二章.止められた孤に灯る想い【一】(二)
その夜、眠りにつく支度も済んだ蘭はベッドへ寝転んでいた。ウィルナには魔力はあるが電力が存在しない。空いた時間を埋めてくれるテレビなどはなく、明かりもベッドサイドにあるろうそくを入れたランプがぼんやりと光っているだけだ。元来住んでいる人物が姫という事もあり、町に暮らす者と比べれば恵まれているとも理解はしている。
アンヘリカの宿では布で体を拭くのが精一杯だったが、この屋敷には風呂が存在していた。どの家にも備え付けられる物ではなく、姫だからこそ許される贅沢らしい。
(お湯に浸かれるだけでも幸せなんだろうな)
長年暮らして来た場所から考えると不便さもあるが、ウィルナやアンヘリカで括るならば蘭は優遇されている。
それでも持て余す時間は多分にあり、夜はいつも暇だった。
(なんか疲れてるんだけど、眠れないな)
ようやく帰ってこられたのだから、ぐっすり眠りたいとは思っている。しかし、相反するように目は冴えてしまうのだから困りものだった。
(昼間に寝ちゃったしな)
手慰みに本を持ってはきたものの、ただめくっている動作が続いている。
目まぐるしい日々は確かに蘭を疲弊させていたらしい。文字の解読に頭を悩ませる程の余力はなく、本を閉じると布団の端へ押しやった。
うつ伏せになっていた体を反転させ天井を見やる。石でできたそこには、ところどころ綺麗な色の物が使われ模様が描かれていた。
(何が描いてあるんだろう?)
意味のある紋様なのかわかりもしないが、抽象的な形を眺め時間を潰そうとしてみる。初めの頃に少しでも得るものはないかと部屋中に目を走らせ、同じように過ごした時があったものだった。
(結局何もわからなかったんだよね)
セルアに意味があるのかと聞いてみたが、ウィルナでは一般的な装飾だと教えられて終了してしまったのだ。
室内に置いてある本は全てが姫の必要としている内容の為、蘭が先程まで手にしていたのは特別に手に入れて貰った子供向けの教本だった。
ずっと年下の者に向けたものであっても、蘭にとっては随分と難しい。教えられながら書き記した日本語訳を添えてはあるが一貫性が感じられないのだ。
(当たり前って難しいものなんだわ)
蘭には法則性がなくともウィルナの人にとっては当然の文字である。天井に意識を逸らしていたはずが、結局は閉じた本についてを考えていた。
(文字を読めるようにならなきゃ駄目ね)
帰ろうと思っているが、微かに帰れない事態を想定している自分も存在するのだ。暮らすのならば慣れなくてはと、嫌な諦めが自身を蝕んでいるように感じてしまう。
(帰る為に文字を読むのよ。きっと何か手がかりがあるはず)
時折現れる不安を振り払うように自身に言い聞かせていると、ふいに何かを叩く音が聞こえた。
控えめに存在を知らせるような音に、思考が止まる。
何事だと蘭が体を起こして辺りを見回せば、もう一度同じ音が聞こえてきた。
音がするのはどうやら窓際らしいが、さすがに外は暗闇で何も見えない。正体のわからない音に恐怖心はあるが、とにかく確認しようとベッドから降り静かに歩き出す。
するとぴたりと音が止んでしまい、蘭は原因がこちらの動きを悟ったのかと足を止めた。
(誰かいる?)
風で物がぶつかっているくらいなら構わないが、見知らぬ人物がいるのは恐ろしい。
真っ直ぐ向かうのを避け、窓より少し離れた壁際に向かってみる。そこから何とか外を覗こうと窓に目を向けてみれば、突然手が張り付いた。
「ひぃっ!」
闇ばかりが見えるガラスに大きな掌が現れ、悲鳴を上げる。鼓動が一気に早くなり、嫌な汗が流れた。
(な……な、な、何?)
