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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
手に残るもの

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3

 

「たらたらしてないでよ。言い負かされてるじゃない。いらいらしたわ」


 夫へ向けての言葉だ。


 痛みにうずくまり顔をしかめながらも耳に入る。


「…刺したのか? こんなことしなくても…。どうするんだよ、おい、おい?!」


「任せておいたら、どうなった? 追い出されておしまいでしょ。取るものも取れずに…」


「だって浮気してないみたいで、こいつ。あんたがそう言うから…」


 応じる夫の声は震えていた。二人の会話からお金目当てに組んでの計画だったことが知れた。安田さんの奥さんがマルチ商法に行き詰っていたことを思い出す。多額の支払いが溜まっていると、彼女を探すご主人がうちを訪ねてきたことがあった。

 

「見たのよ、男といるの、確かに。そんな雰囲気だった、間違いなく」

 

「おい。雰囲気って、前はそんな曖昧な言い方じゃなかっただろ?!」

 

 痛みに悶えながら奥さんは鋭いと思った。そんな一場面の出来事なのに。恋愛の要素を持った男女の空気感はきっと特別だ。見る人が見れば見抜かれてしまう。

 

 証拠などやはり握られていなかった。こんなときでも大きな救いだ。

 

 どうでもいいから、病院に行きたい。

 

 声を出そうとして力が入り。あまりの痛みにうめき声が出た。抑えた手指から血があふれるようににじんでいる。出血がひどい。自分が流す血に、恐ろしさがどっとやってきた。

 

 別れ話のちょっとしたトラブルなどではなく、わたしはきっと重傷を負っている。

 

「…救急車を…」


 かすれる声を何とか出した。


 わたしを見た夫が瞬時に目を逸らし、奥さんへ訴えた。それは泣き声みたいだった。

「電話しよう。苦しがってる。あんなに血が…」

 

「放っておくの。そのうち、時間が勝手に始末してくれる」

 

「何言ってんだ、あんた?! 死ぬじゃないか?!」

 

「…その方がいいじゃない。彼女が死ねばお金は全部あなたのものよ。その方がいいでしょ? わたしの手に入るにも、そっちの方が都合がいいし」

 

 彼女はそこで、ある金融会社からした借金の返済が切羽詰まっているのだと愚痴った。

 

「ちょっと、やばそうなとこなのよ」

 

「そんなの俺が知るかよ、だって…」

 

 嫌でも入ってくる二人の会話に気が遠くなりそうだった。さっき電話の姉が心配してしてくれたことは、妄想めいた取り越し苦労などではなかった。

 

 夫だけではこんな暴挙には出られなかったはず。暴力的な人ではない。だが、彼には金策に詰まった安田さんの奥さんがそばにいた。不倫をネタに「脅して、金を取ればいい」。そう夫をそそのかしたのは、おそらく彼女だ。

  

 出血のせいだろうか、視界が狭くなってくるのを感じた。

 

 もうすぐダグが来てくれる。先にそれを話しておけば、こんな目に遭わなかったかもしれない。夫との話し合いを立ち聞きしていたのなら、人が来ることを知れば、さすがの彼女も手を引いたはずだ。

 

 痛い。お腹が痛い。


 馬鹿なことを止め、救急車を呼ばせようとわたしはまた声を出した。

 

「すぐに、ダグが…」

 

 小さなそれは、不意に鳴った電話の音にかき消された。広くもない空間に響くコールに、二人の姿が固まった。かなり長く続いてそれは消えた。

 

「昼間だからセールスかしら…?」

 

 彼女はそう言った。そうじゃない。あの電話は総司の幼稚園の先生からだ。送迎の指定場所に園のバスが着いたのだ。迎えのわたしの姿がないから、担当の先生が家に連絡してきたのだ。

 

 固定電話が切れた後、ほどなくわたしのケイタイが鳴り出した。それはキッチンのテーブルに置かれている。園にはこちらの番号も伝えてある。迎えが来ず、困っているのだ。次に携帯電話を鳴らすのは当たり前のことだ。

 

