七章.孤と個の隙に揺れる(一)
ユージィンが帰れと告げただけにも関わらず、一行はヘンリクの腕の傷へ簡単な処置を施すと本当にこの建物を後にしてしまった。
ヘンリク以外の人間がユージィンへ声をかける事はない。しかし、言葉がなくともそこにいる人々の動きは明らかにユージィンに従い、無理やりに近い形でヘンリクを連れ出して行く。
本当に仕えるべき人物はユージィンであり、今はヘンリクが何を言っても通らない。そう思える空間がわずかの間、蘭の目の前にはあった。
蘭、セルア、クロードの三人はその光景にただただ飲まれ、唖然と見守るばかりであり口を挟む事もできない。
蘭の側へ来たユージィンは普段通りの笑みを浮かべ声をかけては来たが、シェラルドの人間を見て話す時には雰囲気が変わる。冷たい瞳と冷たい声音で端的に指示を下す姿を見ながら、どこでなら言葉を発する事が叶うかと蘭は考えたが、どうしても思い至れぬまま時は過ぎ彼らは目の前を去って行ったのだ。
室内はアンヘリカという町のものと考えると、随分と豪華であると言えた。蘭が町の全てを知るわけではないが、見知ったものとの差は歴然である。
長期滞在を目的とした場所ではない為か、置いてある物は決して多くはない。だが、テーブルや椅子など必要最低限の品はどれも細工を施された手の込んだ造りになっている。
中央に据えられたテーブルに対し、椅子が十脚。それがこの部屋の主だ。中でも奥の中央に置かれている椅子は一際豪華であり、ユージィンはそこへ当たり前のように腰を据える。
蘭が見慣れているたたずまいと変わらぬはずなのだが、ユージィンはどこか異質な空気をまとう。
「このまま何もしなければ良いのですがね」
二部屋先にある入り口から出て行ったヘンリク一行へ向けたらしい言葉を吐き出したユージィンは、珍しく肘かけに腕を載せると足を組んだ。
「この状況ってそれだけで済むの……かな?」
ユージィン以外の誰もが何も言えずにいた中でようやく声を発したのはクロードであり、見守る事しかできなかった三人の代表のような台詞だった。
この発言に押されてか、セルアがユージィンへ強い眼差しを向ける。
「済まねぇだろうな、どういうつもりなのかを知りてぇところだ。おい、ユージィン! いや……マティアスって呼ぶべきか」
言い直したセルアへ、ユージィンは今まで通りで構いませんよと苦笑すらして見せる。
「現在の私はウィルナに仕官しているユージィンです。それ以外の何者でもありませんからね」
「何者でもありませんだと? はっきりと自分がマティアスだと名乗っておいてどういうつもりだ」
体勢は違っているが見慣れた表情をしているユージィンに対し、セルアは眉間にしわを寄せ声を荒げながらテーブルへ近づくと天板に両手を着く。どれだけ力を込めたのか驚く程大きな音が部屋中に響いた。
だが、ユージィンは動ずる気配もなく口を開く。
「それが私の今あるべき状況だからですよ? 確かに私はシェラルドのマティアスですが、あちらを取り仕切っているかと言えば違います。現在は長期休暇中とでも言いましょうか。とにかくウィルナの為に働いているのが主ですからね」
「ウィルナの為? シェラルドに利があるから入り込んだって事じゃねぇのか? ランが塔で道を読んでからお前の行動がおかしいと思っていたらこの通りだ」
セルアの発言も蘭にとっては初耳だった。以前、塔へ登り国中に張り巡らされた道が契約文字であると知る事ができた。だが、その後のユージィンの動向など知る事もなければ、気にする必要もなかった。
しかしセルアの口ぶりは違う。ユージィンが何か思い当たる行動をし、気にしていたのは明白だ。
「私も不自然になるとわかった上で動かざるを得ませんでしたからね。セルアにはいつ聞かれるかと思っていましたが、そうはいきませんでしたか?」
問い詰めるようなセルアに対し、ユージィンは余裕の笑みで何故今になるまで聞かなかったのかと告げる。
するとセルアは目つきを鋭くしながらも、口ごもった。
「それは……」
「もし事実だったのなら、ウィルナは立ち行かないからですか?」
先程からユージィンの口調が澱む事はなく、対するセルアが悔しそうに口元を歪め黙り込んでしまう。
それでも、しばしの間でセルアは口を開いて見せた。
