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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
愛のある関係がいい

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6

 驚きに箸が止まった。妊娠に関しての申請書類などで父親の名が必要になるだろうに。千晶はどう凌いだのか。


 聞けば意志で空欄にもできるとのことだった。


 へえ。


「でも、ずっと空欄も無理でしょ?」


 それでは産んだ子は私生児になってしまう。千晶がどうしてもそれを貫きたいと言うなら、反対はしない。でも納得はできないまま、わたしの中に多分残る。


 表情にそういった思いが出たはず。彼女は目を逸らし「ぎりぎりまで言わないつもり」


 ぎりぎりとは、堕胎が不可能な時期を指すのだろう。


 では、伝えるつもりはあるのだ。


「沖田さんに目を三角にして言われた。「絶対に認知はさせろ」って。わかってるよ…」


「三枝さんとはどうするの? またやり直すの?」


「さーさんはその気満々みたいだけど、もうやだよ、揉めるの。シングルでやってこうって思ってんのに、あのうるさいのにしゃしゃり出てこられても迷惑だし」


 じゃあ、なぜ彼の子を妊娠したのか。


 自然、やや眉根を寄せて聞いていたわたしに「おかしいよね」と彼女は前置きした。


「子供がほしかったの。やくざな稼業でまともな恋愛もしてこなかったし。出会いも恋の始め方もわからない。…もうさーさんしかいなかった。まったく、人生の引出しのしょぼさったら、ないよ」


 自嘲して言う彼女の声が、そのセリフの裏で「さーさんの子供が欲しかった」と聞こえてくる。


「彼の子なら一人でも産みたい、育てたい」と。


 まだ好きなのだろう、きっと。


「でしょ?」そう突っ込むのは、何だか仁義に欠ける気がした。顔を見て話を聞き、わかりながら、知らん顔をしてあげたくなる。答えを出してくれない彼にこれ以上自分の人生を添わせる考えは、彼女にはないのだから。


「千晶のこれまでに長く爪跡を残した人の子だもんね」


 ただ、三枝さんはどう反応するのか。家庭もある人だ。病身という妻なる人の存在も頭に浮かぶ。別居に近い状況のようなことを、前に沖田さんは口にしていた…。


 その辺りを彼はどう捉えたのだろう。「絶対に」と三枝さんの認知を求めたのだ。考えもあるはず。


 千晶が言うには、沖田さんは、


「「最悪、養育費と遺産の放棄を条件にすれば」望みはあるって。「お前に、今後も稼いでやるって覚悟が要るな」ともね。偉そうに。もう稼いでるし。さーさんの財産なんか欲しくないっつーの」


 まあ、そうだ。お金に困ることはなさそう、千晶の場合。


 ぷりぷりと答える彼女に、やっぱり笑った。


「案外、喜ぶかもよ。三枝さん。晩くにできた子って、特に可愛いって聞くじゃない」


「婚外子でも? まさか」


「千晶の子だもん、そのまさかかも。…ねえ、脅す訳じゃないけど、子供を一人で見るって想像より大変だよ。うちの…」


 そこで床に寝っ転がりぐるぐる回って遊ぶ総司をつつく。


 「こんなに大きくなっても、わたしはしんどかったから…。仕事をして家のことをして、手も気持ちも一人だけじゃ、きついこともあるよ」


 そんなとき、日常的じゃなくても三枝さんの力があったら、随分と助かると思う。楽になれるはず。


 確か千晶の実家は遠方だ。帰省もまれだと聞いている。頼めば、娘の助けにはなってくれるだろうが、長期間、たびたびでは難しいのではないか。それに、長く一人で気ままにやってきた彼女が親との急な同居の窮屈に、いつまで耐えられるのか。


 黙って聞いていた彼女がふっと笑う。


「何、これから傍観者なの? かなり期待してるんだけど、沖田夫妻の四本の手を」


「わたしたち? そりゃするよ、手伝うよ」


 でも、親友のそれとは別のものがあったっていい。たとえば深夜、高熱を出した子供のことで、わたしや沖田さんを遠慮なく彼女が呼びつけることができるだろうか。おそらく、彼女は電話もしない。処置に迷い一人で悩む…。


