八章.孤は陰であり陽になる(二)
勢い良く扉が開かれたかと思うと、セルアはソファの上に倒れこむように寝転がる。
「疲れた……もう寝させろってんだ」
部屋の中を歩いていた蘭は、突然の事に驚いて振り向きはしたが入って来た人物を認めると苦笑した。ただただ室内を練り歩くという一見無意味な行動をしている自分にもはっきりと理由があった為、恥ずかしがる必要もない。
先日のユージィンの発言以降、二人はウィルナ、アンヘリカ、シェラルドの代表者を集める場を作ろうと奔走している。
主だった行動はユージィンがしていたが、城内で手伝う事ができるのはセルアだけだ。結局は二人で手分けして動くほかはなく、こうして疲れたと言いつつセルアは休憩にやって来る。
「お疲れさま、これ食べる?」
蘭は突っ伏しているセルアの側で屈むと、テーブルの上の容器を手にし中身の菓子を差し出す。
「ああ、食う」
特にこちらへ視線を向けるでもなく差し出された手のひらへ菓子を一つ載せてやると、セルアは仰向けに体を動かし口元へ運ぶ。
「今日ハンナと一緒に作ったんだよ。セルアこれ好きでしょ?」
木の実が入った焼き菓子をセルアが好んで食べていたのを思い出し、蘭は午前中に作っていた。
「んー、そうだな。作り方覚えたのか?」
そう言うと蘭の手から器を取り、セルアは寝転がったまま菓子を食べ始める。
「うん、セルアとユージィンが好きそうなのを一つずつ。わたしはここにしかいれないから、なかなか手伝えないしね」
テーブルの上にはもう一つ容器があり、そちらには甘さをかなり控えた焼き菓子が入っていた。セルアは甘い物をよく好むがユージィンは逆の為、別々に準備をする事にしたのだ。
疲れている割には機嫌の良さそうな表情を一気に曇らせたセルアが、つまらなそうに言う。
「なんだ、ユージィンの分もあんのか」
「二人共頑張ってるんだから、そうなるでしょ?」
何も言わぬまま口と手を動かすセルアを見た蘭は立ち上がり、一旦部屋を出て茶の支度をする為に厨房へ向かう。
ここ数日、日を追う毎にセルアの機嫌は悪くなっているように思えた。部屋にやって来てすぐに不機嫌さが見て取れる時もあれば、先程のように些細な事で表情を変えたりもする。
忙しいせいもあるのだろうが、それ以上に城内での噂に疲れているらしかった。
城内にシェラルドの人間がいると記した書状がもたらされ、セルアは納得した上で矢面に立っている。しかしあまりに疲弊して見える姿は、実情を知らない蘭ですら不安を抱く。
ユージィンはこの状況を利用すると言いセルアも同意をしているが、三者を揃えようとする動きは明らかに不自然であり疑われるものだった。
共に行動をしているユージィンも疑われるべきではあるのだが、そこはどうしてもセルアが目を引いてしまうらしい。
俺は言われ慣れている、そう告げつつもはっきりと疲労の色を見せるセルアを蘭はどうにかしたいと考えてはいたが、なかなか名案が浮かぶ事もなくいた。
「わたしにできる事って何だろう……な」
そう思いながらも何もしないよりはと考え、菓子を作りこうして茶を入れる。
「どうしたんです?」
湯が沸くのを待っている間に、無意識に蘭が呟いた言葉へハンナが反応した。
厨房にはいつも通りにハンナがおり、夕飯の為の支度をしている。その一角を使わせてもらっていた事をすっかり失念していたと思いつつ、蘭は笑みを浮かべた。
「ただここにいるだけだから、何かしてあげたいなと思って、セルアにもユージィンにも」
ハンナは詳しい事情を知らぬままに蘭を受け入れてくれている。本当に何かの理由があって姫の代わりに暮らしていると信じて接してくれているのだ。
状況を見守るばかりで自分にできる事が少ないのが嫌でたまらなく感じるのだが、できないものはできないと思えるのも確かである。蘭は時折、そのどうする事もできない現状に不安を覚えてしまう。まったく周りに意見が許されないわけでもなくセルアやユージィンにも訴えてはいるが、無意識に独り言として不安をこぼす瞬間があった。
「ランはラン様に望まれてここにいるんでしょう? もうじゅうぶんに役目を果たしていると思うわよ。セルアもユージィンもあなたといる事を随分と楽しんでいるようにも見えるし、そのままでも構わないんじゃないかしら?」
