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七章.孤と個の隙に揺れる(三)

 どんな質問にも答えるとユージィンは言ったが、結局あれ以上詳しい話を聞く事もなく三人はアンヘリカで過ごす事となった。

 ユージィンにとってはアンヘリカの情報を直に得られる貴重な機会でもある。ずっと室内へこもらず、まずはウィルナの為に必要な事をしましょうと告げられたのだ。

 そうして過ごし帰って来た三人は、ウィルナでの通常の生活へと戻っていた。

 常に忙しく業務をこなしていたユージィンは、三日間城を離れた為かいつも以上に忙しそうである。セルアもこまめに顔を見せはしたが、やはりすべき事があるらしく長時間いる事はない。

 そうなって来ると、以前の様子に戻ったクロードが仕事の折に屋敷へ顔を見せたとしても、今度は入る事が叶わない。大丈夫だから入れてよと言われたとしても入れようがないのだ。再びクロードが吹き飛ばされてしまうわけにもいかず、追い返す形になっていた。

 その結果、蘭はどうしようもなく暇になっていた。ハンナに教えてもらった織物もだいぶ様になり小さな作品もいくつかでき上がってはいるが、そればかりをしているのも飽きが来る。文字を読む作業はある程度生活に必要な単語を覚えられてはいるが、文章にはまだ不安が残る状態であり途切れ途切れに教本を理解できるようになったくらいだ。

 一人で外出するわけにも行かず、帰って来てからというもの蘭は屋敷にこもりっぱなしである。

 思いつく限りの事に手を付け、それでも時間を持て余した蘭はソファに寝そべりながら呟く。

「確かにユージィンはウィルナに必要なんだろうな」

 そう言わざるを得ない状況が、滅多に城内に入る事のない蘭にすら感じられるのだ。セルアがユージィンをシェラルドの王子として捉えないようにしているのも頷ける。

 帰りの乗り合いの中でも、ユージィンではなくマティアスとして答えるべき質問をいくつかはした。だが、大半ははぐらかされわからない事だらけのままだ。

 ユージィンとセルアの様子を見る限り、どうやら蘭を交える事を避けたい内容もあるらしい。敢えてそうしている空気も読み取れた為、深く追求しようとは思わなかった。

 どんな質問にも答えてもらえるのはセルアだけなのかとも思ったが、蘭が知る必要がない事柄ならば仕方がないのだろう。セルアとでは立場が違うのだ。

 今の状況は確かに一大事だと思える部分もあるのだが、本当にそうなのか今ひとつわからないとも蘭は思っていた。

 結局、自分はユージィン、セルア、ハンナと、ウィルナで詳しく知っている人物はこれだけだ。城へ足を踏み入れても極力周りとは接する事を避け、屋敷でばかり過ごす。後は少し町中をぶらつくくらいのものであり、知らない事はたくさんある。

 顔見知りの数ならばアンヘリカの方が圧倒的に多い為、どちらかと言えばそちら寄りになってしまいそうにも思えてしまう。

「なんだか、どんどん複雑になってるだけじゃないのかな」

 弱々しくそう呟くと、今度は退屈のあまりか欠伸が漏れる。

 少し眠るべきかと、蘭は静かに瞼を閉じた。



 ふわりと頭を撫でられる感触に蘭は身じろぎをする。心地良く眠っているところを微かに邪魔して来るそれに、拒否を示そうと首を振ったが止む気配はない。

 時折そうして起こされる事のあった蘭は、寝ぼけた頭のまま口を動かす。

「セルア?」

 そして、その後に瞼をゆっくりと開けば、映りこんできたのはユージィンだった。

 穏やかな笑みを浮かべて髪を撫でながらこちらを覗き込んでいる姿に、蘭は慌てて声を上げる。

「ユージィン! どうしたの?」

 夕食前の時間にやって来るなど予想にもしていなかった上に、常ならぬ様子まで見せていた。思わずそう聞いてしまう。

「驚かせてしまいましたね」

 申しわけなさそうに手を離したユージィンは、蘭の寝そべるソファの傍らに立っていた。どうやらすっかり眠り込んでいるところを見られていたらしく、恥ずかしいと思いながらも蘭は体を起こす。