「立ち行かないどころの話じゃねぇだろうが。今はあいつがいなくてランがいる。その状況で代わりに国を仕切ってる奴が敵国の王子。いや、本来ならとっくに王として名乗りを上げるべき人間だった。信じたくもねぇ」
「そうなるのでしょうね」
神妙な面持ちで頷いたユージィンへセルアは喚く。
「お前が納得するな! 王が倒れたのもユージィンのせいじゃねぇのか?」
三年前、いや蘭がこの世界へ来てからを考えるとおそらく四年近くも前、ウィルナの王は病に倒れている。その時城内にシェラルドの者がいて、毒を盛ったのではないかという話が出たと蘭は聞いていた。最終的には病だと落ち着いたらしいが、今その疑惑が目の前にいるユージィンへ向けられている。
果たしてどう答えるのかと思っていると、ユージィンはしっかりと頷いた。
「先程シェラルドに利があって入り込んだと言われましたが、確かにそう思いウィルナへ来たとは言えますね。ですが、ウィルナにも貢献はしているでしょう? 王が倒れた事で国はより良くなりました」
ヘンリク達の前で見せた姿など思い出させない程にユージィンの表情は柔和だ。優しく笑い、穏やかに喋る。先程の姿は夢だったのかと思いたくなるくらいに、ユージィンは蘭の見知った姿と変わらない。
だが、発言の内容ははっきりと王が倒れ国は良くなったと言い、自身が貢献しているとセルアの質問を認めているのだ。
セルアの表情はますます険しくなり、更にユージィンを睨み付ける。
「ならあいつがいなくなったのもユージィンが仕組んだのか? 狙うなら王だけではなく姫だって同じだろうが! あいつがいなくなれば、先視みは国政に疎い奴へ引き継がれていく。じゅうぶん内側から壊すに事足りるだろう?」
「それは、違います」
セルアの瞳をしっかりと正面から見据えたユージィンは、はっきりと言い首を横へ振る。
「証拠は?」
「ありません」
「信用すると思うのか?」
「信用していただくほかはありませんね」
そのまま二人の会話は続けられるが、疑うセルアに対しユージィンは違うと答えるばかりであり、どうにも先へ進めない。そう思っていた時に仕方がありませんね、と溜息をこぼしたのはユージィンだった。
「私がマティアスだという事を、姫は知っておられました。その上でウィルナに関わっていたのです。あの方へ手をかけるつもりなど毛頭ありませんよ」
「あ?」
セルアは反応したものの、うまく言葉は出なかったらしい。大きく目を見開いたままユージィンを見つめ、止まる。
その姿を見たユージィンは楽しげな笑い声を立てると、蘭とクロードへ視線を移した。
「とにかく皆さん席へ着きましょう。立ったままでは疲れるでしょう? おそらく長い話になりますからね」
部屋の入り口近くで二人の様子を遠目に窺っていた蘭とクロードは突然の事に何も言えずにいたが、ユージィンは気に留めぬまま続ける。
「おかけなさい」
再び座れと言われ蘭は足を踏み出しながら、何もかもがユージィンのペースだと思いつつ椅子に腰かける。クロードも無言で隣へやって来た。
こちらへ視線を向けたセルアは不機嫌そうに眉を潜めると、もう一方の蘭の隣へ足を運び乱暴に椅子を引く。そして座ったかと思えば、盛大な溜息をついた。
「長ぇとかの問題じゃねぇ。俺だって混乱してるんだ、ランとクロードは余計にわかんねぇだろうが?」
蘭とクロードが素直に頷けば、斜め向かいにいるユージィンがそうですねと笑みを浮かべている。
正面に座るべきなのはセルアだと思い、蘭は少し離れた位置に腰を据えていた。クロードは更に遠くになってしまったが、声が聞こえぬわけではない。セルアがユージィンと向き合う形で話は進められる。
「驚いているけれど、わたしは何となくついていけてるかな」
蘭がそう告げると、クロードは難しい表情でテーブルに両肘をついた。
「オレはちょっとって言うよりは、さっぱりついていけない。前からわかんない話の時はあったけどさ、ウィルナとシェラルドは実際どうなってるのかな?」
二人の言葉を耳にしたセルアが、背もたれに寄りかかりながら目線で蘭とクロードを示してみせる。
「この状況でどこから話を進める気だ?」
「どこからも何も、最初からでしょうね」
動じた姿を一切見せぬユージィンは、本当に部屋の主であるように見えた。