するとハンナはこう言ってくれるのだ。ハンナは姫が望んで蘭をここへ置いていると思っている。実際は姫が自分の意思でこの状況を招いたのかどうかもわからないのだが、全ては彼女の思惑だと信じているらしかった。
ふっくらとした面に浮かべる笑みは優しく、蘭にとってはこの世界での母とも思える人だ。確かに自分の役目を果たしているのかもしれないと蘭は思い、結局は沈んでいても仕方がないといつも気付かされる。
「そうだよね。わたしは必要があってここにいるんだもの。できる事をするね」
蘭はそう言うと煮立った湯を茶葉が入ったティーポットへ注ぎ始め、ハンナは気をつけてと言葉を続けた。
「ラン様は自身の考えをあまり表に出す方ではありません。おそらくユージィンもセルアもはっきりとした理由を知らないのでしょう? だからランが不安になるのも仕方がない事なのよ。それでも決して、悪い方向へ物事を進めるようなお方ではありませんからね。きっと良い結果と共に戻って来られますよ」
戻ってくるという発言に、ハンナはどこまで状況を把握しているのかと蘭は思ってしまう。随分と長い期間、もうすぐ一年とでも言えそうな程に屋敷の主は姿を隠したままなのだ。
姫を信じ切っているらしいハンナを蘭が見つめると、どうしたのかと笑い声を立てられる。
「ここではラン様の力を信じなければ暮らしてはいけないのですよ。大丈夫に決まっているでしょう?」
先視みの力は絶対であり信仰されているとは思っていたが、こうもはっきりと疑いもせずに言われてしまうと蘭は戸惑いを覚えた。
(本当に姫様は戻って来るの?)
しかしこの疑問は口にして良いものではなく、こうしたハンナの姿を見ていると自分も信じなくてはならないと思わされる部分も、わずかながらにはあるのだ。
「そうだよね」
蘭は不安を隠すように返事をし、支度の整ったトレイを手にするとセルアの元へと戻った。
「遅かったな」
いまだにソファに寝そべったままのセルアは、ちらりとこちらへ視線を寄こす。だるそうな雰囲気はあるがどうやら眠いわけではないらしいと、蘭はテーブルの上へカップを置き茶を注ぎながらに言う。
「お湯を沸かして来たんだから、このくらいはかかるでしょ?」
「ま、そりゃそうだ。そういやランはどんな感じなんだ?」
さすがに寝ながら茶は無理だとセルアは体を起こし、蘭が部屋の中を歩いていた内容に触れる。
「んー、どうなんだろう。前よりはよくなってるとは思うけど……どっちかと言えば喋り方をどうにかしないといけないのかな?」
これから先、蘭がこのまま表に出ずにいられるかははっきりとしていない。極力そうした事態を避けたいとは思っているが、その域を超えてしまった時、何もできないままでは困るのだ。
ウィルナの姫ランとして振舞えるようになる。それが蘭の今すべき事だった。
とにかく何気ない動きを姫らしくする事を目指し、先程は歩き方を考えていたところだったのだ。
蘭が差し出したティーカップを受け取ったセルアは、一口飲みこちらを見つめた。
「なら俺の前でもそうして喋ってみたらどうだ? 少しなら付き合ってやる」
「そうした方がいいかな? ユージィンといる時だけじゃ足りない気もしてたし」
ユージィンが来ると全ての時間ではないが、姫らしい口調で過ごすようにはしていた。まるきり同じは無理としても、極力近づける為に細かな指導をユージィンはつけてくれている。しかしそれもわずかなものであり、増やせるものなら増やしたいところではあった。
「なら隣に来い」
こちらの返事を聞いたセルアは片手でソファの座面を叩いて見せるが、それは特に姫とは関わりのない事だ。
「別に今日だからってわけじゃないでしょ?」
正面のソファを選んだ時点でいつ言われるかと思ってはいたが、普段通りに側へ呼ぶセルアに蘭は笑ってしまう。
「まあ、それはそうだが俺もそう頻繁には来れねぇんだ。魔力を溜めるのは避けたいんだよ」
否定する事なくセルアも笑って告げ、こうしている事で少しでも休めるのならばそれも良いのだろうと蘭は頷く。
「わかってる」
これから練習する事が本当に使う時は来るのだろうかと思いながらも、蘭はセルアの隣へと席を移した。