 乱れた髪を撫で付けながら見上げると、ユージィンは静かにこちらへ近づき隣に腰を下ろした。普段ならば自身の席に座るユージィンが珍しいと、蘭はやはり驚いてしまう。

「溜まっていた仕事を片付けたら、時間が空いてしまったのですよ。どうやら頑張り過ぎたようですね」

 そう言いつつ、背もたれに寄りかかる姿は少し疲れて見える。

「お疲れさま。わたしお茶を持って来るね」

 蘭が立ち上がろうとすると、ユージィンにやんわりと止められた。

「持って来ているので、大丈夫ですよ」

 見るとテーブルの上にはティーポットとカップの載せたトレイが置かれており、注ぎ口から湯気が立ち上っている。どうやらユージィンはここへやって来たばかりらしい。

 ユージィンはそれらを手に取ると蘭と自身の前に茶の支度を整えながら、笑みを零す。 

「起こそうか起こすまいか悩んだのですが……最初から声をかければ良かったですね」

 そうして目の前にはティーカップが差し出され、蘭は素直に受け取り口にする。

「ううん、別にいいよ。ユージィンだし」

「私なら構わないのですか?」

 何気なく答えた蘭は、ユージィンの問いにしっかりと頷いた。

「だって、ユージィンは何もしないでしょう?」

 何もしないという言葉もどうかとは思うが、もしここに来たのがセルアだったのならば気まぐれに一緒に寝ていたりするのだ。目覚めたら二人で狭苦しくソファにいた時の事を伝えると、ユージィンは苦笑する。

「さすがにそれはしませんね」

「でしょう? だからいいの」

 あの時は本気でセルアを怒ったな、と思いながら蘭は茶を一口飲む。

 しかし無防備に寝ている自分も良くないのかと考えながらユージィンを見ると、静かに飲み物を口にしくつろいでいる。

 どうやら本当に休憩がてらここへ立ち寄ったようだと思いながら、蘭も無理に会話をする必要もないだろうと茶をすすり、まだ寝ぼけている頭を覚まそうとした。

 しばらく二人でのんびりとした時間を過ごしていると、今度はユージィンがどのような質問になら答えてくれるのだろうかと蘭は考え始める。やはり気になる部分は多々あるのだが、それをどれだけ教えてもらえるのかはわかりづらい。

 空になったティーカップをトレイに載せながら、隣に座るユージィンへ視線を向ける

「ねぇ、ユージィン? ウィルナにちゃんと家があるって言ってたよね?」

 突然話題を振ったのにも関わらず、ユージィンは驚く事もなく頷きながら微笑んだ。

「ええ、言いましたね。ユージィンとしての家は確かにあったのですよ」

 だが、その答えには少々の引っかかりが感じられる。

「ユージィンとしての?」

「本物のユージィンと言えば良いのでしょうね。私は元々ウィルナに住んでいたユージィンという人の名を借りる形で城へ入ったのですよ」

 蘭の疑問を予測していたのかどうか、ユージィンは澱みなく答えを返して来た。特に困らせる内容ではなかったらしいと、蘭は納得し更に質問をする。

「じゃあ、その本物のユージィンはどうしてるの?」

 すると、ユージィンは笑みを更に柔らかなものへと変えてしまう。

「物騒なのでお教えできません」

 あまりにも不自然で爽やかな笑顔に蘭はかえって戸惑ってしまう。

「……それって、どういう意味?」

 恐る恐る聞くと、表情を変えないままユージィンは小首を傾げる。

「聞かない方が身の為ですよ?」

 身の為とは何なのかとも思ったが、どうやらこれ以上の話はしてくれないらしいと蘭は押し黙った。深く踏み入れないのならば、かける言葉も見つからない。

 質問を変えなくてはならないのかと蘭が頭を悩ませ始めると、ユージィンは笑みを幾ばくか自然なものへと戻す。

「似た年頃で、体格もあまり変わらない。そして、髪型や色を変えれば成り代われる。そうした相手を探してここへ来たという事です。深く知るのはおやめなさい」

 物騒と成り代われるという二つの言葉で思い浮かぶものはあったが、蘭も口に出して聞く必要はないのかもしれないと俯く。

 おそらくだが本物のユージィンはいないと言われている気がした為、追求する事すらも恐れてしまった。 

「じゃ、色を変えるっていうのは?」

 ならばと今の会話で気になったところへ話を変えてみると、ユージィンの表情は普通だった。これは今のところ大丈夫らしいと蘭は安堵する。

「ヘンリクの髪と瞳の色を覚えていますか」

「うん、銀色が印象的だったかな。目も紫で不思議な感じがしたかも」

 長く伸ばした艶のある銀髪に細く釣り上がった薄い紫の瞳、それが蘭の思い出すヘンリクの姿だ。

「私も本来は同じなのですよ、銀の髪に紫の瞳。それらを黒く染め、髪を切っただけです。他は以前となんら変わりがありません」

 目の前にいるユージィンはきちんと整えられた黒い髪に優しく微笑む黒い瞳である。それがヘンリクと同じ銀と紫である姿を蘭は思い描く。今でもじゅうぶんな美しさを見せてはいるが、本来の色ならばそれは更に華やかなものになるであろう事が想像できる。

