呼び方
伊吹が無事、智枝の執事教育を終わらせた後、事務所へと戻って来た藍子と燈子を含めた八人で昼食を済ませた。
食材については、福乃が気を利かせて業者へと発注し、大量にこのビル内のキッチンスタジオに運び込まれている。
「午前中に何とか完成させたわ」
昼食後、燈子が男性Vtunerのアバターの元となるイラストを伊吹へ見せる。
美子と京香は昼食の後片付けをしており、事務所内には藍子と燈子、美哉と橘香、そして智枝がいる。
午前中に伊吹の絞りたてほやほやの精液を保健所へと提出した美子は、段ボールひと箱分の精液採取器を持って帰って来た。
「へぇ、とこちゃんは手描きしたイラストをパソコンに取り込んでから完成させるんだね」
燈子が見せた完成したイラストは、パソコン画面上に表示されている。
「そそ。ある程度形にしてから、それを元にパソコンで仕上げるの。その方が楽だしね。
今回は四つ子の男性キャラだから、コピー&ペーストでだいぶ作業時間を減らせたよ。
さすがに手描きで四通り用意するのは、一日徹夜したくらいじゃ時間が足りないって」
燈子が眉間を揉みながら伊吹に答える。
「そっか、とこちゃん徹夜したんだったね。今夜はゆっくり寝ないとね」
「でも、このイラストを元に河本社長達にアバターの作成依頼をするんだよね?
向こうさえよければ、今日中に打ち合わせしておこうと思ってたんだけど」
藍子が午前中に多恵子達に与えられた二階のフロアへ様子を見に行った際、ほぼ引っ越し作業が終わっていた事を確認していた。
「じゃあ打ち合わせしに行こっか」
しかし、それには智枝からの待ったが掛かった。
「お待ち下さい、ご主人様。
ご主人様が直接お顔を見せられるのはお止め下さい。
いくら警備が厳重であったとしても、直接会うのは避けて頂きたいです」
智枝の意見に対し、皆が頷いているのを見て、伊吹は折れる事にした。
「直接会うのは避けてほしいって事は、電話越しの会話なら問題ないって事?」
「そうですね、電話越しであれば危害を加えられる事はないでしょうが……。
ただ、ご主人様が不快な思いをされる可能性は捨てきれません」
(電話越しに不快な思いをさせられる? 何色の下着なのハァハァ、みたいな?)
伊吹は電話越しに不快な思いをする事があったとしても、特に問題ないだろうと判断した。
藍子と燈子が二階のフロアにいる多恵子達の元へと行こうとしたところ、藍子の手に握られているスマートフォンが着信を知らせて振動を始める。
「あ、先に電話を済ませてからで大丈夫だよ」
「いえ、その……」
藍子が伊吹に言い辛そうにしているので、燈子が代わりに伊吹へ答える。
「伊地藤玲夢からひっきりなしに電話が掛かって来るのよ。
着信拒否したらって言ってるんだけどね」
伊吹は恐らく、伊地藤玲夢が生配信で言っていた、アバターを表示する為の機材の修理云々の連絡だろうと予想する。
「いや、着信拒否してしまうとまた生配信でギャーギャー言うかも知れないから、拒否はせずに出ないという方法を取ろう。
個別の着信設定でバイブレーションをなしにしたらいいんじゃない?」
なるほど、と言ってすぐに藍子がスマートフォンの設定を変更した。
「無理矢理独立して、機材も強奪した上に修理の手配をしろって言うような人間だしね。
まともに相手しても疲れるだけだよ」
「すみません、伊吹様にまでご迷惑をお掛けして……」
心底申し訳なさそうにする藍子の肩に、伊吹が手を置いた。
「あーちゃん」
「はっ、はい!?」
「これから一緒に頑張っていく仲間なんだから、お互い堅苦しいのは止めよう。
僕もあーちゃんととこちゃんには敬語を使わないから、二人も使わないようにしてほしい。
とこちゃんはお兄さん呼びで慣れただろうけど、あーちゃんは僕の事、様付けで呼ぶでしょ?