「必要があるのならばわたしはアンヘリカへ出向くつもりです。国中に再び戦が始まるという噂が流れ、民が不安に感じている事は明らか。わたしが出向く事でアンヘリカとの仲はわずかながらでも進展しました。ならばシェラルドとて同じ事、直接向こうの者と会うというのも悪くはないでしょう?」
城内の一室、九人がテーブルを囲み意見をぶつけ合っていた。
蘭はその中でも最も重要な、国の代表を兼ねる姫として参加している。背筋を伸ばし、自信に満ちた表情に見えるように笑みを浮かべ、散々練習を繰り返した言葉達を必死に組み立て、この場に合っているであろう台詞を紡ぎ出す。
蘭、ユージィン、セルアを除く人物は男が四人と女が二人。年齢は二十代から五十代程と決して統一されている様子はなかった。
ユージィンを見ていてもわかるように、この国では力があるのならばすぐにでも要職に就く事ができる。ここにいる人々は確実に姫に認められ、その地位に就いた者だと蘭は傍目にはしっかりとした瞳で見据えていた。
その中の一人、最も年齢の高いであろうがっしりとした体躯に立派な髭を蓄えた男が先程から主に意見を述べる。
名はサイラスと言い、城内でも特に重要な位置に就いているらしかった。セルアやユージィンの会話にもよく出される人物であり、蘭はようやく自身の中で形を成した男の言葉へ耳を傾ける。
「しかしラン様、あまりにも危険ではありませぬか? アンヘリカとシェラルドでは持っている力も違います。万が一という事も考えられるのですぞ」
それは当然の内容であり、蘭はこういった際の台詞を必死に考え始める。
姫は頭の回転の速い人ではあるが、決して急いて意見をする事はないらしい。たっぷりと時間を置いて答えた方が、本物らしく見えるとユージィンとセルアも言っていた。
この場に正体を知る二人が在席してはいるが、今は姫として話さねばならないのだ。蘭は決して助けを求める事はできなかった。
誰よりも国を思い、己の力を信じ、自ら動く事をいとわない。そして思った事は自信たっぷりに言い放つ。
教えられたものをまとめた結果、蘭の中ででき上がった姫の人物像はこれである。
「そなたはわたしの力を信じぬと言うのか? ユージィンにもセルアにも悪い未来は見えない。それに従い進む事でウィルナは更なる平和を得る」
おそらくこんな感じだろうと蘭が喋れば、男はそれもわかってはおりますがと言葉を返して来た。
どうやら大丈夫らしいと蘭には自然と笑みが生まれ、周りはわずかではあるが萎縮した様子を見せる。
すると今まで何も言わずに見守っていたセルアが口を開いた。
「俺がランを守るのなら問題ねぇだろう?」
皆が姿勢を正し着席している中で、セルアだけが普段と変わらぬ砕けた様子で背もたれに寄りかかり乱暴な口調を見せている。この異質さはわざとなのか、それとも普段からなのかが蘭には判断がつかない。
「セルアが……ですか」
サイラスとは別の男が呟き、数人が何かを理解したように頷く。
セルアもユージィンも何も言わずに座る姿から、蘭は自身が何かを告げねばならないらしいと更に頭を悩ませつつも言葉を発する。
「セルアは全てをこの国へ預ける存在、わたしの兄のような者だ。それをそなたはどう考えている? はっきりと言って構わないのだが?」
少々棘のある言い方をしてみると、男は慌てて口を開いた。
「いえ……それはわかっておりますが、やはり不安を拭い切れないのです。確かにセルアは国一番の使い手であり、今は魔力も抑えてはいない。それでもラン様に危機が及ばないとは言い切れないではありませんか」
姫はセルアを本当に兄だと思い接していたという。そして、城内での立場等を色々と気にかけ、ウィルナへと仕え続けようとセルア自身に思わせる程の人物だったらしい。
ならばセルアを疑うような内容は否定すべきだと、蘭は思ったのだ。
すると今度はユージィンが言葉を挟む。
「デールの言う事も間違ってはいませんよ、ラン様? この度のアンヘリカ行きは以前とは大きく違います。停戦しているとはいえシェラルドはあくまで敵、貴女が危険にさらされる可能性は間違いなく高まるのですよ」
笑みを浮かべ穏やかに喋るユージィンを見る限り、これまでの流れは悪くないのだろうと思える。このまま目指すべき所へ辿り着けるのかが、自身にかかっているのだ。さりげなく男の名も説明され、蘭は忘れてはならないと心に止めながら道を探す。