 ヘンリクは初めて目にした時、鋭くもどこか病んだような表情を浮かべていた。しかし先日、ユージィンを目にした瞬間だけは生気を宿し華やいだ笑みを見せたのだ。

 おそらくユージィンはそれ以上の輝きを放つ、蘭にはそう思えた。

 髪を染め、瞳の色を変えるという方法も気にはなったが、糸が魔力により髪になってしまう場所なのだ。そのくらいは術でどうにでもなるのだろうと思い、蘭は質問を変える。

「どうしてそこまでしてお城に来たの?」

 これはユージィンを少々困らせるものだったらしい。随分と間を空けた後に言葉が返された。

「先視みに呼ばれたから……ですね」

「呼ばれた?」

 見る事によって感情を覚えると言っていた先視みに呼ばれるとはどういう事だろう。蘭はよくわからないと首を捻ってしまう。

 ユージィンも伝わらないとは理解しているらしく、あくまでそう思っているだけですよと続けた。

「私はある時アンヘリカへ向かいました。すると、アンヘリカをウィルナへ奪われるという思いに駆られたのです。どうしてかはわかりませんが、ここを奪われてはいけないと強く思わされたのです」

「思わされた?」

「先視みの力を得てすぐに気付いた事は、見る相手毎に不安や希望、そういった感情を強く感じる事でした。それは良い感情ならそれ程苦にはなりません。しかし、悪い感情は思っていた以上に辛いものでした」

 想像で補う事しかできないのだが、蘭はユージィンが言っている内容を理解しようと必死に考えた。

 この場合は自分が思っている感情とは別に、強制的に良いか悪いかの感情が生まれるという事で構わないのかと聞くと、ユージィンはそうですと頷く。

「基本的に城内は良い者達が置かれていたので生活し易くはあったのですが、唯一良くない思いに駆られる相手がヘンリクでした。彼は生まれた時から良くないと言われ、殺されるはずの身だったのですよ。それを母が身代わりになり救い、生き長らえる事ができました」

 色々と複雑な事情があるらしかったが、ユージィンはそれ以上を話そうとはしなかった。蘭が何かを聞こうとしても、触れられたくないとばかりにはぐらかされ不自然な笑みを返される。

 そして、ユージィンは強制的に話を進めた。

「ヘンリクは私を慕っています。そして、私もそれを当たり前に受け入れて生活をしていました。ですが先視みを手にした後にヘンリクを見るのは、正直苦痛でしかなかったのですよ。これをここへ置いてはいけないという思いばかりが強くなり、消し去りたくなる。しかし、それでは先視みの力に負けている、そうも思い我慢を重ねました。結局、耐え切れなくなりアンヘリカへ向かい、そこでまた奪われる思いに耐えられなくなり、ウィルナへ来ただけです」

 その後に一度シェラルドへ帰り、必要な事は済ませて来ましたがねとユージィンは念を押す。

「ここへ来ると、あれだけアンヘリカを奪われると思い憎みたくなる存在だったウィルナが、今度はとても魅力的な……何と言いましょうか、私を救ってくれるものに見えたのですよ? おかしな事だとは思いますが、本当にそう思うのです。

 結局、ヘンリクを殺す、アンヘリカを手に入れる、ウィルナで救われる。三つの中で私が選んだのがウィルナだったというだけです。そして、その結果がどうなるのかはいまだにわかりません」

