第四章 旅の空の下(2)
夜の森は、虫の大合唱の中にある。
(まるで、音の洪水だわ)
夜の庭にも確かに虫はいた。けれど、こんなにも多種多様な……溢れんばかりのたくさんの虫の音を、アルフィナは聞いた事がない。
「あまりおくにゆかぬようにな、アルフィナ」
「はい」
「なるべくかわいているものをひろうのだぞ。そのほうが、けむりがでない」
「……そうなんですか」
「ああ。なまきだと、けむりがでてよくない」
「はい」
シェスティリエの言葉の一つ一つをきちんと聞き留める。
アルフィナは、この旅の一行で自分が最も役立たずであることを自覚している。隠されていたとはいえ、名門貴族の娘として育ったアルフィナは、侍女や乳母に仕えられることになれきっている。
シェスティリエの侍者となり、自分が仕える立場になった今、あまりにも何もできないことに気づいて愕然とした。
シェスティリエはこの幼さで既にかなり旅慣れていたし、ルドクやイシュラは言うに及ばない。ほぼ同時期にこの一行に加わったイリも、聖堂では下働きをしていたとかで、何をやらせてもすんなりとこなす。アルフィナ一人が、言われなければ何もできなかった。
口惜しいと思う以前の問題だった。
(だから……)
まず、身近なところから頑張った。
手伝えそうなことは積極的に手伝い、何が手伝える事があるかどうかをたずねる。
最初は何も言いつけてもらえなかった。イシュラとルドクは、貴族の娘は何もできないと思っていたからだ。
でも、旅に出て五日目の今、水汲みはアルフィナの仕事だ。
最初は、馬を洗っている下流で水を汲んだりする失敗もあったが、今はもうそんな失敗はしない。
(飲み水は、できるだけ水源に近いところから取る事。川の場合は、浅瀬の……イトギがいるところをさがすこと。池の場合は、ミルラが生えているところをさがすこと……)
イトギという魚は、綺麗な水を好む川魚。ミルラというのは水辺に生える植物で、やはり綺麗な水でしか育たない。どちらも、シェスティリエの教えてくれた事だ。
知らない事があることは恥ずかしいことではない。知らない事を知ろうとしない事の方が恥ずかしい事なのだと、言われた。
だからアルフィナは、なぜそうなのか、なぜそれを選ぶのかを尋ねるようになった。最近では、皆、自然に説明してくれる。
「イリ、アルフィナのひろったえだをよりわけてやれ。わたしは、やえいちにもどる。……ふたりとも、しゅういにちゅういして、ほどほどにな」
「はい」
こくりとイリは、返事の代わりにうなづいた。
アルフィナは、イリがしゃべっているのを聞いた事がなかった。よほど自分を気に入らないのかと思って少しだけ腹をたてていたのだが、昨日、ルドクにイリがしゃべれないことを教えられて驚いた。
と、いうのも、アルフィナのみるところ、シェスティリエとイリはまったく意思の疎通に不自由している様子がなかったし、イシュラやルドクもそうだったからだ。
(私も……イリのことが、わかるようになりたい)
イリと意思の疎通が図れなかったとしても、さほど不自由を覚えるわけではない。極端な事を言えば、アルフィナはイリと関わらなくてもまったく困らない。たぶん、イリだってそうだ。そもそも、イリはシェスティリエ以外にほとんど関心がない。
(……でも)
それでも、アルフィナはイリと何とかして意思を通じあわせたかった。
(ライバルだし……)
互いにシェスティリエの関心をひきたくて……、自分を見て欲しくて……、張り合う。
暇さえあればいつもそばにくっついているし、どこかに行くときはいつも後をついてゆく。
寝る時はいつもアルフィナはシェスティリエの左側で、イリが右側。
一度、イリと二人で張り合って抱きついていたらそのうちに寝てしまい、互いの寝相の悪さでシェスティリエを潰しかけ、イシュラにさんざん怒られた。
以来、寝るときは抱きつくことも、手をつなぐことも禁止になった。手をつないでいるとシェスティリエが寝返りがうてないからだ。
(もっと、知りたい)
シェスティリエを挟んだ時だけ、イリはアルフィナを見る。
アルフィナを邪魔だと思っているような視線で、子供が大事にしているものをとられまいと警戒するようなそんな態度をとる。
アルフィナとしては、別にイリから奪うつもりはないのだが、自分にも関心を払って欲しいと思っているので、ついつい張り合うようなところがある。