驚きつつも目を逸らせないでいると、一つだった手が更に増える。
「…………っ!」
急激に喉が渇き悲鳴も出ない蘭をよそに、両手がガラスから下へと動き始めた。確認するように掌を貼り付けながら移動し、どうやら窓枠に指をかけたらしい。
腰は引けているというのに、目は窓から逸らす事ができず蘭はガラスを見つめる。
すると見知った顔が半分だけ現れたのだ。
「クロ……ド?」
かすれた声が出はしたが、閉ざされた窓の向こうに聞こえはしない。お互いの姿を認めているだけの状態である。
鼻から上だけを覗かせるクロードが瞳を細めている姿に蘭は素直な感想を覚えた。
(覗き?)
この屋敷の周辺は建物部分だけが小高くなっている。内側は蘭の腰辺りから上が窓になるのだが、外側からでは背の高いクロードでも届かないはずだった。
窓枠を掴んだ動きから、懸垂をする形でどうにか顔を覗かせたのかと考える。
クロードの瞳の動きから、開けろと訴えられているのは理解した。しかし、ここで開けはしないだろうと蘭は窓際に向かうだけに留める。
(わざわざこんな時間にこなくても)
蘭が近づいた事でクロードは窓枠から手を離していた。窓の下に立ちこちらを見上げ、片手を振ってみせる。
だが蘭は手を振り返そうとは思わず、困ったままにクロードを見下ろした。その間にも開けて欲しいと動きで訴えられ、仕方なしに窓を開けるかと手をかける。
(カーテン閉めておけばよかったな)
着替えをする時以外は気にしていなかった自身を後悔しながら、両開きの窓を開放すれば想像通りに名を呼ばれた。
「ラン!」
眼下には満面の笑みがあるが、さすがに笑い返そうとは思えない。
「どうしたの? こんな夜中に」
「折角近くにいるんだから遊びに来たよ」
悪びれる様子もなく、さらりと言ってのけたクロードに蘭は溜め息を付く。
真夜中に女性が一人でいる部屋に来るのはどうしたものかと突っぱねた。
「こんな遅くに来られても困るよ」
招き入れるつもりなどないのだが、そもそもこの屋敷に誰かを入れても良いのかと疑問を抱く。今までこの世界で知っていたのは、ユージィン、セルアとハンナだけだった。その三人は屋敷に元から出入りをしている為、気にする必要もない。
「困る? 別にいいじゃん」
様子を見る限り追い返されるとは思っていないのだろう、笑顔で蘭の言葉を待っている。
「ここはわたしの家じゃなくて、置いてもらっているところだよ? 勝手にクロードを入れるわけにはいかないでしょう? どこかに泊まってるんじゃないの? 警備の人も見回るんだから気付かれないように早く帰って」
素直に帰って欲しいと思い告げるのだが、クロードは面白くなさそうな表情を浮かべるだけだ。
「今日はどこも取ってないんだ。外で寝るのも嫌だし、入れてよ」
「無理」
「広い部屋みたいだしいいでしょ? 別に何もしないからさ」
何もしないと言われようが入れられるものではない。早々に窓を閉めるべきかと考えながらクロードを見れば、何となくだが雰囲気が担ぎ上げられた時に似ているように感じられた。
もしや入る気なのではと慌てて窓を閉じようとしたが、クロードの動きが若干早い。窓枠をしっかりと掴むと、懸垂をするようにひょいと自身の体を持ち上げ室内へ入り込もうとする。
その瞬間。何故か、ばちん! と小さな破裂音がし、まるで何かに弾き飛ばされたかのようにクロードが外に向かって吹っ飛んだ。音は小さかったが空を舞うクロードの勢いは凄く、鈍い音と共に背中から地面へ叩きつけられる。いくら草花が植えられているとはいえこの高さにあの勢い、相当な衝撃だろう。
思いもしない動きに蘭は言葉もなくクロードを見つめる。
しばらく、お互いに動く事なく時間が過ぎた。さすがに落ち着いて来た蘭は、慌ててクロードに声をかける。
「クロード、ねえ、大丈夫?」
全く返事はなく、動く気配すらない。弾き飛ばされ背中から地面に打ちつけられたクロードは、仰向けで大の字になっている。
「クロード!」
数度呼びかけても返事を得られる事はない。更に大きな声を出したいところではあるが、誰かに気付かれる恐れもある為に蘭も思い切れなかった。
身を乗り出せば声が聞こえるのではないかと、手を伸ばしかけたが引っ込めてしまう。
(どうしよう)
吹っ飛んだ姿を見た為、窓から顔を出すのはためらわれたが恐る恐る手を出してみる。これまでに窓を開けなかったわけではないが、吹っ飛ぶクロードを見ていては躊躇もしてしまう。
「あれ? 何でもない」
また、ばちんと鳴るのではと思ったのだが、何も起きない。手はごく普通に窓の外へ出てしまい、戻る事も可能だった。
(どういう事?)