 ふと、夫がケイタイに手を伸ばした。着信を知らせるそれを手に持ち、画面を開いた。そこで彼の顔が「あ」と驚くのをわたしは見た。

 

「やばい。子供の園からだ。近くに迎えのバスが来てるんだ。このまま無視し続けたら、もうじき訪ねてくるぞ。…おい?!」

 

「誰が来たって、出なきゃいいじゃない。じき、出血で死ぬんだし…。ほら、キッチンでりんごでも剥こうとして、転んで自分でお腹を刺すことだってあるでしょ?」

 

 ねえよ、馬鹿。


 いらだたしく突っ込みながら、早くダグが来てくれることを祈った。


 そうじゃないと、本当に…。


 浅い呼吸を繰り返しながら、ダグかもしくは園の先生が来てくれないかをひたすら待った。


 鍵はどうなっているのだろう。開いているのじゃないか。夫がやって来てちょっと虚をつかれていた。締めた記憶がない。もし開いたままなら、それを見た誰もが不審に思う。

 

「あ、わたし、鍵締めてくるわ」

 

 思いついたように、奥さんが廊下へ出て行った。こちらの心を読んだかのような行動に、舌打ちしたいが、その元気もない。

 

 夫がわたしに一瞬目を向けた。視線が合う。すぐに逸らすが、動揺と後悔がいっぱいの表情をしていた。それにすがるように声を出す。

 

「電話…、救急車……」

 

 返事はない。

 

 そこへインターフォンが鳴り響く。来た。誰かが来てくれた。小さな悲鳴が聞こえた。どたどたとした足音がこちらへ戻ってくる。

 

「誰かが!」

 

 奥さんだ。鍵を締めに玄関に行き、そこで来訪者と鉢合わせしたようだ。先ほどまでのふてぶてしさが消え、両手をこすりながらうろうろと落ち着きがない。すっかり取り乱している。

 

「どうしよう、勝手口、どこ?」

 

 逃げる気なのか、首を振りながら探している。狭いキッチンだ。扉は流し台の隣にあるのに、おかしなほど視線を泳がせている。

 

 そのときだ。いきなりリビングから大きな音が耳に飛び込んできた。ガラスが割れたのだ。

 

 割れた個所からはっきりダグの姿が見えた。パーカーか何かを腕に巻きつけた手が屋内に入り、しなやかに施錠を解いた。がらりと開いたそこから身軽に入ってくる。

 

「雅姫」

 

 その声に、なけなしの力が溶け出してしまいそうだった。

 

 夫が何かをわめいた。慌てふためいた彼女が、勝手口から飛び出して行く。もうどうでもいい。

 

 駆け寄ってくるダグに、ほどなくわたしは優しく肩を抱かれた。そうしながら傷を見、夫に救急車を呼ぶよう短く指示を出した。

 

 夫がこのときやっと電話をかけ出したのを見て、壮絶な嫌悪感がわき上がる。この人はわたしを見殺しにしようとしていた。

 

「もう大丈夫だ。僕がいる」

 

 この声はわたしへのものだ。

 

 彼の腕には巻いたパーカーがもうない。破片のついたそれを外へでも放ったのだろう。彼の胸に頭を預けた。吐息と共に、耐えた恐怖も痛みも流れていきそうに感じた。

 

 出血も多いはずで、気が遠くなる。


 ああ、


 神様、ありがとうございます。


 心からの安堵が、自然、心で声になった。


 実家は寺なのに。


 そして、ダグは僧侶なのに。



「俺じゃない。俺がやったんじゃない! …俺じゃ」

 

 夫はダイニングテーブルのそばで立ったまま口早に繰り返す。

 

「知らなかったんだ。こんなことになるなんて…。知ってたら絶対に止めた…!」

 

 ダグはわたしの傍らに屈み、腕の時計にちらりと目をやった。救急車の到着の時間を考えているのだろう。

 

「わかってるよ、コージ。君が刺したんじゃないのは。別の誰かが逃げていくのを見たからね。でも…」

 

 そこで言葉を途切れさせる。わたしの腹部にあてがったタオルが、血に染まるのを硬い色の瞳で眺めた。

 