ユージィンはまずクロードの為に、簡単ではあるが姫は不在でありおそらくだが代わりに蘭がいるという話をした。そして細かい部分をだいぶ削りはしたが、大まかな流れを聞いたクロードが目を丸くしている。
「ウィルナの姫様は本当にいないって事? ランが代わりをしているのは誤魔化す為で、行方も全然わからない?」
身を乗り出すようにしてユージィンの話を聞いていたクロードが問うと、セルアが頷く。
「そういうこった」
「じゃあ、前に言ってたランがアンヘリカでもウィルナでもシェラルドでもない所から来たって話も本当?」
次々と質問をするクロードの言葉が、自分の答えるべき内容になり蘭は頷く。
「そう、わたしはこの世界の人間じゃないの」
するとクロードはそっかと小さく呟き押し黙ってしまった為、蘭は視線を向ける。
「どうしたの?」
何とも言えない。そう表現できる表情を見せたクロードは、乗り出していた体を戻し背もたれに寄りかかるとぼやくように告げる。
「前にセルアとそんな話をしてた時にオレも口は挟んだけど、どこか信じてなかったんだよな。てっきりオレと一緒で記憶がないのかと思ってたから」
確かにそういった話をした時があったと思い出しながらも、蘭は不思議に思い首を傾げる。
「記憶がない?」
「そう。オレと一緒で覚えてないって事だと思ってた。アンヘリカとウィルナとシェラルド、どれでもない場所なんてあるはずがないし、ランは忘れてしまったんだと決め付けてたんだ。でも、詳しい話もしてたんだから、本当なんだなって思うべきだったのかもしれない」
一概に信じられる話ではなく仕方がないのだろう。セルアやユージィンは姫の屋敷にいたという状況もあり信じてはくれたが、わたしは違う世界からやってきた人間ですと言われて納得するのは難しい話だ。
「お前の考えは間違っちゃいないだろうよ、見た事もない世界があるだなんて思いもしねぇ。あいつが先視みをしていた上でいなくなり、ランが現れたから俺達は信じるしかなかったってだけだ。まあ、今の状況からするとユージィンは違うかもしれねぇがな」
クロードの意見に同調したセルアが、ユージィンへ目を向ける。
「私にも先視みの力がありますからね、ランは姫と同じ未来が見えるのですよ。不思議な事です」
蘭を見つめながら口を開いたユージィンは本当に不思議だと思っているのだろうか、神妙に頷いて見せた。
「同じ未来?」
先視みという力がどんなものかもわからない蘭が素直に聞くと、ユージィンは笑みを浮かべる。
「ええ、とても美しい景色が見えます。そして、一辺の陰りもなく清らかなそれは、私が心地良いと感じる素晴らしいものです」
一体どのような景色が見えているのだろうか。ユージィンは嬉しそう相好を崩し蘭を見つめているが、ふいに表情が曇る。
「しかし、全く同じ景色というのが解せないのは確かです。個人個人、見える景色や感じる想いは違うというのに、ランと姫だけは変わらない。それが私を不安にさせます」
三人共が話の内容を理解できない為か、何も言えずにユージィンを見つめるばかりだった。ユージィンが蘭自身を見つつも他の何かを見ているらしいという事は、口ぶりから判断できる。しかし、何を見てそう言っているのかを理解する事はできないのだ。
「悪ぃな、ユージィン。俺達には想像もできねぇ」
全員を代弁するようなセルアの言葉に、ユージィンはそうでしょうねと言いながらも話を続ける。
「これは本当にその身にならなければ理解できない力です。私も父から先視みを譲り受けるまでは信じる事ができずにいましたからね。ウィルナやシェラルド、アンヘリカに関わらず、人を見る度に良いと思える感情、もしくは悪いと思う感情が湧き上がる不思議な力ですよ」
三人の様子を見てなのか、こちらの反応を待つ事がないままユージィンは言葉を紡ぐ。
「例えば、ランがさらわれた時、私はクロードに良い未来を感じました。だから追うふりはしても本当に追いつこうとは思いませんでしたね」
「何だと?」
セルアが声を上げ鋭い瞳でユージィンを睨みつけたが、臆する事なく話は続けられる。
「ええ。ランに良い未来が見え、クロードにも良い未来が見える。ランが担がれ無理やり連れて行かれる状況ではありましたが、おそらく必要な出来事なのだろうと思い、本気で追うという判断はしませんでした」
