三十二話 竜と獣と魔女
侍女に案内されたのはいつものダイニングルームだった。
脚を組み、魔術書だろう分厚い本を読んでいるのはルデラフィア・エクスフレア。
テーブルにはぶどう酒が注がれたグラス。
その横顔はやはり美しく、声をかけるのに少しだけ勇気がいる。
……よし。
「遅くなりました、お姉ちゃん」
振り向くその顔にニヤリと笑みが浮かび、しかし眼光はやはり鋭い。
「よォ、派手な登場だったな」
ああ結界のことですね。
襲撃者だってあんな乱暴な方法は取らないだろう、ほんとごめんなさい。
完全にこちらに非があるし、苦笑いしか返せない。
「ニャンベルにはもう会ったか? ご立腹だったぞ」
「はい……。えっと、今は張り直してるみたいです」
そっか、と言ってルデラフィアの目がリチェルを捉えた。
そしてやはりその目が細くなり、じぃ、とまるで睨むように何かを……探るように見つめている。
「ふぅん……? そいつか、結界壊したの」
「よく分かりますね」
ちょいちょい、とルデラフィアの指がリチェルを呼んだ。
きゅる? と鳴きながら素直に、というか無防備に駆け寄るリチェル。
ソラは勝手に近くの椅子に腰を下ろしている。
「ほんのりままっぽい」
「あァ?」
ぎゅう、と抱き着かれたルデラフィアは、その銀の髪の間から生える立派な角を眺め、根元からなぞっていく。
その目は怪しい輝きを秘めている。
「へェ……。欲しいな、コレ」
……角を?
リチェルは自身が狙われているにも関わらず、のん気にルデラフィアの胸に顔を埋めている。
「良い触媒になりそうだ、なァちび。これ折ったら元に戻んのか?」
「んぇ……わかんない……」
に、にげてー!
獰猛な笑みを浮かべたルデラフィアから何かを感じ取ったのか、すすす、と後ずさり飛び込んできたリチェルを抱き止めた。
「ままー!」
「冗談だよ」
冗談に聞こえなかった……。
けらけらと笑うルデラフィアはぶどう酒をぐいっと呷ってから、読んでいた魔術書を閉じた。
小さな六枚の羽をぱたぱたさせて抱きつくリチェル、その背中と尻尾に視線が注がれる。
「三対の翼、ね」
「……はい」
感心したように呟き、惜しげもなく晒している長い脚を組み直したルデラフィアは、侍女にお代わりを催促しつつ続けた。
「じゃあもう乗り込むのか?」
「えぇと、そのことなんですけど……」
「なるほどねェ」
そう答え、何杯目か分からないそれを飲み干したルデラフィアは別の種類だろうか、透明度の高いぶどう酒を受け取って飲み始めた。
「どう思う? ヴィオ姉」
「そうねぇ……」
城塞都市の聖なる山での出来事、その後の枯れた湖での話を聞いた三姉妹の長女と末っ子は、唇を湿らせながら思案している。
ヴィオーネの膝の上、コアラみたいに抱き付いて眠ってしまったリチェル、その角を撫でる指は優しい。
……妙に指使いが艶めかしく見えるのはきっと気のせいだろう。
はらはらどきどき。
ソラは俺のすぐ隣で、テーブルの上に頭を乗せてうとうととしている。
ぺたりと伏せている獣の耳を撫でながら、俺も初めて見る透き通ったぶどう酒を口に含んだ。
……うわぁなにこれおいしい。
「アーティファクトを食べて成長したんでしょう? この子」
「えぇと……はい」
『月を背負う六つ羽根』の額に深々と突き刺さっていたアーティファクト『神槍』は、魔力を吸い上げ続けていた。
内包していたそれは凄まじい密度だった……魔素をも切り裂けるほどに。
そして魔力だけでなく、記憶すらも吸収していたんじゃないかと思ったんだけど。
「食べても記憶は戻らなかったのね」
「はい」
一つ一つ確認しながら、ヴィオーネは竜の少女の角を髪を小さな翼を優しく撫でている。
時々舌をちろりと覗かせるのが心臓に悪い。ないけど。
「そういうものなのでしょうね。殺す、或いは消すことに特化している」
だから、『神槍』。
神を穿つ為の槍。
「それを手にしたのなら、増長するのも無理ないわねぇ」
朽ちた巨大な神殿で相対した鈍色の男は、勝利を確信していたように見えた。
白き魔女が『転移の魔術』と『断罪』を行使することを知っていて尚。
むにゃむにゃしているソラの唇を撫でると、ぱく、と唇で甘く噛まれた。
お腹の下がぽかぽかする。
「それで、ここに来るまでに何度か魔力を与えたけど、特に変化は見られないと」
