三十三話 濡れ鼠の実験場
「ちょっといいかしら、シエラちゃん」
黙々と作業を続けるヒューリック。食事の支度をするグレイス。手持ち無沙汰な俺。
何か手伝ったほうがいいのだろうか。
皮革の扱いなんて無理だから料理だな。そう思ってグレイスの周りをうろちょろとしてみるも、危ないから離れてろと言われてしまった。
屈辱の子供扱いだった。
暇を持て余していた俺をこっそりと呼び出したのは大男、ルーザー・メロロウ。
彼らから離れるように手を引かれ、二階の空き部屋に連れ込まれた。
一握りの恐怖心が芽生える。
客用だろうか、最低限の家具しか置かれていない生活観の感じられない簡素な部屋だった。
燭台に火を点けたルーザーに椅子に座るよう促され、おとなしく従う。
そして何をされるかと思えば、ルーザーは俺の髪に櫛をかけ始めた。
「シエラちゃん。あなたはきっと、優しい魔女なんでしょうね」
「……それは、どういう」
魔女。
その言葉にあの黒髪の女を思い出す……そして、あの三姉妹のことを。
「グレイスの異名は知っているでしょう?」
『魔女殺し』。
とても物騒なその名を、確か三姉妹の長女ヴィオーネも口にしていた。
沈黙は肯定だと捉えられたようだ。
「あのグレイスが、あなたには敬意を持って接しているもの」
「……仲が良いんですね」
そうね、と呟いたルーザーの大きな手は、酷く優しい。
見た目とは違い繊細で丁寧な仕事をするのだということは、店内の品々を見れば一目瞭然だった。
「仲良くしてあげてちょうだいね」
「……はい」
その言葉にどれほどの意味が込められているのだろう。
ルーザーは俺の頭にその大きな手をぽんと乗せてから、部屋のドアに手をかけた。
「私とも、ね」
ばちーん!
と、幻聴が聞こえるほどのウインクをして、ルーザー・メロロウは部屋から出ていった。
「はは……」
でも敬意って多分、あの一件からなんだよなぁ……。
その夜は酷かった。
体格は違えど見上げなければならない上背の男が三人、水のように酒をかっ喰らい、特にグレイスとルーザーの絡みはなんというか……いや、止めておこう。
料理はとてもおいしかった。
土鍋にこれでもかと野菜と肉を突っ込んだそれは、大味だったけど不揃いな素材それぞれが味を引き立てあい、身体も心も温かくなるものだった。
最初はね、みんな多分俺に気をつかってたのだろう、静かな食卓だったんですけどね……。
いやぁ、お酒ってこわいですね。
グレイスは飲みながら、俺が渡したシーツ……もとい魔布を手放すことになってしまったと愚痴混じりにこぼした。
結局持ち帰ることができなかった湖の水、その罰だか補填だかで王様に献上せざるを得なかったらしい。
しかしその出来栄え(?)に王を含めその場にいた者たちは舌を巻いたという。
グレイスと俺は、ルーザーの店の二階にある空き部屋で一晩を過ごすことになった。
もちろん別々の部屋で。
窓を押し開けると月明かりは完全に雲に遮断されていて、通りには僅かな明かりしか灯っていない。
その明かりも今は、さぁさぁと降る霧雨でぼやけている。
下を覗き込むと店先からは明かりが漏れている……そういえば徹夜で作業すると言っていたっけ。
部屋のドアには簡易的ながら鍵がかけられている。
朝まで夜遊びしても問題なさそうだ。
「よし」
通りの反対側、建物の屋根を注視してから窓を閉めた。
小さな蝋燭の火だけが余分な家具のない部屋を照らしている。
さっきまで見ていた光景を目蓋の裏に思い浮かべながら、人差し指の付け根……刻まれた痕に唇を押し付けた。
「……んー?」
転移はできなかった。
窓を僅かに開け、隙間から遠く屋根が見える状態で再び口付ける。
魔力が流れる感覚。
まばたきもしないうちに細かく冷たい霧の中に、屋根から一人分離れた上方に現出した俺は、体勢を崩して手をついて着地した。
「あっぶね」
なんでズレたんだろう。
すぐに振り向き、数センチ開かれた窓……漏れた明かりを睨み付けてもう一度転移の魔術を発動。
今度はぴったり、思った通りの場所に着地。
「ふぅ……うわ」
思ったより肌の透けているワンピースドレスに驚愕しつつ、拝借していた小綺麗なタオルで湿った髪を拭う。
結われていた髪は湯浴みのときに解いてしまったから、今はそのまま垂れ流している。
何度か条件を変えて試してみよう。
初めてコレを使った裏路地のときはあまり考えずに使ってたけど、例えばアーティファクトを盗み出して逃げるとき。
例えば三狂の魔女と袂を分かつとき。
一度のミスが生死を分ける……そんなときにこの転移の魔術を失敗したら。
確実に成功する、確実に失敗するそのラインは、見極めておかないといけない。
どれくらい魔力を消費しているのかがいまいち分からないけど……今のところ体内に変わった兆しは見られなかった。
そして小一時間経ち。
試してみて幾つか分かったことがある。
この『知覚、認知している場所に転移する魔術』は、ニャンベルが使っていた『決められた場所へ帰還する魔術』を構成する要素の一部分だけを使用して発動している。
恐らくだけど、今の俺はあの魔法陣がなくても湖跡に『帰還』することができるだろう。
それをする意味はさて置いて。
この前者の転移魔術の知覚と認知は、『自身の匂いが色濃く残る場所』ほど精度が高くなる……と思う。
例えば自分の服が置いてある場所には目を瞑っていても転移することができた。
そう、ドアや窓で隔たれていても。
これは帰還の魔術にも同じことが言える筈。
ニャンベルがあの魔術を使ったのは自分の部屋へ戻るときと、邸宅の地下に戻るとき。そして城塞都市レグルスの下層にある小屋への移動。
それぞれに縁の何かが設置されていて、それを目標に転移、帰還していたのだろう。
それとやっぱり、自分以外の物を転移させることはできなかった。
ニャンベルはいとも簡単に自身以外の……俺やルデラフィアを転移させていたのに。
ベッドに身体を投げ出して考える。
アーティファクト、その場所さえ分かれば盗み出すのは簡単なのかもしれない。
ニャンベルが一番適任なように思えるけど……というかルデラフィアの性格上、正面突破とかしそうで怖いんですけど。
できること、できないことをしっかり考えておこう。
いざというときに迷わないように。
長い夜は更けていく。
陽が沈む前から降り始めていた雨は、朝陽が昇る頃には上がっていた。




