二十八話 血の平野
酷く、静かだった。
月を覆い隠す低い雲が、音を全て吸い尽くしてしまっているよう。
『竜』に囲まれた兵たちは、浮き足立つことも騒ぎ立てることもせず、ただ武器を構え、眼光は鋭い。
ぐるりと首を廻らせる。
右に後ろに左に、以前追いかけっこをした『地均す甲竜』よりも一回り大きいそれが、その巨大な体躯の全てをようやくお披露目したところ。
そして前方、勇ましさを象徴する兜は鈍い光を湛え、しかし鎧を纏った馬から降りる気配はない。
「パパ」
するりと手から滑り、駆け出すニアリィの髪が風に揺れる。
……静かすぎる。
「……ソラ、フィアを乗せてあげて」
「仕方ないですね」
「ッハ、足引っ張んなよ」
青白い炎を横目に、ニアリィの背中を目で追いかける。
四肢に魔力を廻らせて、『吸血鬼』を手に取った。
酷く、嫌な予感がする。
ごう、と遥か後方から熱風が通り過ぎ、ワンピースドレスをはためかせた。
一瞬で過ぎ去ったそれは、前方で足取りも軽い、待ち望んでいた邂逅の背を押す。
『吸血鬼』に魔力を流し込み、足を一歩踏み出す。
全く魔力の通っていないものに対しては、僅かな抵抗もなくすり抜ける揺らめく黒刃。
集団の先頭、彼らを率いる将たる男はやはり馬から降りず、周囲の兵も沈黙を守ったまま微動だにしない。
これだけの数の『地均す甲竜』に囲まれて正気を保っていられるなんて、それはもう、歴戦の兵か若しくは……。
「パパ」
少女の声は歓喜に震えている。
その声に対する答えは、考え得る限り最悪のものだった。人差し指の付け根を噛む。
陽射しを受けて尚煌く、白刃の刃が振り上げられ、一閃。
ギチ、と。
振り上げた『吸血鬼』の刀身と、振り下ろされた輝く白刃が噛み合い、嫌な音を立てた。
背中でニアリィを押す、振り抜かれた剣先が、俺の左肩から胸までを切り裂いた。
「ふ、うぅ……、せーふ……っ」
「あ……っ、え……?」
呆然とした声を背に、見上げる。
レイグリッド・トルーガ、優しさを内包した巌のようだった彼の風貌は、落ち窪み、酷く冷たい。
ああ、身体を廻る魔力が絡み合って……そうか、ここまでを含めての『実験』か。
この騎士団全員、そして『地均す甲竜』、全て操られているなんて。
「ニア、逃げましょう。操られてる」
「そん、な……」
その声は震えて掠れている。無理もない、念願の邂逅だったのだ。
それがこんな形になるとは……後悔しても遅い、とにかくここを脱しないと。
言葉を失ったニアリィの手を引き、一旦距離を取る。
それを追いかけることもせず、焦点すら合っているのか怪しい光の宿っていない目は、暗い金の色。
遠く、ソラの背に跨り、周囲を爆炎でけん制しながら『炎剣』を振り回すルデラフィアの姿が見える。
……ほんとにいつも楽しそうだな、あの人は。
そして、大地が揺れた。遅れて、空気を震わせる咆哮。
再び振り返る、取り囲んでいた『地均す甲竜』が動き出し、それを迎え撃たんと兵たちも一斉に足を踏み出した。
これは、止められそうにない。
「……ソラ!」
俺の声を受けて、『地均す甲竜』を足蹴に大きく跳躍したソラが舞い戻ってきた。
その青い眼光は鋭い。
(それ、どうしたんです)
暴れ足りないといった様子のルデラフィアを見やりつつ、ソラの大きな下あごを撫でる。
「ニアも頼む」
「え、あ……」
呆然としているニアリィに、肩の部分が裂けてしまったケープを押し付けた。
ルデラフィアに引き上げられたニアリィは気がついてしまったらしい、顔を青ざめた。
「シエ、ラ……それ」
俺の左肩から流れ出るそれはワンピースドレスを赤く染める前に、青白い炎となって燃え上がっている。
これほどまでにばっさり切られても、痛みより魔力の喪失感のほうが上回っている。
普通なら痛みで動けず、失血によるショックで意識を手放しているだろう。
「ケープ、ごめんなさい。……あなたのお父さんを、止めてきます」
