第五章 襲撃(8)
(うわ、カオス……)
ルドクがアルフィナに数歩遅れて天幕に入ったとき、そこはもはや手のつけられない状況に陥っていた。
視線の先には、シェスティリエの腕を抱え込むように抱きついているイリがいて、イリは、シェスティリエににこやかに話しかける青年にあからさまな警戒心を向けていた。
いや、それは警戒心を通り越して既に敵意に近いかもしれない。
だが、青年はまったくイリをスルーしてしきりにシェスティリエに話しかけ、傍らの護衛の聖騎士が顔を真っ赤にして怒鳴っている。
(あー、怒鳴ってないで、止めましょうよ、その人を)
思わず心の中でつぶやくが、声には出せない。
それがルドクの性格だ。
シェスティリエに関わらない限りこれ以上彼に近づくつもりもなかったのだが、どうやらルドクが思っていたようにはいかないらしい。
視線を移動させれば、シェスティリエが笑っているのが目に入った。
(……笑ってる……)
思わずぼーっと見惚れかけ、そしてハッとした。
(いやいやそんな場合じゃないから)
だが、その表情はルドクが見たこともないくらいにこやかで、思わずどきりとした。
ルドクは高鳴る鼓動を沈めるように深呼吸を一つする。そして、少し早口でたずねた。
「イシュラさん、なんであんなことになってるんですか?」
「あ~、あれな……」
ルドクの問いにイシュラは生温い笑みを浮かべた。
「あのバカぎみ……じゃねえ、えーと、若君がだ、話してるうちに姫さんに跪いて求婚しやがったんだよ。そこにちょうどイリがきてな……想像つくだろ?」
「あ~、はい。……何となく、わかりました」
その説明だけで、ルドクには目の前の光景に納得がいった。
(シェス様が世界の全てなイリだもんな……)
シェティリエはイリにとって、『主』であるという以上に、イリの『世界』である。
そんなシェスティリエの前に急に現れた得体の知れない相手に、イリが敵意を抱かずにいられるだろうか?────いいや……これは少しでもイリを知っているのなら断言できてしまう……いられるはずがない。
「……止めなくて良いのですか?」
アルフィナが不安げな表情で二人を振り返る。
イシュラとルドクはお互いに横目で互いの顔を見合った。
仕方なく口を開いたのはイシュラだった。
「誰を?」
イシュラは生温い笑みにも似た表情のまま、軽く首を傾げる。
この軽く首を傾げるしぐさというのはシェスティリエがよくやるもので、いつの間にか一緒に旅する全員にうつっていた。
「えーと……イリを……」
そう口にしたアルフィナ自身、その答えに自信がなかった。
イリを止めたところで、既にこの騒ぎがおさまるようには見えなかった。
「イリの主は姫さんで、姫さんが止めないからいいだろ」
「でも、イリがあの身分の高い聖職者の方に咎められたら……」
「大司教だってよ。本人がそう言った」
「フィリですか……」
「そう。あのバ……若君が、従者であるイリを咎めるとしたら、それは姫さんを咎めることなわけだ。でも、あのバカ……じゃね、若君は、姫さんに求婚してるわけで、常識的に考えて姫さんを咎めることはないだろ。そもそも、あいつのくそバカバカしい求婚が、イリのあの態度の原因なわけだから止めようがないと思わねえ?」
「でも……」
「まあ、俺が止めるとしたらあのバカ君だな」
「ですよね」
「だろ」
二人は互いに強くうなづきあう。アルフィナにはさっぱりわからなかった。
イリを注意したほうがいいのかと思いつつも、あの中に割り込む勇気はアルフィナにはない。
「イシュラさん、バカ君って……聞かれたらまずいでしょ」
「あー、それ一応秘密な。でも事実だろ。あんなちびっこい姫さんに求婚するなんて……誰だって正気を疑うだろ」
イシュラは「バカなことはおっしゃらないで下さい!」とか「ご身分をお考え下さい!」とか「目を覚ましてください」等と怒鳴っている聖騎士を目で示す。
「いや~、シェス様は類い稀な美貌の持ち主ですし……」
「けどよ、跪くにはあと5年……いや、10年は早いだろ?」
「イシュラさん、世の中青田買いってものがありましてね……」
イシュラはため息を一つつき、改めてルドクに向き直り、ぽん、と肩に手をやる。