 先視みを手に入れた事でユージィンに大きな影響を与えたのが、この三つだったらしい。その中で最善だと思われるのがウィルナ、そう信じて入り込んだという。

 そこまでさせる先視みが何なのかはわからないが、どうやらただ便利なだけではないという事はわかる。

「なんだか人によっては振り回されそうな印象かな? わたしなら手に負えない気がする」

 どれを選ぶべきかと考える余裕がない人間なら、とっくにヘンリクを殺しアンヘリカを奪おうと躍起になっているのではないだろうか。

 蘭が告げると、ユージィンは笑った。

「まさにそう言った感じですね。本来の自分とは違う感情に強制的に流される、そうした力なのですよ。だから、私は信用できないと思っていました」

「いました?」

 何故過去形なのだろうと聞き返せば、ユージィンは立ち上がり机の引き出し奥深くに保管していた赤い表紙の本を取り出す。

「蘭がこれを見つけたでしょう? そのおかげですよ」

 そう言いながらユージィンは再び蘭の隣へ腰を下ろし、静かに表紙を撫でる。

 自分が見つけたという表現が適切なのかはわからない。だが、セルアの魔力が暴発し蘭が止めた事により、本は発見された。その内容はユージィンにとってどのような意味を持っていたのだろう。

「姫は本の存在を先視みを手に入れてすぐに気付いていた為、私程には困らなかったのかもしれません。先視みが不完全だと知り、その上でどう振舞うべきかを考える事ができた。私の目から見ても彼女の采配は素晴らしいものでしたよ」

 何かを思い出しているらしいユージィンはとても嬉しそうに相好を崩す。

 ユージィンが大きく様子を変えるのは姫に関する時ばかりだなと、蘭は改めて思いながらも口を開いた。

「そんなにも凄かったの?」

 するとユージィンはしっかりと頷く。 

「良い未来を見せる者はそのまま、悪しき未来を見せる者には別の環境を与える。それだけで未来は変わる、いるべき場所が変わるだけで先視みの内容は変わるのです。ほんの少しの違いで、何もかもが変わるのですよ」

 何もかもが変わるとは、ユージィンが見ている景色が変わる事なのだろうかと思いながらも、蘭ははっきりとは頷けない。

「力そのものを実感している私でも不思議なのですから、無理に納得する必要はありませんよ。とにかく先視みの結果により、その者を殺してしまうという使い方は間違っていた。それがはっきりとわかったのですから安心しましたね」

 ウィルナもシェラルドも先視みにより処刑をしていたとは聞いていたが、そうなるとまた違った問題が出てくるはずだった。

「なら、住む場所が足りなくなるよね?」

 良くないとは思うが、魔力で守り続けて行くしかないこの国では人減らしは必要なのかもしれない。そう思わされた理由が確かにあるのだ。

「それは、先視みが本来の役割を果たさなくなった代償なのでしょう」

「代償?」

「本来の先視みはただ一つ。決して分けてはならぬと言われていた力のようです。それが何らかの理由で二つになりウィルナとシェラルドになってしまった。結果、この世界は変わったのではないかという見方が有力なのですよ」

 ユージィンの曖昧な口ぶりに戸惑いながらも、蘭はあるものに行き着く。

「もしかして、分かたれたものって先視みの力って事?」

「そのようですね」

 はっきりと言い切れる程でもありませんがと付け加えつつも、ユージィンは肯定を返してきた。

「そうなると姫が書いていた文章の意味はわかった事になるよね?」

 分かたれた物が一つになれば、欠けた魂は戻る。

 姫が書き残した言葉が指していたのは二人が宿している先視みの力と、魂の欠片……蘭自身になるのだろうか。

 現時点ではそれが最も答えに近いとは思えたが、やはり確実とは言い切れない。

 ユージィンも、おそらくと言う事しかできませんがねと苦笑した後に続ける。

「先視みの力を持つ私と姫が同所にいた事により、ランがここへ現れたと考える事はできますね。しかし、その片割れであるはずの姫は同時にいなくなってしまった。それでは全てが揃わない事になります」

 確かに今の話ではユージィンと姫、蘭の三人がいなければ成り立たない事になってしまう。

「ただ、はっきりとした条件はわかりません。私は姫が先視みの力を得る前から側にいて、その後も三年を過ごしています。もっと細かな条件の上で何かが起こったと考えるべきなのでしょう」

「そう……だよね」

 どうにも行き詰ってしまい、蘭はまた質問を変える事にする。

「そもそも魂の欠片は何なのかな?」

 どうやら自分が魂の欠片らしい。そう思える状況があまりにも重なった為、何となくだがそうなのだろうと思ってはいる。しかし、はっきりできるのものならば正体を知りたいのだ。