「止められる状況をあえて見逃したっていうのか?」
「その通りです。確かにこのままではランの身にどのような事が起こるかはわからない。そうは思いましたが、先視みは良い未来を暗示している。ならばそのままです。もし、ランの身に傷が付いたとしてもそれはその過程でしかないと捉えたまでです」
先程のようにセルアはテーブルの天板を片手ではあるが叩く。
「ふざけるな! あの時、俺達は必死でランを探した。それすらもユージィンにとっては茶番だったって事か」
セルアは魔力が制限されている子供の姿のまま、疲れ果てて眠り込んでしまう程の力を使いアンヘリカへやって来た。それをユージィンはどう考え、見ていたのだろう。
「茶番……それは違いますね。私は良い未来を見てはいますが、最終的にどうなるのかはわかっていません。正しい道筋も、です。ただ、これが良い未来への一つなのだろうと思うくらいなのですよ? 決して確信があるわけではありません。セルアもまた良い未来の持ち主なのだから、その行動を信じ従ったまでです」
ユージィンの発言はどこか曖昧だった。結果が見えているわけではないが、おそらく良いのだろうと、はっきりとしない口ぶりに蘭は問う。
「絶対ではないの?」
「絶対、ですか?」
ユージィンはつまらなそうに冷めた笑みを浮かべ、同じ言葉を繰り返した。
「国を治める為に必要で、絶対的に皆が信じている力でしょう?」
悪い未来が見えると殺されてしまうというのにまかり通る不思議な力。蘭にとっての先視みはそんな印象だ。
「私は絶対的に信じていると言いましたか?」
自分が質問したというのに問い返されてしまったと蘭は口をつぐむ。
しかし、すぐに以前ユージィンが口にしていた内容を思い出す。
「見えない人には不思議なだけの力で、確信が持てないから好きじゃない……だっけ?」
「よく、覚えていましたね」
先程はどこか冷めた瞳だったユージィンが、今度は優しく微笑んだ事に蘭は素直に頷く。
「意外だなって思った記憶があるから」
先視みがあるから姫は大丈夫だと、あれだけ言っておきながらもユージィンは信じていないと漏らした。絶対的な存在とばかり思っていた蘭には印象的だったのだ。
「実際に先視みを使える身となり改めて思ったのですが、この力は本当に当てにはならない。私はそう考えていますよ」
「当てにならねぇなら、それを目安に動く必要はないだろう?」
セルアが言う事は最もだ。信用できないと言いつつもユージィンは先視みに沿って動いている。
「そうとは思えない出来事も私の身の周りでは起こっていたのですよ。良い未来を持つ者はそのままで構わないと思える程には――全ては姫の元にいたからこそですね。だから私は、不安がありつつも彼女の無事を信じています」
当てにならないと言いつつも、姫の無事を信じているというのはやはりおかしい。
「姫は限りなく近い先は見えませんが、その先は見えると言いました。それは絶対的に命の保証をし、必ずここへ戻って来るはずです」
「あくまでも、はずって事なんだろう? 断定はできていない」
セルアも姫の無事を信じたいのだろうが、表情は暗い。
「存命という点においては、断定できます。……いえ、私が断定したいのですね。セルアがいるという事実も姫の無事を告げているはずでしょう?」
「それはそうだが……本当にユージィンが何かをしたわけではないのか?」
「私が姫に仇なす事などできるはずがありません。だからこそいなくなられた理由がわからず、先視みに頼らざるを得なかった。姫の言葉を信じるほかはないのです……」
はっきりとした口調が、最後に迷いを見せた事で蘭はまた思い出す。
蘭はただ姿が姫に似ているだけではなく、徐々にそのものに近づいている気がするとユージィンは言った。簡単にアンヘリカへの出入りが許され、なおかつ姫と同じく髪に魔力も宿してしまう。
蘭がこの世界に馴染んでしまい、姫が帰ってこないのではないか。それが怖いと確かにユージィンは言っていたのだ。
「わたしがいる限りは不安なんでしょう?」
「どういう意味だ」
ユージィンばかりを見ていたセルアがこちらへ目を向けると、蘭は何故か笑って答える。