とにかくクロードと同じ目には合わないらしいと、蘭は思い切って外へ顔を覗かせる。
やはり大丈夫らしい。
窓枠に手を乗せ身を乗り出しながら、再び地面に仰向けで倒れているクロードへ声をかける。
「クロード、ねえ、クロード!」
気を失っているのだろうか、何の反応も返して来ないクロードに蘭は再び悩む。
屋敷の外へ出ないという約束には、庭も含まれているのだ。
蘭が外出を許されるのはセルアもしくはユージィンが同行できる時のみであり、勝手に出るわけには行かない。しかし、目の前には倒れたクロードがいる。
側に行って確認したい気持ちもあるが、単に寝た振りをしていて連れ去られる可能性もないとは言い切れない。
どうするべきかと思い悩んでいると、微かな音が聞こえる事に気付く。
(何?)
耳を澄まし理由を知ろうとすれば足音らしい。
(いけない!)
城の敷地内は見張りも存在している。蘭が常に姫と同じ格好を求められる理由は、万が一見られた場合の対策なのだ。簡単に覗き込める造りではないが、姿ばかりはなりきっていなければ心配らしい。
どうやらそれは、徐々にこちらへ近づいて来ているようだ。転がっているクロードはいまだに起き上がる気配どころか目覚めてもいないらしい。
(どうしよう)
気軽に入り込める場所ではなく、明らかに真っ当ではない状況のクロード。見張りならば連れて行かれてしまうに違いないが、蘭の手ではどうしようもない。
とにかく一旦窓を閉めるべきかと、蘭は慌てて体を引っ込める。外からは見えないように壁に体を張り付け、わずかに残した隙間から聞こえる音に耳を澄まして様子を伺った。
がさがさと草を踏む音からどうやら走っているらしい事がわかる。数もこの分だと一人なのだろうとは理解した。
音が聞こえなくなった事により、クロードの側で止まったのかと蘭は窓の端から目を向けてみる。
倒れたクロードを見下ろしているのは見知った人物であり、蘭は再び窓を開け放った。
「セルア!」
こちらを向いたセルアの表情は訝しげであり、窓の下までやってくると不思議そうに口を開く。
「どういうこった?」
「それを聞きたいのはわたしの方よ」
二人で顔を見合わせまま、しばしの時が流れた。
とにかくぐったりと伸びているクロードを蘭とセルアは室内へ運び込んだ。どうにかソファの上に寝かせると、セルアは指定席へと座る。
「初めてかかったのがこいつとはな」
明らかに嫌そうな声と共に片肘をつき、クロードを眺める瞳は冷ややかだ。蘭はセルアの隣に腰かけるとこれまでの経緯を話す。
黙って話を聞いていたセルアだったが、最後には呆れた様子で頭を抱える。
「夜這いに来たのかよ」
うんざりとした表情で立ち上がりクロードに軽く蹴りを入れたが、それにも反応はない。
「クロードは大丈夫なの?」
あまりにも動かない事が心配になり蘭が聞くと、セルアは大丈夫だと言いながら何度もクロードを踏み付ける。さすがにやめてと止めに入った。
「どうしてセルアは来たの? それにクロードは吹っ飛んだし」
何から聞けば良いのかがわからない蘭の言葉をセルアは理解してくれたらしく、クロードから足を避けると隣に座りなおす。