蘭は不安や表現しきれない圧力に押しつぶされそうだと思いながらも、次にユージィンへの答えを組み立てる。
「わたしが命を奪われる? セルアがいて本当にそのような事態になると思えると? ならば更に守る為に兵をつければ良い。わたしが選んだ者達は皆、ウィルナに良い未来を与える。それと共にシェラルドと対峙するだけです」
先視みの力は絶対であり、姫が保有している限りウィルナを導く事ができる。ハンナが信じているように自分も信じなければならないと、蘭ははっきりと言い切って見せた。
するとユージィンの瞳が鋭く見据え返してくる。
「それはつまり」
戦うのかと聞かれていると蘭は理解する。そうなった場合の答えは準備されている為、大きく悩む必要はなかった。
「戦うのではなく身を守る為。わたしは戦がしたいわけではない。民が平和に暮らせればそれで構わないのです。アンヘリカとて同じ事、彼らも傷つけられる事なく生活すべき、全てを得る為には一度シェラルドと向き合う必要があるでしょう」
姫はあくまで戦いを回避する為に動こうとしている。決して戦争を呼び起こしたいわけではなく、平和を求めるが故の意見だと知らしめる必要があった。
この言葉にはサイラスもしっかりと頷き、本当に戦いを望む者はそうはおりませんと言う。
「王は病に伏せられ話す事もままなりませんが、いまだ国の長の地位は持っておられる。ならばラン様と同じ立場として向こうが出すに値する人物は誰になるのか」
おそらくではあるが戦わない意思をはっきりと提示しセルアと兵が守ると言えば、不可能ではないと予測していたユージィンの考えが当たった瞬間だった。
まだアンヘリカへ向かって良いと口にはしないが、考えなくもないというだけで話はじゅうぶんに進展している。
「ウィルナの王は父。シェラルドは第一王子が位は継がぬままも資格を持っているはず、ならば次の地位にいるヘンリクを名指すのが当然でしょう」
「第二王子ですか……あまり良い噂は耳にしませぬが」
蘭がヘンリクの名を出すと、室内にいる誰もが表情を曇らせた。実際に本人を目にしている蘭としても同意したいところではあったが、姫の立場では許されもしない。
あくまで彼は姫と同等の地位の者として現れなくてはならないのだ。
「そうであっても、同等の条件を出さなければ話が通らないのは目に見えています。わたしがアンヘリカへ向かうのならば、シェラルドはヘンリクを出すべきとなるでしょう。第一王子のマティアスでも構わないのですが、おそらく無理というもの」
表面上はマティアスを呼びたいと言いつつも、本人が出て来れない事はわかっている。何としてもヘンリクでまとめ上げなくてはと蘭は言葉を選ぶ。
「しかし、ラン様も我が国ではもう長のような存在なのですぞ? 確かに父王はご健在ではありますが、シェラルドとは随分と条件が違ってきます」
確かにそうだ。決して同等とは言えない。周囲も口々に意見をする姿に、蘭はこれ以上何を言うべきかとわずかにだが眉を潜める。
するとユージィンが口を開き、サイラスはそちらへ顔を向けた。
「ウィルナはラン様を失えば立ち行かず、シェラルドはヘンリクを失ったところで痛手ではないという事ですか」
「はっきりと申すならばそうです。そして、今回事の発端はシェラルドにあるのですぞ? 向こうはラン様をアンヘリカへ誘い出そうとしているのではありませぬか? それでは敵の思惑通りになってしまいます」
そこへ、そもそも本当にシェラルドの人間が城内にいるのかと疑問の声が上がる。
王宮に仕える為にははっきりとした身元が必要とされており、この国において所在が不明な者は存在しないはずだった。
それが当たり前であり、疑う必要もなくこの国の者達は暮らして来たのだろうと蘭は考える。実際はユージィンとして最初から存在した者は失われ、その名を隠れ蓑として入り込んだシェラルドの王子が今この場の中心にいるのだ。
決して万全とは言えなかった。
もし、真実をこの場で知る事ができたなら、人々はどんな反応を示すのだろうか。信じられないと言うのか、それともユージィンが裏切り者かと納得した上で何かが起きるのか。
進んでいるようで問題を多くはらんだ話はまだまだ続きそうであり、蘭はとにかく必死に姫であり続けようと努めた。