「姫様と同じ姿をしたわたしがいて、同じように髪に魔力を宿せる。それがあればお城の人はある程度誤魔化せるでしょう? その上アンヘリカとの関係も良い方向に進んでいる。確かに必要としている姫様はいないけれど、どうにかやり過ごせるだけの条件は揃っているんだから、帰って来る時期を読む事もできない……って事だったのかな? ユージィンはわたしが何かを見つける度に、不安を増しているような気がする」
以前ユージィンが口にした言葉をそのまま伝え、わずかに自身の思う事を加味しただけなのだが、セルアは随分と驚いた顔でこちらを見つめている。
蘭の言葉とセルアの姿、どちらがきっかけなのかはわからないがユージィンは声を出して笑う。
「あの時の私は相当不自然だったのでしょうね。ランの記憶にそんなにも残ったのですから」
突然、ランに様々な情報を与えようとしてくるユージィンは確かに不思議だった。それまでは時期を待つと言っていたはずの人が、まるで手のひらを返したかのように急かしだしたと感じるものがあったのだ。不安以外の何ものでもないだろうと蘭は告げ、隣にいるセルアへ目を向ける。
「びっくりした?」
するとセルアは盛大に溜息をつく。
「ランはランで何かをユージィンから聞いてたって事か」
「うん、そういう事。ユージィンは姫様に関する時だけは本当に焦っているような気がする。それは先視みではどうしてもわからない事だからなんでしょ?」
蘭が聞くとユージィンは参りましたねと言った後、一呼吸置いた。
「その通りです。私は先視みを心から信じる事ができないというのに、その便利さには慣れてしまっています。姫の先を知る事ができないというのは、大丈夫だと思いつつも不安に駆られて仕方がないのですよ」
そして笑みを潜めどこか寂しげに瞳を伏せたユージィンへセルアが聞く。
「あいつが帰ってくる為には、どうしてもランの存在に繋がるってのか?」
「ランだけがというわけではありませんよ。姫がいなくなってから今までの間にたくさんの事が起きています。その全てが私の不安を煽っているというのが正解でしょう。しかし、最初に起きた出来事はランが姫と入れ替わるように屋敷にいた事であり、そこから全ての事象は起きていると捉えられるのは事実です。
ランには何かするべき事があり、それを達成しない限り状況は変わらない。そう考えるならば、私にも何かすべき事があると考えました。結果、マティアスであると知らせる必要があるのではないかと至ったのですよ。ただ……それは簡単に口にすべき内容とは思えず、大いに悩む問題だったのですよ? 私が不自然な行動をとったのは、セルアに気付かせる為ではありませんでした。契約文字を読む事で姫のしようとしていた何かを知ろうとしたのであり、結果だけを見れば今に繋がったと言えるのかもしれません」
「ユージィンがマティアスだとわかって、何かが変わるって事か……って、お前あの本が読めてたのか!」
セルアの言葉により、すぐには思い浮かばなかった事実があったと蘭も気付く。ユージィンと話すべき内容が多過ぎた為すっかり失念していたのだ。
セルアは蘭の右腕に目を向けて、苦々しそうに口元を歪める。
「あの時ユージィンが自分の正体を言っていたなら、ランは怪我をしなかったって事になるよな?」
「そうなりますね。私が迷っていた事によりランは危険にさらされたと考える事もできます。ですが、今でもランから見える未来は明るい。私には、あの出来事も必要だったと思えるのですよ」
様々な事をユージィンは伝えてくるのだが、あくまで先視みの力で見ているものを前提として語られる。それは見えない三人にとっては不思議なものであり、理解しがたいものだ。
とても全てを納得できるとは思えないが、ユージィンは当然のように口にする。だからこそ信じなくてはならないのかとも思えるのだが、首を捻りたくなるのも確かだった。
この不思議な空間の終わりを決めるのはやはりユージィンであり、正体をさらした事に対する憂いなど存在しないように言葉を紡ぐ。
「とにかく私はマティアスではありますが、今はウィルナのユージィンであり国を思う一人の男です。まずは、宿へ戻りましょうか」
まだまだ疑問は残されているが、このままここへ居続けるわけにもいかないのが現実だった。




