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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
手に残るもの

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8

 

 退院後は、一週間ほどを実家で過ごすことにした。まずは身体を優先に無理せず、家事を手伝いながら総司の面倒を見ながら体調を整えた。


 そんな中、あるイベントが持ち上がった。沖田さんの訪問である。


 覚悟は決まったとはいえ、実家の空気を吸い気持ち緩んだからか、この期に及んでも「そんな改まらなくても」「もうちょっと自然にゆるりと…」など、わたしはのんきな逃げが抜け切らない。気恥ずかしいのも大きい。


 彼にしてみれば、早く済ませたいどうしても欠かせない節目らしい。仕事終わりに急いでやって来るという。


「晩ご飯、一緒に食べるでしょ? 沖田さんも」


 姉が当たり前のように言う。夕暮れが近づき、その準備を始めたいようだ。台所に入る背に、わたしは「え~」とか「う~」とか返した。


「どうしたの? 痛むの? 無理しないで、幼稚園行事なんか休んだらよかったのに」


 この日、わたしは総司の幼稚園のお遊戯会に出かけていた。それで、身体の具合を心配してくれたのだ。


 そうじゃないと首を振る。ダグが今晩地域の集いに呼ばれているということも引き合いに出す。


「それで、いきなり会いに来て、…話して、それでご飯食べるのって、ちょっと面倒じゃない? 気まずいって言うか、あの人も…」


「何で?」


 と姉は首をかしげる。忙しい人なのだから会える時間を有効活用したらいいじゃない、と説くのだ。


 まあ、そうなんだけど。


 返事をしないで口を尖らせつつぼんやりしていると、本当にひょっこりダグが現れた。話の筋を聞いていたようだ。


 濃いグレーの作務衣の腰にアランニットを巻いている。何でもないそんなことがこなれていて、とてもおしゃれに見える。


「僕は構わないよ。ゲストのだんじろう先生が遅れるらしいから、会の始まりもずれ込むんだ」


 だから、食事くらいつき合えるという。へえ、だんじろう先生が来るんだ、すごいな。


「ほら、早く。玉子豆腐作るから、手伝ってよ」


 姉がわたしの手を引いた。


 ダグがそのわたしへ「気楽に」と声をかける。


 曖昧に笑って返し、姉に引きずられ台所に入った。料理の傍ら子供たちにおやつをあげる。


「沖田さん、どんなの好き?」


「前に、テイクアウトの一口餃子が好きだって言ってた」


「それ、うちの花梨も好きなやつでしょ。普通の物でOKってことかな」


「多分…」


 彼の好みの料理などわからない。野菜も自分で作るし好き嫌いはあんまりなさそうだ。


 姉にはダグからそれとなく沖田さんのことは伝えてもらってある。しかし、ダグからの情報じゃ足りないようで、あれこれ質問攻めなのがちょっとうざい。


「…そんなの知らないよ。もう犬っぽいか猫っぽいかなんか、わかんない」


「何でよ、感覚で来ない? 変な子」


「来ない。お姉ちゃんの方がおかしい。じゃあダグはどっち?」


 半ば答えを予想して言う。ダグは誰が見ても犬と感じるだろう。大型犬っぽい。ポインターとか、ドーベルマンとか…。


「猫だよ」


「え?」


 昔近所にいた茶トラに似ているのだそうだ。「目をこすったところがね」と。共感を求める目を向けるが、姉の感覚はわからない。


 犬だの猫だの話しながら料理の手を動かした。姉の指示で玉子豆腐にもらいものの葉物を白和えにする。母に比べればあちこち適当な坊守の姉だが、場慣れしさすがに手際もよく料理上手だ。


 料理が整う頃には、もう窓の外が暗い。時計は六時を回っていた。


 そろそろかと胸が変に騒ぐが、逆に開き直ったように覚悟が決まる。


 沖田さんがやって来たのは、約束のほぼ七時だ。手土産に和菓子の箱を提げていた。客間に通し、姉が運んだお茶を勧める。わたしと姉そこにダグが加わり、やや遅れて父が入ってきた。


 父に今夜のことを話したのは実は昨日のことだ。「会ってもらいたい人がいる」と告げたとき、父はあっさり頷いただけだった。「誰」だの「どうして」だの、質問を待ったのに、その反応には拍子抜けがした。