 するとユージィンは本を静かにめくりだし、ある頁で手を止める。

「どうやら遠い昔の王が先視みの力を手に入れる際に差し出したものが、魂の一部になるようですね」

 一部を差し出すと言われたものの、魂とは蘭が考えているものと同じものなのだろうか。

「そんな事ができるのかな?」

 魂とは、死ぬと抜け出てしまう何か。そうした印象しか持ち合わせていない蘭にとっては、一部を差し出すという状況が全くわからない。ユージィンも同じように捉えているのかと聞けば、魂とは形のわからない個人そのものを表す何かだと思っていると言われた。

「私にも一部を差し出すという表現はわかりません。しかし、実際にあちこちに魂、欠片といった文字が残されています。本当に魂の欠片なのかはわかりませんが、意味はあるのでしょう。そして、この本の中でもその真意まではわかっていないようですね」

 本は歴代の王の中で国中を走る道を読み解き、存在を知る事ができた者によって継がれてきた物らしい。誰が最初に作り魔力を込めたのかはわからないが、長い時代を劣化する事なく過ごし少しずつ必要な情報を記して来ている。それが積もりに積もった今の状態でも、不明な点は多いらしい。

 先視みは元来一つのものであり、分かれてはならなかった。そして、それを手に入れる代償として魂の一部を差し出している。

 はっきりしているのは、これだけだというのだ。

「大半は先視みを手に入れた王達の心境が書かれていたのですよ。どうやら誰もが力によって流れ込んでくる感情を持て余し、病んでいっている印象がありましたね」

 読めないふりをしながら読むのは大変でしたと言ったユージィンに、蘭はあの時の姿を思い出す。

 珍しく疲れを見せていた理由は、契約文字によって脳裏に浮かぶ言葉と共に走り書きの文字すらも読んでいた為だったのだ。

 確かにそれならば疲れただろうと、蘭は改めて納得をした。

「あの時点ではわたし達に知らせるつもりはなかったって事なんだよね?」

「突然、私はシェラルドの王子ですと言うわけにはいきませんでした。姫がいるのならば……いえ、彼女は本の存在を私には知らせなかったのですから、ランでなければ知る事はできなかったのでしょうね」

 そうして呟くユージィンの表情はどこか陰りを帯びる。

 詳しい心情までを見抜く事はできないが、何かを憂いているらしいユージィンを見つつ蘭は声をかけた。

「今までに何があっても、私に見える未来は明るいんでしょう?」

 ユージィンは蘭がクロードにさらわれる時でさえ、未来が良いのならば先へ繋がるだろうとそのままにしたのだ。

 そして現時点でも自分の未来が良い内容であるならば、現状はこれで構わないと思うほかはないのだろう。この場所では先視みというものが何かを担っているのであり、ユージィンは効果を実際に知っているのだ。

「なら、これも必要な事って考えるしかないし、ユージィンがいなくなる前に見た姫の未来だって良いものだったのなら、まだ何かが足りないだけなのかも。きっときっかけがまた来るんだよ」

 わずかではあるが不安を感じさせるユージィンを見ていると自然に言葉が出た。先視みの力を信じ切ろうとしても、信じ切れない。そんな様子に向け明るく告げた蘭へ、ユージィンは驚いたように目を見開いた。

