40:憧れと畏れと愛しさ
ルシアが顔を撫でると、ヨルムンドはうっとりと大きな眼を閉じる。身を寄せて首に縋りつくように腕を回すと、すぐ背後でディオンの声がした。
「すっかりおまえに懐いた」
ルシアがヨルムンドに抱き着いたまま振り返ると、ディオンの手がルシアの髪に触れた。
「たしかに邪悪を飼う私は無力だ。封じていることで力を消耗していることも認める」
「それは、やはり無理をなさっているのでは?」
「おまえは覚えていないから余計に不安になるのだろうが、私は天界の破滅に名を連ねる者。覚えていれば、私を案じることがどれほどの徒労かもわかるはずだ。だが、今は不安に思うのも仕方がない。ルシア、私は邪悪に喰われるほど弱くはない」
「ディオン様が、天界の破滅……」
金に加護を宿す天界の神々。そうした印象と重なるように、破滅が漠然と強い証であるという印象が心に刻まれている。その強さはあの輝く面影にも連なっているように思えた。
焦がれるような気持ちに滲む、畏敬の念。
失われず抱く面影に、たしかに憧れと畏れと愛しさを向けていた。
天界の覇者である証。力ある者に許された輝き。そういう意味を伴っているのだろうか。
「でも、不安に思うのは理屈ではないのです」
「ルシア」
「きっとディオン様が無敵だとしても、私は同じように心配します」
血を流し苦しむ姿に心を痛めるのは、当たり前のことだった。
「本当に、とても心配しました」
ディオンが不在の間ずっとそうして来たように、ルシアはヨルムンドの首にまわしていた腕に力を込めていた。不安や寂しさに押しつぶされそうになると、きまってヨルムンドの体温に縋った。
ディオンがふっと吐息をつく。降参だと示すような仕草だった。
「……わかった。昨日のことは詫びる。これからはルシアが不安に思わないように気を付けよう。ーーそれにしても」
彼はヨルムンドを仰いでから再びルシアを見た。綺麗な顔に再び苦笑が浮かぶ。
「久しぶりに会えたのに、おまえはヨルムンドに縋るのか」
「え?」
「どうやら私と会えない日々を憂いたりはしてくれないようだ」
「それはーー」
ルシアが伝えるより一瞬早くヨルムンドが動いた。珍しく吠えると大きな尾がばさりとディオンをかすめる。
誰よりも傍でルシアの気持ちを聞いてきたからだろうか。ディオンを責めるような一声だった。ルシアは思わず笑ってしまう。ヨルムンドの顔を撫でて「ありがとう」と伝えると、魔獣の大きな尾がばさりと左右に振れた。
「ディオン様がおいでにならない日は、ヨルムンドにたくさん話を聞いてもらいました」
魔獣の巨体から離れてディオンの手を取ると、ルシアはそっと頬を寄せる。
「私がずっと、どれほどディオン様にお会いしたかったのか。それを一番知っているのはヨルムンドです」
ルシアが捕まえていたディオンの手が動いた。長い爪が肌に触れないように加減しながら、ディオンは顔を挟むように両手でルシアの頬を包む。込められた力に抗わず、ルシアは彼の顔を仰いだ。
至近距離に迫った赤い左眼に労わるような色が滲んでいる。真紅の瞳に映る自分の影を数えきれないほど見てきたが、見つめあうと改めて長く見ることが叶わなかったのだとわかる。
彼に寄り添う一時に想いを馳せる、気が遠くなるような日々。
「ーーおまえに、寂しい思いをさせていたか」
寂しかったかと問われると、ルシアは素直に答えられない。ディオンは自分のために心を砕いてくれるだろう。だからこそ幼子のような言動は慎みたい。
「寂しく思うこともありますが、今はヨルムンドがいるので大丈夫です」
我がままにならないように言葉を選んだが、彼は深くため息をついてルシアは離した。
「変わらないな、その強情さは」
「え?」
「おまえは昔から寂しいとは言わないし、縋ったりもしない」
「……昔のことは存じませんが。寂しいと縋ったところで、独り占めできるわけではありませんし」
「そうだな。たしかに泣いて縋る女には吐き気がする。おまえのそういうところが愛しくもあるが――」
ディオンがルシアの手をとり、引きよせるように力を込めた。彼の腕に抱かれて広い胸に頬を寄せると、互いの鼓動が重なるのがわかる。
「不安に思うのは、理屈ではないと言ったな」
「はい」
「では、たまには理屈抜きで縋ってみればいい。寂しいから傍に居ろと」
「!」
自分の気持ちを見抜かれているのかと、ルシアは鼓動が跳ねる。
「言えません、そんなことは」
「なぜ?」
「ディオン様は泣いて縋る女が嫌いだと仰ったばかりではないですか」
もっともな理屈で訴えると、自分を抱くディオンの力が緩んだ。ルシアの顎に手をかけて上を向くように促す。彼の力に従って仰ぐと、端正な顔に悪戯をしかける少年のような笑みが浮かんでいた。
「おまえが泣いて縋る顔は見てみたい気がする」
「私はそのようなわがままは言いません」
「言えばいい」
「言いません!」
癖のない髪が彼の肩から滑り落ちて、ルシアの胸に落ちかかる。囁くような低い声に甘い吐息を感じた。
「では、私が縋ろうか」
「え?」
「今夜はずっと傍にいろと」
「ディオン様」
「……おまえに会いたかった」
ルシアの目蓋にそっと唇が触れる。これまでの寂しさを埋めるように、ディオンがルシアの肌に何度も口付けた。
「――っ」
やがて唇が重なると、ルシアの意識は深い愉悦へと導かれる。ディオンの乞うような激しさに翻弄されて、ただ立っているだけの力も奪われてしまう。彼の背中に腕を回し、掴まっているだけの事がうまくできない。
聞きたかったことが白くはじけて失われていく。互いの息遣いにまで愛しさが宿り、触れる手の熱が心を震わせる。ルシアはただ押し寄せる波に身を委ねた。