 きっとダグあたりから上手い説明があったのだと思う。


 彼は仕事帰りのスーツ姿だ。初めて会う父にまず挨拶している。実家に沖田さんがいるという光景に、わたしはどぎまぎと落ち着かない。違和感と照れ臭さはハンパない。


「どうぞ、楽に」


 と父が彼の下げた頭を上げさせた。


 彼が頭を戻すのを待って、わたしの代わりにダグが彼とのわたしの関係にさらりと触れる。つき合いが古いこと。何くれとなく世話になっていたこと、などなど…。


 父は頷いて聞いていた。


「もういいじゃない、ご飯食べようよ。ダグだって、急ぐみたいだし」


 居心地に悪さにお尻がむずむずしていたわたしは、顔合わせは済んだとばかりに、腰を浮かせた。それについで、姉も親しげに沖田さんに話しかける。「あ、苦手な物って、あります?」行きつけの商店の人へのようだ。


「待ちなさい」


 思いがけず父の声が入った。立ちかけたわたしと姉を、手で制した。姉と目で「話ならご飯の席だって、いいじゃない、ねえ?」と話し合う。


「ダグからは大体のあらましは聞いています」


 父が沖田さんに向け口を開いた。何を言う気なんだとわたしは父をうかがい、自然、沖田さんの方へ身体が動いた。

「雅姫がややこしいときに、面倒をかけたそうで、お礼を言います」


「ややこしいとき」とは、元夫との間で問題が持ち上がっていたことから、今回の刺された件に関してまでを言うのだろう。

 

 父の礼に、彼は「いえ、そんな大したことはしていません」と応じた。


 そこで、父はダグへ目を向ける。


「雅姫が黙っていてくれと頼んだんだとは思う。しかし、急な話でわしも驚いた…」


「ご家族の方には、事件のすぐ後にこんな話を持ち込んで、申し訳なく思います。彼女とはお互い真剣に将来のことも話し合ってきました。こんな時期だからこそ、あまり時をおかず、新生活に移った方が、総司君も含めいいんじゃないかと考えました」


 父は沖田さんの言葉に軽くうなずいた。了解した合図にも、聞いたよ、とただの相槌にも取れた。


「これが」と、父がわたしを顎で示し、


「退院してからも、浩司君(前の夫)の方とのやり取りがまだあって、うちの者は振り回されたような気分でした。あれなんか…」


 次は顎で姉を指した。ひどい陰口のききようだった。とこぼす。姉の元夫と元義父母たちへの悪口はよく聞いたし、もちろんわたしが言いいもした。身勝手さにあきれるようなことも本当に多かった。


 しかし、父はそれをさして咎めもしなかったはずだ。すべてを耳にした訳もないが。


「わしも思うところあって、聞かん振りをしたことも多い」


 父もあちらとの電話などの応対に辟易していたのがわかる。


「それから」と次に父が指したのは、沖田さんだ。

 

「あなたはさっき、雅姫とは将来のことも真剣に話してきた、とおっしゃった。真剣に将来のことを語り合うには、それなりの期間が必要だろう。あの子の離婚が成ってすぐ恋愛が始まり、一週間ほどで、そんな話がまとまるもんではないでしょう」


「それは…」


 沖田さんは言葉を返せないでいる。


 父が言いたいのはわたしの結婚期間と沖田さんとの恋愛期間が重なっていることだ。そこを父はおかしいと突いたのだ。


 それがわかるから言葉が見つからない。代わりに彼は頭を下げた。それを見て申し訳なくなった。一緒になってわたしも詫びるべきなのだ。


「まあ、あなたはいい。ダグも一緒になって動いたんだろうから」


 父は彼の頭を上げさせ、わたしの顔を見、それから姉に視線を移した。


「確かに、浩司君のしたことは許されるものじゃない。家庭を捨てて、そればかりか、今度は女連れで金目当てに雅姫を脅しに来た。刺したのは彼じゃないが、片棒を担いだのに違いない。しかし…。どっちが先かはわからん。お前が悩まなかったとは思ってない。しかし…」


 父はそこで言葉を区切ってはっきりとわたしを見た。この父に叱られたことは少ない。家庭での叱り役は常に母だった。このときの父の表情は、記憶のわたしを叱る父の顔だと思った。


「浩司君だけが悪いのか?」


 それは…。


 それは何度か思ったことだ。沖田さんとのことが始まる前から、始まった後も幾度か考えた。自分が逃げただけなのじゃないか。古くなった夫への思いを捨て、単に新たな彼へ乗り換えたいだけなのじゃないのか。


