5 氷の竜の名
沈んだイリスの声が、洞窟に響く。
「父は出稼ぎに行って、戻ってこなくて。母は弟を産んで……産後が悪くて。亡くなりました。だから、名付けの意味を教えてくれる人が、今までいなかったんです」
イリスは、手に持つ氷の竜の鱗を抱きしめた。
村に残した弟だけが、唯一の家族。
「弟が……、ルークが。冬の流行り病なんです。材料を揃えれば、薬師に治療薬を作ってもらえるんです」
氷の竜は何も言わない。
じっとイリスの姿を見つめている。
「お願いです。私のことを食べても構いません。だから、あなたの鱗をください!」
悲鳴に近いイリスの懇願が、洞窟の闇を揺らす。
声が消えれば、あとは静寂が残った。
『……いいだろう』
ぱっとイリスの表情が晴れた。
『鱗はくれてやる』
「ありがとうございます!」
背負い袋の中に氷の竜の鱗を入れ、イリスは背負った。地面に置いていた角灯を手に持つ。
「村の薬師に届けたら、また戻ってきます」
ふ、と氷の竜が息を細く吐いた。
たちまち、洞窟の入り口に氷の壁ができる。
出口を閉ざされて、イリスが氷の竜へ振り返った。
「何をするんですか!」
イリスが叫ぶ。
「約束が違います!」
『鱗はくれてやる。だが、ここから出してやるとは言っていない』
愕然とした表情をイリスは浮かべた。
「ま、待ってください。鱗を……届けなければ。治療薬を作ってもらえません!」
『俺の知ったことか』
氷の竜が牙を見せて嗤う。
『それに。無知は罪だぞ、イリス。竜がずる賢いということを知らないとは』
「あなたは、違う!」
イリスが首を横に振った。
『何を根拠に、そう思う?』
「だって……」
一瞬見せた、気遣い。
本当にずる賢く、悪い竜ならば。
出会った瞬間に、自分を食べただろう。
それに。
「名前の意味を、教えてくれたから……」
氷の竜の赤い目が大きく見開かれた。
哄笑。
洞窟が、空気が、震える。
『本当に面白い小娘だ。純粋だな。単純だな、イリス』
むっとしたイリスが言い返す。
「あなたは何という名前なんですか!」
『それを今、気にするか!』
氷の竜の笑いが収まらない。
むっと、イリスが唇を尖らせる。
「不公平です! 私もあなたの名前を呼びたい」
ぴたり、と氷の竜の笑い声が止まった。
『不公平だと? 自分の状況を理解しているのか?』
鋭い牙がイリスに迫る。大きな顎。
それでも、イリスは目を背けることはなかった。
『……俺が、怖くないのか』
「今のは怖くないです。だって、本気で私を食べようとしなかったから」
ぐるるる、と氷の竜が唸った。
イリスの瞳が、真っ直ぐに氷の竜を見つめる。
『……ディアルだ』
「ディアル」
真剣な顔で、イリスが呟いた。
「ねぇ、ディアル。お願い」
一歩。イリスが氷の竜に近づく。
「私を村に帰して。必ず、あなたのところに戻ってくると約束するから」
ふん、と氷の竜は鼻を鳴らす。
『信用ならん。そのまま逃げるつもりだろう』
「そんなことない!」
イリスが右手の小指を立て、氷の竜へと突き出した。
『なんだ、それは?』
「指切り。約束を交わすときの儀式よ」
さあ、とイリスが促す。
「私は、弟に治療薬を飲ませたら、ディアルのもとに戻ってきます」
約束、と彼女の声が暗い洞窟に響く。
「ほら。ディアル」
イリスの言葉に、氷の竜がおずおずと指を伸ばした。馬を一撃で切り裂きそうな、鋭い爪。
少女の指と、氷の竜の爪が触れる。
イリスが歌う。
「指切りしましょ。雪と結ぶ。指切りしましょ。氷と結ぶ。指切りしましょ。約束よ」
ぱちくりと氷の竜の赤い目が瞬く。
イリスが指を頭上に掲げた。
「結んだ!」
しん、と声が洞窟に吸われる。
『……これだけか?』
「そうだけど」
手を下ろして、イリスは首を傾げた。
『魔力がまったく無かったぞ』
「私はただの村娘です。魔法使いではないわ」
ほら早く、とイリスが氷の竜を急かす。
「入り口の氷の壁をどかして。村に着く前に、夜になってしまうわ」
『急げばその分、お前の死が早まるぞ』
「そんなことより!」
イリスが叫ぶ。
「ルークが苦しんでいるのよ! のんびりしていられないわ!」
『自分より、他人を優先するか』
「他人じゃない。たったひとりの、大切な家族よ!」
地面に置いた角灯の光に、氷の竜の赤い目が反射する。
静かな、それでいて、かなしそうな氷の竜の目に、イリスは気づく。
「ねぇ……。ディアルは、家族いるの?」
『くだらん。竜は独りだ』
轟、と吠える。
洞窟の入り口、氷の壁にひびが入った。