「あのな、どう言葉を取り繕うとも、本当に求婚してるんだったらただの幼児性愛者だっての。いや、幼児性愛者通り越して、もはやただの犯罪者だろう?」
兵士達の間で一、二を争うほどバカにされるのがこの『幼児性愛者』だという。
ご多分に漏れず、イシュラにもその傾向はあるらしい。
「……あの…………たぶん、彼は、次期枢機卿に一番近いと言われる大司教様ですよ?」
商人にとって情報はある意味、金にも等しい価値を持つ。
ルドクもその端くれとして、あらゆる情報に通じていられるよう常にアンテナははりめぐらせているつもりだ。
彼はこれまで得られた情報を整理して、すでに彼の名前も身分もあたりをつけていた。
『赤の塔』『王族か貴族出身』『大司教』『生母の見舞い』『アルネラバを経由』という情報を組み合わせれば、おのずと答えは導かれる。
(古王国アルマディアスの王弟であるエーダ大司教閣下)
おそらく、それが『彼』だ。
「ルドク、聖職者だから幼児性愛者にならねえって保障はねえ」
「それはそうですが……」
「ま、イリがあんだけくっついてりゃ、大丈夫だろ。……姫さんも滅多なことはしねーよ」
「……心配するのは、やっぱりそっちなんですね」
小さく笑う。
普通は逆かもしれないが、相手が誰であれシェスティリエがおとなしく何かされるとは到底思えない。
むしろ、何かしようとした相手が殺される……あるいは死にそうな目に遭わされる……ほうが、ルドクにはたやすく想像できる。
「あったりめえだろ。大司教様だか何だかしらねえけどな、姫さんがそんなことで手加減してくれると思ったら大間違いだっての」
うちの姫さんは公平だからな、とイシュラはどこかおかしな自慢をする。
それがものすごく得意気なのが、ほほえましく思える。
イシュラのような男をほほえましいと思ってしまうような自分の感性にイマイチ自信がなかったりもするが、それはそれである。
(でも、それってつまり、身分問わず公平にぶちのめすってことですよね)
シェスティリエの気性というのは鮮やかだ。
わかりにくい部分も多々あるが、基本的にはわかりやすい。
その判断はきっちり一本芯が通っていて、それは身分や家名やそういったものではまったく変わらないのである。
(世間一般の正義とは違うかもしれないけれど)
でも、ルドクは納得できるし、それを好ましいとも思う。
「……シェス様ご自身は、本当のところどうなんです?さっきは随分と大司教様と話がはずんでいたようでしたし、見たことないような笑顔なんですけど……」
「あれをはずんでたと表現するとは、おまえも相当イイ感性してるよ」
「違うんですか?」
「まったくもって。……だいたい、姫さんは本気にしてないだろ……求婚については」
「でも、本気にしてないにせよ、悪い気はしてないんじゃないんですか?大司教様は顔もいいですし、お血筋も悪くないですよ」
「ルドク、うちの姫さんが本当にそんなもんに興味を持つと?」
「………すいません。ありえないことを言いました」
ルドクは即座に認識を改め、謝罪の意で軽く頭を下げる。イシュラはそうだろうというように小さくうなづいた。
「だから、あれはそろそろ限界だろ」
見たこともないくらいの満面の笑み……それは、酷く美しく感じられるものだった。
見れば見るほど、何だかドキドキしてくる。
これは自分がときめいているのか、それとも、まったく別の何かなのか……判別はつきにくい。
だが、ルドクは、これまでの経験上後者を選ぶ。
そう。おそらく、どちらかというとこのドキドキは危険信号だ。
「あのな、ルドク。姫さんの場合、見たこともないような笑顔ってのは、見たこともないくらい機嫌が悪いだと思っていいぜ、たぶん」
ルドクよりもずっと縁の深いイシュラも断言する。
シェスティリエは、騒がしいことはあまり好まないし、べたべたされることも好きではない。その上、構われるのも大嫌いだ。
イリには通常よりもだいぶ甘いので良いとしても、あの青年大司教の幼い子供の機嫌をとるような話し方はかなりマズいだろう。
シェスティリエは子ども扱いされることが大っ嫌いなのだ。
もちろん、教えてやるつもりはないが。