 それでいいじゃない、と言ってくれたのは確か千晶だった。あの言葉で、すっと気が楽になったのも事実だ。「まあ、いいじゃない」と許された気になった。


「傍の目には家に居つかなくなった亭主より、幼い子供と残された母親は不憫に見えるもんだ」


「お父さん」


 姉が父の言葉に咬みついた。「ひどい」と頬をふくらませる。


「雅姫がしんどかったの、お父さんがわからない訳ないじゃない。お金のことだって困って、働いて、無理して…」


「今じゃ大勢の若い母親が働く。それに外に仕事を持てば、誰彼少々の無理はする」


「雅姫の無理は少々の無理じゃないの。すんごいタイプの無理だったの」


 姉の声が甲高くなった。ダグが「咲姫」と割って入った。彼にも父の発言に違和感があるようだが、話を聞こうとしている。


 姉はダグになだめられても、収まらないといった表情だ。わたしをじろりと見ては「反論しなよ」という顔をしている。


「以前、浩司君が一人でうちに来たことがある。これまで心配や面倒をかけたと詫びて、再就職の目途がついたと知らせてくれた。あれは…」


 夏のことだ、という。


 ダグが虚をつかれた顔をしている。知らなかったらしい。わたしと顔を見合わせた姉もそうで、首を振った。


「え、どういうこと?」


 問えば、


「そのままのことだ」


 とそっけない。


「聞いたことないけど…。それ、いつ?」


「彼が内緒にしてくれと言ったもんでな。確か、○町の加納さんの葬儀の日だったから…」


「なら、八月十日じゃないですか?」


 記憶力のいいダグが言い、父が「ああ、そうか」と頷いた。


 夏の盛りだ。わたしが同人を本格的に始めた頃で、気持ちにもお金にも一番余裕のなかったときでもある。イベントで元夫に留守を頼んで帰れば、家には熱を出した総司が一人で放っておかれていた。それで汚い言い争いをしたことはよく覚えている。


 元夫が父に詫びたというのは、その数日後のことになる。


 何のつもりで…?


 少し混乱した。思いがけない情報がふと舞い込んでよくわからなくなる。あんなに大喧嘩をしてわたしに何の言葉もなかったくせに、父には頭を下げにやって来ているのだ。「就職も目途がついた」って…。


「お前だけが頑張っていた訳じゃない」


 父の声に記憶が引きずり出された。いつだったか口論をして、元夫がわたしに投げた言葉だった。『自分だけが働いている気になるな』彼はそんなことを言ったはず。 


 じゃああの人は何をしていたのか。家計の財布からお金を抜いて、ほぼ毎日行先も告げずに外出をし、何の報告もなかった。


 言葉もない。結果もない。何も見せてくれなかった。


「よそ見をしていれば、映らないことも多いだろう」


 父の声に、思わず視線が下がった。


 父の言った「よそ見」とは沖田さんへのことを指すのだ。わたしに元夫の「頑張り」が見えてこなかったのは、他に気を取られ、見ようとしなかったせい。そう言っている。痛い皮肉だった。


「だって、あの人が」と、あったトラブルで反論はできたが、手痛い皮肉が効いてその気になれなかった。夏を境に、わたしの気持ちはすっかり元夫から離れ、沖田さんへ傾いでしまっていたのだ。


 彼の思いの何を探ろうなどと考えすら浮かばなかった。それは事実だ。始終胸にあった彼へのいらだちは、無関心に変わっていた。


「優しさも温情も…。あると思えば、ない場所からも生まれるものがある。それが、人の可能性だろう」


「…雅姫はよく堪えていました。頑張っていた…」


 ダグの声だ。まだ父の話は半ばの様子で、その声は控え目だった。父は制するようにちょっと頷いて応じた。視線がちらりと沖田さんの上をなぜたように思った。


「自分のあきらめで、人を侮るな」


 あきらめたのは自分。人を侮るな。


 皮肉どころではない。今度ははっきりと叱責だ。目が上がらない。なぜか、同じように姉もそうしている気配があった。


 ふと、解けたような気がした。


 元夫から受けた行為の幾つもが、何かのしっぺ返しでもあるかのように思えた。復讐めいて気味が悪かった。わたしが何をしたのか、どんな理由があるというのか。心の中で疑問符を付けながらも開き直り、やはり彼を疎んじていた。


 ある時期から、途切れなく続いたそんなわたしの態度を同じ家に住みながら、あの人が気づかない訳がない。


 まさに、あれらのことは元夫からの意趣返し…。


 侮るな。


 はっとした。父の口から出た言葉があの人の声になって耳に帰ってきた。そんな錯覚をした。

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