「ここは姫が住む為に作られた屋敷だ。ただ見るだけなら、そこら辺にある物と何も変わらない。しかし、こんな窓一枚割ったら入って来れるような所に国の重要人物をただ置いておくと思うか?」
そう言われてみると、不思議だった。
「もっと、警備とか仰々しくなりそうだよね?」
「だろ? その代わりがクロードの吹っ飛んだ術ってこった」
人を配置して見回るのも良いが、それよりも術で屋敷を包むようにする。そして、ここへ出入りする人間には、それを通り抜けられる術を施す。そうした上で他の者が入り込もうとすれば見事に吹っ飛び、なおかつ術を仕かけたセルアには伝わってしまう、という仕組みらしい。
だからセルアが現れたのかと納得し、クロードへ目を向けてみるがいまだにぴくりとも動かなかった。
「すごくわかり易いけど、ちょっと怖いね」
「死なねぇようにしているだけ、ありがたいと思って欲しいくらいだがな」
セルアはどうやら機嫌が悪いらしい。険しく眉を寄せながら蘭を見る。
「本当にこいつが無理やり入ろうとしたんだろうな?」
まさか自分がここへ入れようとしたと言うのかと、思わずこちらの声も荒くなる。
「ないよ。この場所をクロードに教えたわけでもないし……そう言われるのは面白くない」
アンヘリカでもずっとセルアかユージィンが側にいたのだ。二人で会話をする機会も少なく、何より居候の身で誰かを呼び込もうなど思ってもいなかった。
とにかくクロードを入れる必要などないのだと、蘭の瞳も自然とセルアをきつく見てしまう。
「悪い、そうだよな。少し、苛ついた」
珍しく慌てたセルアに蘭は驚いたが、疑いが晴れたのならば構いはしない。
「わかったならいいよ。それにしてもクロードには驚かされるね」
「まったくだな」
二人でクロードを眺めながら会話を続けていたが、蘭はふと気付く。
「今日は、ここにクロードを置いたまま寝なきゃいけないって事だよね?」
姫の為の屋敷であるからこそ、ベッドはただ一つきりだった。ソファも大きい為に横たわるのに問題はなかったが、とにかくクロードと同室なのは困ってしまう。
中へ入り込まないようにしていた術で伸びたクロードが、結局は室内に入ってしまっているのだ。心配だからと運び込んだものの、これでは本末転倒ではないかと蘭は肩を落とす。
「クロードの思惑に負けた気分だわ」
いっその事、一晩中起きているかと思っていると、セルアは何か思案していたらしい。仕方なさそうに告げる。
「こいつが朝まで起きるとは思えねぇが、今夜は俺もここにいる。ならいいだろ?」
それならば安心だと蘭は頷く。
「ありがとう。三人なら平気だよね」
先程までは眠くても寝られないと思っていたはずが、何故か睡魔を感じるのだから不思議なものだ。本来なら自室で休めるはずのセルアには申しわけないが、三人同室で我慢してもらう事にする。
「クロードには用心したくせに、俺は気にしないのか?」
からかうように投げかけられた言葉に蘭は首を傾げた。
「どうして?」
セルアは溜め息を付いた後に、自嘲するように笑う。
「そりゃそうだな、もう寝たらどうだ。俺も疲れてんだから寝かせろ」
そして、部屋の一角にある棚を開くと、毛布らしき物を取り出した。