「やはり似ているのですね。ランと姫はとても似ています。姿形ではなく貴女の中にある何かが近しいように思えますね」

 そうして次に寂しげな笑みを浮かべるとユージィンの手はこちらの髪に触れ、蘭は驚きと共に瞬きを繰り返す。

「先程は貴女がすぐに目覚めて良かった」

「そうなの?」

 蘭としては間抜けであろう寝顔を見られたくはなかった為にすぐに気付いた事を安堵していたのだが、ユージィンはどういった理由なのかと首を傾げてしまう。

「どうしても寝顔は姫に見えてしまうのですよ。同じ姿で変わらぬ未来を映し出している……目覚めているとこんなにも違うというのに」

 似ていると言ったかと思えば、すぐに違うと告げるユージィンの様子はどこか不思議だ。しかし、そう言いたくなる何かが自分と姫の間にはあるのだろうかとも思える。

 何も言わずに蘭の髪に触れ続けるユージィンの意識は今、こちらには向いていないのだろう。蘭はそう思いながら、何も言わずにただユージィンの動きを受け入れていた。

 すると、二人だけの空間に一つの声が乱入して来る。

「何してんだ?」

 そう言いながら姿を見せたのはセルアなのだが、どうやら扉がしっかりと閉まっていなかった為、いつものような大きな音を立てて入ってくる事態にはならなかったらしい。

 姿を認めたユージィンは蘭の髪から手を離すと姿勢を正し、セルアへ声をかける。

「今、来られたのですか?」

「ああ、そうだ」

 足音を立てながら側へ来たセルアは急に屈んだかと思えば、ソファに座っている蘭の背中と膝裏に無理やり腕を突っ込む形で体を持ち上げた。

「ちょっと! 何?」

 突然すくい上げられた事で歪んだ景色に少々目を回しながらも蘭が声を上げると、セルアはぼやくように呟く。 

「ユージィンは害がないとは思うんだが、気に入らねぇ」

 自分を軽々と抱え上げたまま拗ねた表情を見せている姿に蘭は呆れるばかりだったが、このままの状態でいるのも落ち着かない。

「とにかく降ろして!」

 蘭がしっかりと睨みつけているにも関わらず、セルアは聞き入れるつもりがないらしい。不服そうにしながら足を進める。

「……降ろしなさい」

 それでも続ければセルアは何も言わぬまま、腕から降りられるように体勢を傾けた。蘭はすっくと立ち上がり、セルアをねめつける。

「もう、別に何でもないでしょ? ユージィンと話してただけだし」

「わかってる。ユージィンなら安心だからな」

「なら、どうして?」

 どうやらお互いに問題はないと思っているらしいと蘭が聞けば、言葉を発したのは話題になっている本人だった。

「さすがにそうも無害と言われると微妙な気持ちになりますよ?」

 そう告げながらもこちらを眺めているユージィンは面白そうに笑っており、セルアはそれにすら不愉快そうな表情を見せる。

「ユージィンなら信用できる。だがマティアスなら信用できねぇ」

「不思議な事を言いますね。どちらも私でしょう?」

 そうしてわざとらしく首を傾げたユージィンに、セルアは瞳を鋭くさせてしまう。

「ユージィンを演じ切ってるなら問題はねぇ。だが、最近はマティアスを垣間見せてるだろう?」

 すると今度は急に蘭の腕を掴むとユージィンから離れた位置にあるソファへ強引に座らせ、セルア自身も当然のように隣へ腰を落とす。

「正体を知られた今、貴方達の前では構わないでしょう?」

 くつくつと笑い声を漏らしつつユージィンが言うと、セルアは面白くなさそうに溜息をつく。

「それでぼろが出ても知らねぇからな」

「心配してもらえるだけ良いのでしょうね」

 それにすら微笑み返したユージィンを見たセルアは、うんざりしたと言いたげな表情浮かべる。

「んで、その本が出てるって事は、ランにも説明をしたんだよな?」

「簡単にですがね」

 ユージィンの膝の上には赤い表紙の本が載せられたままだ。どうやらセルアは蘭よりも先に詳しい内容を聞いていたらしい。

「なら、この前話をした二つに分かれた原因ってのはあの予想でいいんだよな?」

 蘭の肩を抱き更に引き寄せながら言ったセルアに、ユージィンが黙って頷く。 

 二つに分かれるというのだから先視みの事なのだろう。先程は何も言わなかったではないかと蘭はユージィンを見た。

「わかってたの?」

「確実とは言い切れませんが、悪くはない案といったところですね」

 ユージィンはそう言いつつ、本を目の前にあるテーブルへ置きある頁を指し示した。

「どうやら兄弟喧嘩の結果が、この現状をもたらしたのではないか、という事です」

「兄弟喧嘩?」

 あまりにも予想外な台詞に蘭が繰り返せば、ユージィンは兄弟喧嘩ですと念を押す。

「どちらの先視みも、先代が扱いきれない状況になると受け継がれます。それは主に親から子へと移るのが一般的、現在のシェラルドのように王子が二人いるのならば兄が力を得るのですよ。分かれる条件はすぐにわかるでしょう?」