 そんなことが幾度もあれば、子育てのストレスはきっと大きく育つ。


 でも、長く男女の仲にあった三枝さんはにきっと違う。別れた後ですら勝手に身ごもり、「シングルで育てる」とまた勝手に決められるほどのわがままを突きつけられる相手だ。育児の重圧をぶつけるには、この彼ほど千晶が楽な人いない。


 そこまで思っても口にするのをためらう。三枝さんの奥さんの影がちらついたからだ。残酷だと思い、非道だとも思った。


「…さーさんに手伝わせろって言うの?」


 グラスを置いてテーブルに落ちた千晶の目が、すくい上げるようにわたしを見る。その目に会いふと口にしてしまった。むごいと知っているのに。千晶にベストな選択だからだ。


 それを聞き、彼女は半笑いで首振った。


「手が要るときだけ来いって? そんな都合よく?」


「…都合よくたっていいじゃない」


 この問題は奥さんをよく知る沖田さんの助言が要る。希望的に考えれば、成熟して達観した印象の奥さんは、事をスルーしてくれるかもしれない。楽観だが。


 ふうん、と受けた千晶がどれだけかの後でつぶやいた。


「親に田舎から出てきてっていうのも、今更きついしなあ。母親もう七十だよ」


 三枝さんの件を考慮には入れたようだ。まだ実感はできなくても、子供を産んでからの大変さには想像がいくようだ。


「緊急時だけとか週に一度とか…。千晶に都合よく、ルールを決めておけばいいんじゃないかな」


「ふうん。きついときはヘルパーさんとか頼もうかな、みたいに考えてたんだけど…。夜中は無理か…」


「併用も考えたら? ヘルパーさんもさ、ぴったり合う人ってなかなか見つからないかもしれないし」


「そうだね…」


 素直に頷いてくれた。


 思案顔なのは思いめぐらせてしまうからだろう。妊娠を告げる、産む覚悟であることを伝える。そのときの三枝さんの表情を。そして、そのときの自分の緊張を。


 わたしまでもがそれらを早まって味わい、ちょっとうつむいた。


 この件はとりあえずここまでだ。


 会話はあちこちに流れた。話は飛びつつも、すべての内容に彼女の妊娠がちらちら絡む。仕事のことを話しても、彼女が購入を考えている新車の車種でも…。


 大変さとそれを上回る張りを彼女は抱いている。


 今後のことはどうあれ、その仕草や口ぶりに芯からよかったと思う。この感情を伝えれば、「目を三角にして」彼女に説教したという沖田さんは、わたしへも目くじらを立てて機嫌を損ねそうだ。


 それでもいい。


 どうあってもきっと上手くいく。


 なぜだろう、根拠のない楽観が心に湧くのを止められない。


 ふと気づいた。


 千晶といるからだ、と。


 心配して気を揉むようでいて、いつしか不思議な安心感に落ち着いてしまっている。『ガーベラ』時代にもこんなことはよくあった。わたしが何を不安がっていても、彼女といれば結局しっくりとくる結果に着地した。


 安易であっても向こう見ずであっても。気持ちが凪ぐのが一番心地いい。胸にすうっと風が通っていく、そんなビジョンだ。


 彼女の大きなプラスのエネルギーめいたものに影響され、知らず感化されているのかも。


 そんなことを伝えてみた。


「千晶って大器なんだよ。パワーがすごいっていうか」


「何それ」


「大してアドバイスもくれないけど、いるだけでご利益があるんだよ」


「ええ、いいこと言ってるよ、わたし。雅姫の日常にハレンチな異次元の風を送ってるし」


「ははは」


 ちょっと間を置き、彼女が言う。


「わたしは、雅姫をそうだと思ってた」


「え、ハレンチかなやっぱり?」


 確かに、夫の浮気相手の隣人に腹を刺されて死ぬ目に遭うような人間は、ざらにはいないだろう。ワイドショーのネタ並みの経験だ。


「違うって。そこじゃない。雅姫の方からいいエネルギーをもらってる、わたしはそう思ってきたんだ、ずっと。よく言えないけど、優しいし透明感あるの。だから、そばにいれば何か気が楽になってくる。何でもかんでもいいんだよって、許してもらえるみたいに…」


