間に合え!
「ハンス! もっと飛ばせ! 馬が泡を吹いても構わん!」
「ぼ、坊ちゃま! これ以上は車輪が外れます! というか私の腰が外れます!」
ガタガタと激しく揺れる馬車の中、俺は必死に手すりにしがみついていた。 膝の上には、泥だらけのハンカチに包まれた数個の黒い塊。
時価にして金貨数十枚の宝の山だが、今の俺にとってはただの『命綱』にしか見えない。
(間に合え、間に合ってくれ……! SSランクだぞ!? 国家反逆罪だぞ!?)
妹シャルロットが近衛騎士団長の息子を拉致した。
その事実だけで、俺の首筋がヒヤリとする。
近衛騎士団といえば、王国の最強戦力だ。そのトップの息子を攫うなど、ライオンの寝床に爆竹を投げ込むようなものである。
「シャルロットの奴、どうしてこう斜め上の行動ばっかりしやがるんだ……!」
馬車が屋敷の門をくぐるや否や、俺は飛び降りた。
全身泥だらけ、髪はボサボサだが、身なりを気にしている場合ではない。
「ハンス! お前はトリュフを持って厨房へ走れ!シェフに『最高級の香りを立たせたスープ』を今すぐ作らせろ! 時間は三分だ!」
「さ、三分!? カップ麺でもギリギリでございますよ!?」
「やれ! やらなきゃ全員ギロチンだ!」
悲鳴を上げて走るハンスを見送り、俺は屋敷の地下牢へと全力疾走した。
バンッ!! 地下牢の重い扉を体当たりで開ける。
「シャルロット!!」
薄暗い石造りの部屋。 そこには、想像通りの地獄絵図があった。
椅子に縛り付けられ、口に布を噛まされた金髪の美少年。
そしてその前で、扇子を片手に高笑いする我が妹。
「オーッホッホッホ! 観念なさい! 今日からあなたは私の『専属騎士第一号』よ! 光栄に思いなさい!」
「んぐぐーッ!!(ふざけるなーッ!!)」
少年が必死に抵抗している。彼こそが、近衛騎士団長の息子にして、聖女リリィ様の婚約者候補、レオン・ヴァン・アスターだ。 将来、剣聖と呼ばれる予定の逸材が、なんでこんな地下牢で芋虫みたいに縛られているんだ。
「シャルロット! 貴様、何をしている!!」
俺が怒鳴り込むと、シャルロットはキョトンとした顔で振り返った。
「あら、お兄様。お帰りなさい。見て、素敵な『拾い物』をしたのよ」
「拾い物じゃねえ! それは人間だ! しかも騎士団長の息子だぞ!?」
「知ってるわよ。だから拾ったの。屋敷の前で行き倒れていたから、親切に保護してあげて、ついでに『私の騎士になりなさい』って契約を持ち掛けているところよ」
「それを世間では『脅迫』と呼ぶんだよ!!」
俺は頭を抱えた。
行き倒れを保護したのはいい。だが、そこから地下牢へ直行させる思考回路が理解不能だ。
『警告:屋敷の周囲に多数の気配を感知。近衛騎士団が包囲網を敷いています。突入まであと――1分』
ブレイカーの無慈悲なカウントダウンが視界に浮かぶ。
窓の外――といっても地下牢に窓はないが――屋敷の上階から、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「開けろおおおおお!! 貴様ら、我が息子を返せええええ!!」
雷のような怒号。
間違いない。近衛騎士団長、ガレス・ヴァン・アスターだ。親父とは犬猿の仲と言われる、武闘派の中の武闘派。
「まずい、父上が対応に出る前に止めないと……!」
俺は慌ててレオンの拘束を解こうと駆け寄った。 だが、レオンは俺を見るなり、敵意むき出しの目で睨みつけてくる。
「んぐーッ!!(お前もグルかッ!!)」
そりゃそうだ。泥だらけの男が飛び込んできて、悪役令嬢と会話しているのだ。共犯者にしか見えない。
(くそっ、どうする!? このまま騎士団長が突入してきたら、縛られた息子を見て問答無用で斬りかかってくるぞ!)
俺は必死にスキルを発動させた。 この絶体絶命の状況を覆す、起死回生の一手はないか。
『解析中……対象:レオン・ヴァン・アスター。 【家出中】:父の厳しすぎる指導に反発し、三日前から家出して空腹状態でした。 【空腹デバフ】:現在、思考能力が著しく低下しています。 【グルメ】:美味しいものには目がありません』
――これだ!!
俺はレオンの口から猿ぐつわを引っこ抜いた。
「ぷはっ! き、貴様ら、父上が来たらただで済むと……!」
「レオン殿! 誤解だ! これは手荒い『歓迎』だったのだ!」
「はぁ!? 縛り付けておいて何が歓迎だ!」 「我が家の教育方針でな! 客人はまず拘束して安全を確認するのだ!」
「どんな蛮族の風習だよ!!」
もっともなツッコミだが、無視だ。 俺は懐から、泥を拭ったばかりの黒い塊――黒トリュフを取り出した。
「においを嗅げ!!」 「むぐっ!?」
俺はレオンの鼻先に、強引に黒トリュフを突き付けた。
「な、なんだこれは……!? 泥だらけの黒い石……いや、違う!?」
むせ返るような、濃厚で芳醇な土の香り。 美食家たちを狂わせる、魔性の芳香が地下牢に充満する。
「く、くんくん……? な、なんだこの、食欲を直接殴ってくるような香りは……」
「黒トリュフだ! 俺はこれを採りに行っていた! すべては、行き倒れていた君をもてなすために!」
「え……?」
レオンの目が泳いだ。 空腹の極限状態にある少年にとって、この香りは暴力的なまでに魅力的だったらしい。
「妹は、君を引き留めるために少々……いや、かなり強引な手段を取ったが、それもこれも君にこの『至高のスープ』を飲ませたかったからだ! 決して悪意はない!」
「そ、そうなのか……? いや、でも……」
レオンが揺らいだ瞬間、頭上でドカァン! と扉が吹き飛ぶ音がした。
「イリスーーーッ!! 貴様、どこにいる!!」
親父の声だ。そして、それに重なるように、金属鎧の擦れる音が多数近づいてくる。
時間切れだ。
「行くぞ、シャルロット! レオン殿!」
「え、ええ? お兄様、泥だらけで汚いわよ」 「うるさい、来い!」
俺は二人の腕を掴み、階段を駆け上がった。