 兄弟間で分かれる事はないのかと思いながらも、蘭は考える。それは先に兄が生まれているからこその優先順位なのだろう。ならば、先視みが分かれる原因となるのは一つ。

「双子って事?」

「そうなるのでしょうね。双子であれば優先順位が曖昧になると考える事ができます。それが先視みが不完全になった原因でしょう」

 先視みを分ける事態だけは避ける。代々受け継がれていた言葉だったのにも関わらず、それを実行できなかった代で先視みの力は分かたれた。

「そしてそれを肯定するならば、姫は私との間の子を身篭った事になりますね」

「子供?」

 またも思いもしない言葉を紡いだユージィンに、蘭は驚いた声を上げる。

「親から子へ伝わるのですから、分かれた先視みを持った者同士が結ばれれば一つに戻るのでしょう」

 確かにそうなのかもしれないとは思えた。親から子へ引き継がれる力を一つにするには、二人の間に子供を設ければ良いのだろう。

「でも、それは確実なの?」

 蘭が聞きたかったのは力が一つになる事ではなく姫が身篭っているという点であり、ユージィンにも伝わったらしい。

「残念ながら確信はできませんが、そうなるような間柄ではありましたからね」

 蘭は何と返事をすべきか困り、とにかくユージィンと姫の間には既成事実があるようだと無言で頷く。

「ただ、私は姫に騙されていたのかと少々傷付いてはいるのですよ? どうもあの方の思惑に操られていた気がしますからね」

 溜息交じりのユージィンの言葉に蘭がどうしたのかと思うと、今まで黙っていたセルアが笑う。

「それがユージィンの本音って事か」

「そう言いたくなるような状況でしょう?」

 珍しく不満げな表情を見せたユージィンに、セルアはますます楽しそうな笑みを浮かべながら蘭へ顔を寄せる。

 間近に近づいたセルアへよくわからないと蘭が目で訴えると、口端が意地悪そうに上がった。

「どうやら大好きな姫様に利用されていたらしい事を知って、ユージィンは酷く傷付きましたってこった」

 ユージィンが姫は二人を異性として見ていないと言っていた。そして、本人は認める発言をしなかったが、ユージィンは姫が好きなのだろうとは蘭は思っている。

 しかし子作りをするような関係ではあるのであり、とにかくややこしいと思いながら聞く。

「そうなの?」

「わざわざ言う必要はないでしょう、セルア」

 セルアが何かを発する前に声が割り込み蘭がそちらへ目を向けると、ユージィンが見た事のない表情を浮かべていた。常ににこやかなはずの目が鋭くなっている姿に、こんな時ではあるがヘンリクと兄弟なのだと思わされた。

 すると、隣にいるセルアが我慢できねぇと言い、思い切り笑い始める。

「ユージィンをからかう機会なんてそうそうねぇからな」

 そうしてふざけて言ってみせたセルアだったが、突然に笑みを潜めた。

「あいつはユージィンを利用したのかもしれねぇが、それだけでもないはずだ。そのぐらい気付け」

「…………」

「悪いが俺の方があいつといた時間が長ぇ。ユージィンよりもわかる部分はある」

 何の返答も得ないままセルアが続ければ、ユージィンは目元を緩め溜息をつく。

「……私もマティアスとして得を考えた部分もありますので、真実は本人に聞く事にしましょう。まあ、これで何となくではありますが姫のしようとしていた事もわかりました。後はアンヘリカがどう関わってくるかでしょうね。あなたが魂の欠片と契約文字を残したのが、マルタの言う通りあの町を作ったと言われているアンヘリカという名の女性なのか」

 これ以上話を続けたくはなかったのか、ユージィンは無理やりに話を逸らす。セルアは隣で面倒くせぇ奴だと呟きながらも話を聞いてはいるらしかった。

 この世界へやって来て、蘭が最初のきっかけを手に入れたのはアンヘリカだった。アンヘリカの代表を務めるマルタの胸にぶら下がり、蘭の脳裏に言葉を浮かび上がらせた板を残したという人物。

「本当に実在した人なのかな?」

「名はどうあれ板に魔力を込めた人物がいるのは確かです。仮にアンヘリカとしておきましょう」

 蘭の疑問にユージィンはそう答える。確かに名前はどうあれ、板に魔力を込める人間がいなければ話は始まらない。

「そして、その人は先視みが分かれた時代にいたのか、それとも後世に事実を調べ上げただけだったのか。知りようがないとは思いますが、決して無関係ではないのでしょう」

「双子が産まれ、先視みが分かれるきっかけができた。アンヘリカは魂の欠片としての人物を見極める契約文字を残している。確かに無関係にはならなそうだな、先視みが正常ならば魂の欠片を探す必要性は薄いと考えるべきだろう」