 え。


「だから、ほら一人でいると、沼のように澱んでたでしょ、わたし」


 そう、千晶は笑う。


「昔のあんたのファンが名付けたこっぱずかしい『クールジェンヌ』ってあだ名、言い得て妙だよ。雰囲気あるもん。鯖寿司頬ばっててもかっこよかったよ。ほら、わたしはもらってないし、そんなジェンヌ系のあだ名。欲しかったって訳じゃないけど」


 それは褒めているのか、からかっているのか。


 照れと驚きで返事に困る。口元をもぞもぞとさせる。


 ただ嬉しかった。次元の違う成功を収めた彼女と同じ目線を今も共有している。彼女からそれを示してくれたことが、わたしをちょっと感激させた。


 自分を特に優しいとは思えない。身勝手に振る舞い、家族や沖田さんを振り回してきた。優柔不断の交じる己への甘さだと思う。その延長で、彼女がどうあってもありのまま認めてしまえるのだろう。


 そして、そんな彼女はわたしに「おいでよ」とまるで自分の高みに誘うかのように、前を見る力をくれるのだ。


 視点も視野も違う。ちょっと似た互いへの捉え方は、わたしたちを引き寄せ合うのかもしれない。それを普通、相性がいいと人は呼ぶものなのかも…。


「雅姫が男だったら結婚したかったな…。稼ぎいいよ、わたし」


 自信のほの見える半笑いで、ノーマルがしみじみと言う。可憐な彼女のこんな風情にころっと参っちゃう年下の男性は、少なくないだろうに。出会いがないとかぼやくが、もったいない。そっちに使え、と言いたい。


「千晶の夫になったら、あんたの稼ぎで同人イベント行きまくるよ」


「いいよ、好きにしてくれて。その間、仕事してるわ。雅姫の一人や二人、楽させてあげるから」


「ははは、頼もしい、千晶姐さん」


 千晶みたいな夫を持てばどうだろう。密なパートナーとして、わたしたちはきっとうまくいく。

どんなに喧嘩がこじれたとして、ぽんと財布(ぎっしり札の詰まった)を投げて、「ほら、お前のもんだろ」とでも、度量を見せてくれそうだ。ときに強引さが癪に障っても、彼女は家庭への自分の役割や責任を放り投げない気がした。それでわたしはほろっと機嫌を直してしまう…。


 あれ、変な妄想が入った。「ほら、お前のもんだろ」って、誰が誰に言うんだ。しかし、お金に弱いな、わたし。ははは。


 千晶は小柄で華奢な見かけとは違い、これで根性のある男前な人だ。そんな彼女だから、ありふれた女性らしさを求めると多分相手はあてが外れるのではないか。彼女だって窮屈だ。


 ふと想像してみる。


 共に生活するのではなく少し距離を置ける人。そして彼女の個性も能力も認め、思うままに仕事をする自由を与える。更に、彼女の望んだときには側に来て、問題には手を貸し助けてあげる…。彼女の夫となる人には、こんな資格があるといい。


 ひどくうるさい要件に思えたが、案外ぴったりとはまる人がいるではないか。


 三枝さんだ。


 妻帯者ではあるが。


 長くつき合ってきた。互いの人となりや癖なども知り抜いている。だからこそややこしいのかもしれないが、それゆえの気楽さも安心感もあるはず。


 妻帯者だが。


 ここまでを思い、二人の仲にもう進展が望めないのがちょっと悔しくじれったくなる…。


 三枝さんは妻帯者だが。


 埒のない考えが気持ちをひっかきながら頭を通り過ぎていく。


 そんなわたしを置いて、千晶は総司に赤ちゃんができることを話していた。「弟か妹にしてやってね。お兄ちゃんだよ、総司」。その表情は和らいでいる。


 喜んだ総司が名前を決めたいと言い出した。


「ダグみたいなのにしようよ。かっこいい」


「ふうん、どんなの?」


「マイケル? クリス? エドモンド?…」


 最近手に入れた幼児用の英語教材(沖田さんがくれた)の影響か。発音が妙にネイティブっぽい。

 で、挙げた候補はなぜかイングリッシュネームっぽくて、その後にファーストネームが続きそうなのばかり。


「男の子の名前ばっかりみたいだよ。総司、女の子だったら?」


「…デラックス?」


「デラックスって。そっちかよ」


 千晶は笑いながら「ありがと。もうちょっと考えさせてね」と総司の頭をなぜた。

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