別に呼び捨てで良いよ」
伊吹としては、自分が男だからというだけで周りの人間が敬ってくる状況を良く思っていない。
たまたま男に生まれただけなのに、偉くて尊くてすごい! という雰囲気を、せめて自分の身の周りだけでも変えたいと感じている。
そんな伊吹に肩を掴まれ、藍子はぐるぐると目を回している。
「ででででも、その、えっと……」
藍子は伊吹の後ろに控えている美哉と橘香に助けを求めるが、二人は藍子を見つめて頷くのみ。
(えっと、伊吹様の言う通りにしろって事……?)
藍子がどうするのが正しいのか考えあぐねていると、燈子が助け船を出した。
「とりあえずあーちゃんは伊吹様から伊吹さんに呼び方を変えてみたら?
急に敬語を止めるのは難しいだろうから、いつかは普通に話すつもりって事で、どう?
あたしはすでにタメ口で喋っちゃってるから、お兄さんの申し出はありがたいけど」
「う、うーん……」
(本当に男性様に対してタメ口で話すなんてしても良いのかな……)
藍子は自分の父親以外の男性を見た事がなく、伊吹に対してどう接するべきなのか判断が付かない。
出会った当初は女性だと思い込んでおり、男性だと分かってからも伊吹の勢いに巻き込まれる形で今になっている。
「何も問題ないよね? 智枝」
伊吹が自分の執事である智枝へと話を振ると、智枝は澄ました顔で答える。
「何の問題もございません」
こうして、伊吹と藍子と燈子の距離が縮まったのだった。
二階のフロアに顔を出していた藍子と燈子が事務所へと戻って来た。
「秘密保持契約書に署名してもらい、ったよ?」
「あーちゃん、無理してタメ口にする必要ないよ」
伊吹が藍子へ笑い掛ける。
「アバターは最低限配信出来るくらいの見栄えであれば、三日で完成させるって言ってたよ」
「おー、思ったより早いね」
燈子は伊吹に対して詳しく話さなかったが、多恵子達は自分達が世界発の男性Vtunerの運営に携わると知らされて、やる気をみなぎらせているのだ。
二日程度なら寝なくても作業が出来ると豪語し、さっそく取り掛かっている。
「さて、あたしもさっさと撮影した動画の編集をしてしまわないと」
「そっか、動画の編集が残ってるんだった。
ねぇ、とこちゃん。外部に委託出来るような個人の編集者っていないの?」
動画編集を外部委託する事を提案する伊吹に対し、智枝が待ったを掛けた。
「ご主人様、動画の外部委託についてはお考え直し下さい。
私は撮影には立ち会えませんでしたが、ご主人様のお声が入っているのですよね?
お姿が映っていないとはいえ、音声データにいらぬ加工をされたり、外部へ流出させたりという危惧がございます」
「あー、そんなところまで気にしないといけないのか。全く考えてもみなかったよ。
智枝、ありがとう。
ってあると、やっぱり河本さん達みたいに社内に抱え込んで、秘密保持契約書で縛ってしまう必要があるのかな?」
伊吹に褒められた智枝はとても嬉しそうに見え、それを見て藍子と燈子が苦笑いを浮かべている。
「何にしても、今はあたしが編集するしかないって事ね」
「うん、そうだね。頼むよ。
あ、そうだ。編集の仕方なんだけど、字幕を入れてくれる?
質問者の発言は画面右に縦で表示して、僕の回答は画面下に大きめの文字で」
伊吹の要望を聞いた燈子が、手元のスケッチブックに字幕を入れた想像図を描いた。
「そうそう、そんな感じ」
「で、ど真ん中にはお兄さんの喉仏が映っている、っと」
「……こうして想像図を見てみると、奇妙な動画だね」
「自分で提案しておいて何言ってんのよ」
伊吹と燈子のやり取りを見ながら、藍子は自分も会話に入ろうとして口をパクパクさせるが、なかなか上手く入れないでいる。
そんな藍子を、美哉と橘香がひっそりと見守っていた。