「はい」
俺の返事を聞いて、ヴィオーネは椅子の背もたれに寄りかかり、考え込み始めた。
眠ってしまったソラの頬を一度撫で、立ち上がる。
髪をくるくるといじる手持ち無沙汰なルデラフィアのところへ歩み寄り、リチェルの真似をして抱きつくように座った。
「あン?」
「……撫でたがっているように見えたので」
別に、ヴィオーネの豊満なそれに顔を埋めて気持ち良さそうに眠るリチェルが羨ましいとかそういうのじゃないですし。
目を切り替え、獣の耳を現出させた。ついでに魔力を廻らせ、獣の尻尾も。
小さく溜め息をついたルデラフィアは、しかし髪を背中をそして獣の耳を、ゆっくりと撫でてくれた。
「ソレじゃ飛べねェのか?」
ルデラフィアの紫の中に赤が燃える瞳が、俺の左目を見つめている。
改めて見るとこの人まじで綺麗だな。
よく強引に唇を奪えたな俺。どうかしてたのかな。
微かに香るアルコールの匂いと混ざったルデラフィアの匂いを、もう覚えてしまった。
「……この大陸しか見えないです。周りはもやがかかったようで」
月の姫の名が付けられたこの左目は、しかしこの世界全てを見ることができない。
元々そういうものなのか、何かが足りないのかは分からない。
仮に『神の樹』が見えたとしても、大陸の外へ跳ぶことになる……恐らく魔力が足りないし、どれくらいズレるのかは想像もできない。
俺の頭の上、獣の耳をふにふにといじりながらルデラフィアは続けた。
「変質は試したのか? そっちのちびの」
「まだです、けど」
この身体に羽を構成することはできると思う。
けれどそれを上手く操れるのかは分からないし、そもそもリチェルは滑空しかしていなかった。
高いところから、低いところへ。
「『三つ目』の対処も考えると、一人で飛んでいくのはやめたほうがいいんじゃないかしら」
まだ思案顔のヴィオーネが呟くように言った。
あやすように時折身体を揺らすその姿は慈愛に満ちていて、優しそうなお姉さんに見えなくもない。
騙されんぞ。
「……『三つ目』ってなんです?」
ルデラフィアの唇を見つめながら囁くように聞くと、ふい、と顔を逸らされた。
ぶどう酒を嚥下する白い喉が、美味しそうだと思った。
食い入るように見つめていたからか、グラスを手渡されてしまった。
「ここら辺では見ねェけど、あれだ。でけェ鳥だよ、馬くらいの」
そりゃでかい。
そんなのが群れを成して襲ってくるという。怖すぎでは?
受け取ったそれを一口飲み下し、最後の一口を含んだままグラスを返した。
テーブルに置こうと空いた手が俺の背中を支え、ルデラフィアは少しだけ前屈みになる。
口付けた。
「な、ん……っ」
強張った唇を舌でこじ開け、ほんの一瞬迷い、ぶどう酒と魔力を流し込む。
見開かれたルデラフィアの目が一瞬燃え、しかし困惑が勝ったのか眉根を寄せた。
頭と背中に手を回し、お姉さんぶっている末っ子の舌をねぶる。
口の端から垂れたそれを舐めとると、頬を両手でつねられた。
「あいたたた」
「……ったく、油断も隙もねェな」
口調は怖いけど、怒ってはいなさそうだった。
あまりに無防備だったからつい、というわけでは勿論ない。
ルデラフィアの体内を廻る俺の魔力が薄まっていたから念の為だ。
「あらあら」
ヴィオーネの声色は喜色に滲んでいる。
後頭部に舐めるような視線を感じて、背筋が震えた。
これ以上はやめておこう。
「この子、調べてみてもいいかしら」
一応の結論が出たのだろう、ヴィオーネはリチェルの髪を撫でている。
調べる……その方法が気になるけど。
「はい、お願いします」
ニャンベルの結界を破ったのだ、危険性は俺よりも彼女たちの方がよく分かっているだろう。
薄く笑ったヴィオーネは眠る竜の少女を抱え、立ち上がった。
私室に連れ込むんだろうな……本当に大丈夫かな。
ちょっとだけ不安に思いつつヴィオーネの背を見送る。
残されたのはルデラフィアと、抱きついている俺と、眠っているソラ。
現状、俺にできることは何もなさそうだ。
それならと思い立ち、椅子から降りた。
「散策してきていいですか?」
「ん? あァ」
新しくグラスに注がれるぶどう酒(何杯目?)、魔術書に目を落とすルデラフィアを横目に見やり、部屋を出た。