お腹に、『竜の心臓』に手を当て、服を再構成する。
目が合ったルデラフィアはただ一言、
「上手くやれよ」
と言い、『空駆ける爪』の背を撫でた。
何か言いたそうなソラの下あごをもう一度撫で、振り返る。
あの時の、操られていた『地均す甲竜』の姿を思い出す。
刻まれた魔法陣の解除、若しくは破壊……できる筈。
その為にはまず、おとなしくしてもらわないと。
左右から……俯瞰すれば北と南から、『地均す甲竜』の群れに挟まれる形になった兵たちは、しかし恐れることなく全力をもって迎撃している。
操っているのなら、ただ血を流すだけでいいのなら、棒立ちにさせるだけで良さそうなものを……理由があるのか、それともできないのか。
分からないけど、相対するレイグリッド・トルーガはわざわざ馬から降り、勇猛な兵たちを背に剣を構えて一人、俺を迎え撃とうとしている。
……どこか、強い意思を感じる。
完全に操られているわけではないのかもしれない。
だとして、戦わないという選択肢は残念ながら、ない。
左腕は動く。
完全ではないけれど、この身体の再生能力は早い。
戦闘中に全快するだろう……左手に『吸血鬼』を構え、四肢に全力で魔力を回す。
「行きますよ、レイグリッドさん」
返答はない。
けれど、輝く白刃の長剣を握る手に、力が込められたのが分かった。
真っ直ぐ突っ込み、レイグリッドの間合いの外から伸ばした『吸血鬼』の揺れる切っ先を突きこむ。
回避か防御かどちらにも対応できるよう……しかしどちらでもなく、思わず声が出た。
「んな……っ」
『吸血鬼』の切っ先を避けずに一歩踏み出してきたレイグリッドは、ただただ愚直に剣を振り下ろした。
魔力を吸収する暇もない、瞬時に転移の魔術でレイグリッドの後方、頭の上に現出、隙だらけの後頭部に『吸血鬼』を振り下ろす。
「ふ……っ!」
身に着けている武具は全て一級品の魔装具なのだろう、兜に触れた刀身に伝わる確かな抵抗感、俺が『吸血鬼』を振り切る前にレイグリッドの身体が反転、横合いから白刃が迫る。
『吸血鬼』の刀身を消し、身体を無理やり捻る、過ぎ去る白刃は暴風の如く。
ソラと手合わせしておいて良かった、動きそれ自体はソラの方が遥かに速い。
その代わり、迫力が尋常ではないけど。
着地してすぐに跳躍、距離を取る。追撃はない。
今の一合では決定打が見つからなかった……けれど、見えた。
首の後ろ、侵食するように刻まれている歪な魔力の残滓、あれがきっとそうだ。
あの魔法陣を直接『吸血鬼』で狙って解除は可能なのだろうか。
分からないけど、やってみる価値はありそうだ。
と、新たな目標を定めたところで後方、嫌な気配と魔素の揺れを獣の尻尾が感知して、振り返りざま『吸血鬼』を振るった。
視界内に見えた俺を直接狙った『魔術の起こり』を避け、さらに周囲で捩れる魔素を切り払う。
一つだけ避けそこなったそれが現象を起こし、空気が爆発、風が巻き起こった。
「……まぁ、いますよね」
俺の右腕を巻き込んだ小さな竜巻はすぐに止んだ。
ああ。
灰色の眼光は暗く、黒に近い藍色のローブを纏った大柄な男。
その斜め後ろに二人、従うは野性の狐に似た男と、置物の狸に似た男。
初めて尻尾が役に立ったことに内心で驚きつつ……今の攻撃はコンサとラックの魔術か。
確か補助魔術と言っていた、対応が遅れたらヤバかったかもしれない。
見つめる間にグレイス・ガンウォードの手にも白刃が閃き、四肢にも淀みなく魔力が廻る。
魔術師としての腕はレイグリッドよりも上だろう、圧がすごい。
右腕は無傷、左腕も大分動くようになってきた。
しかし前門の虎、後門の狼とはこのことか。
こうしている間にも血は流れ、鈍色の目的は達成されていく。
……この身体は傷くらいなら平気だけど、四肢が千切れても元に戻るのかな。
あの時のルッツ・アルフェインのように。
「上手くやれ、ね」
難しいことを仰る。