 先視みが分かれてしまったからこそ魂の欠片は探されているとセルアは告げるが、当事者だと思われる蘭にはやはり何もわからないままだ。

「でも、わたしは魂の欠片として何をすべきかがわからないよ? ただそうなのかな? って思うくらいだし」

 蘭の意見にセルアが頷いた。

「確かに、はっきりとした目的を残していないのが……わかんねぇな」

「折角なら、何をしたらいいのかも残してくれれば良かったのにね」

 そうなっていればこうも悩む事態にはならなかっただろうと思えば、ユージィンが同意する。

「それが一番だと私も思いますよ。いったいどんな思惑があったのでしょうね。とにかく、私とランと姫、それで全てが揃うのでしょうか?」

 そこで蘭は急に思い立つ。

「その為にはわたしが帰らないといけない気がするな。やっぱり」

 三人が必要だと話しているのはわかっているが、本当に微かにだが自身が帰らなければ姫は戻ってこないと蘭は思う。

「なんだ急に?」

 セルアが不振そうに覗き込んで来るが、蘭は気にも留めずに言葉を続けた。

「わたしがここに来て姫様がいなくなったんだから、わたしが帰れば姫様も帰って来ると思うんだよね。どうしたらいいのかはわからないけど」

 何故か突然、帰らなければならないという思いに強く駆られた蘭の肩をセルアが掴み、向かい合えるように動かされる。

「ランが帰らないままあいつを連れ戻せれば問題ねぇだろうが」

「問題ないって、そんな事できるの?」

「できるも何も、どうやって来たのかもわからねぇんだから、帰り方もわかんねぇだろ?」

 セルアが言う事もわかる気はしたが、やはり帰らねばならないと蘭は思うのだ。

「私は帰るべきだと思う。今は姫様の代わりだからここにいられるけど、そうじゃなくなったらここで暮らしていける気もしないし」

 考えないようにはしていたが、家族や友人、学校と本来自分が身を置いていた世界を思い出してみると、そこが暮らすべき場所だと思うのだ。この世界は蘭を必要としている場所とは思えない、望まれ続けているのはウィルナの姫であり自分は間借りしているだけの存在なのだ。

 とにかく帰りたいと言う蘭を見たセルアが、心配そうな表情を見せる。

「帰りたいのか?」

「……帰るべきだと思う」

「俺はランが帰りたいのかを聞いてる」

 帰りたいと帰るべきの違いも蘭はわかっている。だが、それをはっきりと言う事はできない。

「わたしはセルアもクロードも選べないし、この世界にいる事も選べない……んだと思う。本当に帰れるのかもわからないけど、帰れないのもはっきりしていないでしょう?」

 もう帰る事はできない。蘭はここでずっと暮らすしかない。そうはっきりとわかるのなら腹も括れる気がしたが、どうにもならないのもわかっている。

 この不安定な状況で何かを選ぶ事自体が無理だと思ってしまう。

「ここが嫌か?」

「嫌とかじゃない、ここにいるのだって楽しいし、アンヘリカだって楽しいよ? 嫌な事もあったけど、そんなのどこにだってあるもの。でも、私の居場所じゃないとは思う」

 ここは姫の場所であり、蘭の場所ではない。

「作ればいいだけの話だろうが」

 セルアはそう言うが、作るという状況が今は頭に浮かぶような気がしなかった。

「…………」

 何も言えず、蘭はただセルアを見る。心配そうに自分を見つめている瞳、そして言動は蘭の意思を尊重する為に帰りたいのかと聞いたのもじゅうぶんにわかった。

 居場所を作ればいい、そう言ってくれている事もわかってはいる。その中にはセルアが自分を受け入れてくれるのだろうと感じるものもあった。

 だが、どうしても思考が上手く働かない。とにかく帰らなければならないと思うのだ。

「わたしはここにいるべきじゃないのよ。姫様がいないとウィルナは先視みがないままになってしまうでしょ? でも、帰ってくる兆しなんて全然ないし」

「それを知る為に俺達は足掻いてんだろうが、ランが帰る事が重要なのかもわかりはしない」

「だから、わからないんでしょ? わたしはいられるのか帰れるのかもわからないままで……答えなんて見えてこない。帰らなきゃって思わないと駄目なのよ!」

「その駄目だが俺にはわかんねぇんだよ。このままここにいる事を考えてみるのだって構わないだろうが?」

「それじゃ何も変わらないの、帰るって思っていないと……」

 帰るという目的の為に自分はここにいるとのだと言いつつも、蘭はその先が見つけられない。

 どうしたら良いのかわからないまま口をつぐみセルアを見つめ続けていると、ユージィンの声が入り込んでくる。

「セルア、そのくらいにしてはどうです? 迷いが出る程にランがここを気に入ったと思うべきでしょう。違いますか?」

 そして、その言葉に蘭はそうかと思う。

 いつの間にか自分が本当に帰りたいのかも、わからなくなってしまっていたのだ。


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