(でも、そういうのじゃなく、『私』のことを、ちゃんと認めてほしい……)
シェスティリエを奪う邪魔者としてではなく、同じシェスティリエの侍者として……普通にいろいろなことを話してみたかった。
アルフィナは、年の近い子供と接した経験がない。普通なら乳母の子がいて一緒に育つものだが、アルフィナの乳母は、子供を死産した未亡人だった。
それに、その出生のせいで、外出の機会も極端に少なかった。
他の使用人の子供達とは言葉を交わす事が許されていなかったし、たとえ、許されていたとしても、結局のところ、お嬢様と使用人としてだっただろう。
でも、イリとは違う。イリはアルフィナに仕える人間ではないのだ。
(イリと、友達になりたい……)
実のところ、それが、アルフィナのひそかなる野望だった。
その為にはもっとイリのことが知りたいし、自分の事も知って欲しいのだ。
ルドクはいろいろなことをよく知っている。たぶん、アルフィナが問えば、差し支えない範囲でイリのことも教えてくれるだろう。
けれど、アルフィナが知りたいのは、イリの過去や、これまでしてきたことなどではない。
イリが何を考え、どういう風に感じるのか……
(イリという人を知りたい……)
それは、少しづつ強い欲求になりつつあった。
足元の小枝を集めながら、アルフィナは立ち尽くしているイリに目をやる。
イリは、シェスティリエが戻る後姿を、見えなくなるまで目で追っていた。
(シェス様のこと、本当に大好きなんだよね)
それは、イシュラもルドクも一緒だし、自分だって大好きだ。
でも、二人の『好き』と自分たちの『好き』はちょっと違う気がしていて、アルフィナとイリのそれは似ている気がする。
(シェス様が、私を救ってくれた)
『そなたのせいじゃない』
その一言が、アルフィナの心を解き放ってくれたのだ。
きっと、シェスティリエはそんなことはまったく知らないだろう。
(でも、それでいい)
シェスティリエは、何かと自分は聖職者にはあまり向いていないというようなことを口にするが、そんなことはないと思う。
聖堂の偉い司祭達は、『これも神の試練なのです』と説くだけで、何もしてくれなかった。叔父がどれだけ苦悩していたか、アルフィナは知っている。
アルフィナだって、何もできない自分を、存在しているだけで罪のように感じていた。
(優しい慰めも、慈しみの微笑みもいらない)
そんなものは、何の救いにもならなかったし、何の役にも立たなかった。
アルフィナを……叔父を救ったのは、シェスティリエの歯に衣を着せぬ物言いであり、利用価値があると言い放つその正直な態度だった。
(シェス様が、道を示してくれた……)
その道が正しいかなんてわからない。けれど、アルフィナにとってはたった一つの希望だ。
(だから、私は、後悔したりしない)
どんな結果になるのであれ、今こうしている自分を悔いることはきっとない。
「……イリ、早く拾って戻ろう。きっと、シェスさまも待ってる」
イリは、アルフィナにしゃべりかけられたことに少しだけ驚いたような顔をし、それから、こくりとうなづいた。
シェスティリエにしか関心がないように見えるイリだったが、こちらから話しかける分には、無視したりすることはないらしい。
真面目にやれば、10分もすると抱えるくらいの量の小枝を集める事ができる。それを抱えて籠にいれようとすると、くいっくいっと外套の袖がひかれた。
「なに?」
イリは、上の方に混ざっている枝を抜いて、首を横に振る。
「……え、この枝は、ダメなの?」
こくり。
「どうして?」
イリは、火打石をつけるマネをして、鼻をつまんだ。
「あ、わかった。火をつけると匂いがすごいんだ。……そうでしょ?」
そうだ、というように、イリはこくっとうなづく。
「そっか。……教えてくれてありがとう」
ふるふるふると首を横に振る。「どういたしまして」ということなんだろうとアルフィナは解釈した。
(どうしたらもっと話せるんだろう……)
身振り手振りでは限界があるし、アルフィナの解釈が間違うことだってあるだろう。
イリはアルフィナに誤解されたところで何とも思わないだろうが、アルフィナはそうはいかない。
(筆談ができないか、シェス様に相談してみよう)
いつがどうとは正確には言えなかったが、たぶん、この夜が、アルフィナの野望実現への第一歩だった。




