子が見て取れた……ここは裁縫の為の部屋か。
織物の器具や丸められた布、壁には様々な道具が並べられた棚。
部屋の中央のテーブルには、ああ。
これから刺繍が施されるのだろう魔布が、淡く魔力を湛えている。
「……」
ほんの少し考える……これを回収するメリットとデメリットを。
メリットは勿論、この恥ずかしいものを処分することによる俺の心の安寧。
後は、ルデラフィアは仕込みと言っていた……つまりこれが俺のものだと分かっていた。
魔術師全員がなのかは分からないけど、恐らく個々人の魔力は判別がつくのだろう。
この魔布の製作者が俺だとバレることの、未然の防止。
デメリットはなんだろう。
この城に忍び込む手段が一つなくなる、くらいか。
この先また城に侵入しなくてはならない状況なんて……あるのかなぁ。
全くないとは言えないけど。
んー。
「とりあえず、置いておこう」
アーティファクトを手に入れた後は転移魔術で逃げることになると思うけど、その時に跳ぶ目標は……外にいるルデラフィアだ。
万が一何かが起きて彼女を見失った場合、退避場所として一旦ここに跳べるのは一つのメリットと言える。
一息ついて、見取り図を思い出す。
この都市の最奥、岸壁よりやや離れた位置にこの城は建っている。
前方を三枚の長大な壁、後方を峻厳な岸壁に守られたこの城自体に城壁はない。
城というより豪壮な邸宅と言ったほうが近いだろうここは、下層へ向け低くなっていく都市設計上、最も高い位置にあり街並みを一望できる素晴らしい立地だ。
周囲には兵士の為の広大な修練場やなんらかの加工施設もあり、なるほど城砦都市と騎士団と、全ての上に立つ者の見る景色か。
だけど窓から見える街並みは遠く離れるにつれて、人口密度とは逆に明かりが少なくなっていく。
この反比例の景色をあの若き王はどう思っているのだろうか。
三階建ての本館、見える外の様子からここは恐らく二階だろう。
黒っぽい布を拝借して身に纏う。
音を立てないように押して開いたドア、その先の廊下には……誰もいない。
そもそもここまで侵入されることを想定していないだろう。
それでも慎重に、尖塔までの最短ルートを思い浮かべつつ足音を殺す。
何も起きませんようにと祈りながら。
結局、兵士どころか何一つ動くものに遭遇しないまま尖塔の一番上、小部屋の前に辿り着いた。
借りた布を脱ぎ捨てる。拍子抜けもいいところだった。
扉に何か仕掛けられている風でもない、引いて開ける。
円形の小さい部屋、奥の壁際には棺おけのような祭壇、その上に広げられた一枚の大きな羊皮紙。
分からないけど、分かる。
あれが『黒き魔女』……あの女が遺したアーティファクトだ。
目的のものを見つけた安心感からかそれとも油断からか、視界に入っていた筈のそれにすぐには気がつかなかった。
それは危機的な状況でもなかったし、それは殺意や敵意を抱くものでもなかったから……いや、違う。
恐らく理解を、拒んだのだ。
濁った薄くとても薄くて青い、おびただしい数の魔力の結晶が、部屋の隅を埋めるようにいっぱいに無造作に積まれていた。
「う……、……っ」
情けなくうろたえ叫び出さなかったのは、単純にそれ以上に怖くて息が詰まったからだ。
部屋はそこまで広くはない、奥の祭壇までこの小さな足でも十歩もいらない。
しかし手の平よりもっと小さい魔力の結晶が、こんな何百、何千……。
「なん……だよ、……これ」
息ができない。
この身体に呼吸は必要ない筈なのに、胸が苦しい。
息を深く吸う。ゆっくりと吐く。落ち着く為のルーティンとして。
扉を閉めるのが怖い。
人が来ることはないだろう、もう一度深呼吸した。
この魔力の結晶は、間違いなくこのアーティファクトを使う為に用意されているのだろう。
それでも尚、湖の水……液体化した膨大な量の魔力を求めたということは、ここにある魔石では足りないということ。
何人か死んだというのは、『木々を食むもの』の犠牲のことだろうか。
これだけの量を集めるのに、どれだけの人数と時間を費やしたのかは、考えたくもない。
「……」
湖の水、エリクシルが手に入らなかったということは、代替は『木々を食むもの』……魔力の結晶しかないだろう。
この国のどこかに監禁されているのだろうか。
何人。何十人。何百人。
これを……アーティファクトを盗み出せば、彼らは必要なくなるのだろうか。
食い扶持を減らす為に殺される者もでるのだろうか。
先のことは分からないけれど。
この遺物は、ここにあってはいけないと思う。
足を一歩踏み出す。
壁と床を埋め尽くすような量なのに、この部屋は濁りくすんでいる。
ニャンベル・エクスフレアは言っていた。
『木々を食むもの』がその身に生成する魔力の結晶は、体調や精神状態に大きく影響されると。
純度の高い良質な結晶を生成してもらうには、それなりの手間がかかると。
身体と心を痛めつけられ、生命を絞り出すように作られた結晶は、小さく脆い、粗悪なものにしかならないと。
そんな非効率的なことは、私たちはしない、と。
彼女らにとっては、ペットのような感覚なのだろうけど。
愛玩と虐待。
祭壇の前に立つ。
その大きな羊皮紙には何も書かれておらず、何も描かれていなかった。
それに触れようとして、手が止まった。
これを持ち帰ったとして。
三狂の魔女、彼女らは、これを使う為の魔力をどこから調達するのだろう。
テテとトトの顔が思い浮かぶ。
視界の端、まるでゴミのように乱雑に詰まれた結晶に胸がざわつく。
いや。
エリクシル……大量の魔力を内包するこの身体。
だから、俺か。
広げられた羊皮紙、その中央に誘われるように左手で触れた。
その瞬間、運ぶだけで何人か死んだという言葉の意味が分かった。
視界が真っ暗に弾け、何かを吐きそうになった。
魔力が根こそぎ奪われていく。
「う、ぉ……っ」
手は吸い付いたように離れない。
羊皮紙に隠された祭壇の上面に、この大陸の地図が刻まれていたことに気がつく筈もない。
周囲の結晶からも魔力を吸い上げるアーティファクト……羊皮紙の上に、酸化した血のような液体が滲み出てきた。
粘度の高いそれは意思を持つ生き物のように紙の上をずるずると這い回り、別れては集まり、奇妙な跡を滲ませていく。
それは山で、それは森で、それは町だった。
「なん、だ……?」
描き出された奇怪なうごめく地図は、勿論ただの地図ではなかった。
今この時この瞬間の人の営み森のさざめき水の流れその波紋全てが緻密に描き出されていく。
意識を向けた場所がうごめきずるずると拡大されていく。
今この都市の壁の上、見張り台を歩く兵士の姿が見える、まるで全てを睥睨する大きな二つの月、それが自分の目になったような──。
手を、意識を無理やり引き剥がそうと試みるけれど、別の意思でも働いているのか身動き一つ取れない。
周囲の結晶はもう光を湛えておらず、俺の中にあった筈の膨大な魔力もほとんど尽きかけている。
どうせならと地図の上で、中層にいる筈のルデラフィアを探す。
赤黒い血のような液体は街並みを気持ち悪いほど鮮明に描き出し、闇に紛れて潜む協力者たちの姿と、ああ。
「……いた」
その姿を見て安心した直後。
残りの魔力も引き摺り出されて、意識が飛んだ。