「すぐに助けてやることはできたはずだ。どうしてしなかった?」

 

 救急車を即座に呼ばなかったことを責めているのだ。

 

 夫は口ごもりもごもごと何かをつぶやいたが、結局唇を噛んだ。

 

「どうであれ、僕にあれこれ弁明しても意味がない。じき警察も来る」

 

 ダグは救急車を夫に呼ばせた後、警察に自ら電話していた。わたしの髪をなぜ、呼吸にだけ意識を向けるように言う。

 

 頷くことも辛い。

 

 閉じかけた目が総司の姿を捉えた。リビングの扉を開けこちらに入ってくる。少し迷ったが、目顔で呼んだ。

 

 総司を連れてきてくれたのはきっとダグだ。幼稚園バスの送迎場から園の先生が総司を連れ我が家へ向かうところに同じくうちに向かう彼が行き合った…。


 そこで、子供を引き取りここに一緒に来たのだと想像がつく。彼や姉のことは保護者として園に連絡済だ。夫と別居を始めて、そうお願いしてあった。

 

 救急車と警察への連絡後、割れたガラスから屋内をのぞき込む総司を抱き入れたのも、ダグだ。子供の目に余る状況に部屋を出ているよう言いつけられていたが、不安なのだろう、じき戻ってきた。

 

 総司はわたしの顔をのぞき、傍らのダグを見、そして夫へも目を走らせた。「パパ」とつぶやいたが、そばに寄ることをしなかった。顔中に汗をかき小刻みに身体を震わせ続ける彼が、単純に怖いのかもしれない。

 

「ママ、大丈夫?」

 

 総司に頷くように笑いかけ「大丈夫」と言った。ささやくような声になる。


 声に反応したのか所在がないのか、総司はわたしの隣りにぺたんと腰を下ろした。身を預けてくる。


  不意に夫が大声を出した。何かが爆発したように思えた。ダグがすかさず動き、わたしと総司の前へ、守るように立った。

 

「こいつが、浮気したのが原因なんだ! あいつだって、言ってた、絶対そうだって」

 

 あいつとは、逃げた安田さんの奥さんのことだろう。夫はテーブルに放られたわたしのケイタイを手に取っていた。素早く操作しそれをダグにかざして見せた。

 

「俺は悪くない。一つも悪くない。浮気したんだ。こいつが! ほら、ダグも見ろよ、何だよ、この『沖田』って、着信履歴にしょっちゅう出てくる。昼間とか夜中も…。こいつがきっと浮気の相手だ、そうだろう?!」

 

 窮地に立ったとき、天啓のように真実に至ることってあるのかもしれない。頻繁に沖田さんから電話などなかった。あの人だって暇じゃないし(野菜の世話とか、妹の心配とか、仕事とか…)。


 だが、メールを見られてはまずい。好きだの嫌いだのの濃いラブメールはないが、読む人が見れば、そうとうかがえる内容ではある。離婚(はっきりその文字はなくとも)への進捗を訊ねたものもあった。

 

「メールを見れば、きっとわかる」


 しまった。ロックくらいしておけば…。


 痛みと苦しさに、ほぞを噛む思いが加わる。

 

 そのとき、ダグの腕が走った。彼の手刀が、夫の手首を打った。それに、弾かれたようにケイタイが下に落ちる。素早くダグはそれを拾い、夫とは反対のあちらへ放り投げた。


 怒ったような声を出した。


「そんなものが、雅姫が浮気している何の証拠になる? 大体、君はどうなんだ、コージ? 

雅姫をこんな目に遭わせたあの女は、君の何なんだ? なぜこの家にいたの? 僕は不思議でならない」

 

「それは…」


 ダグの強い言葉に夫はそれ以上を返せないでいる。圧倒的に夫が不利な立場を利用し、ダグは問題をさっさとすり替えた。それにも彼は気づかない。


 夫の次の言葉を待つ間もなく、外から耳慣れたサイレンの音が聞こえ出した。ひどく近くなる。その音の大きさに、自分に降りかかった災難を今更ながら身に迫って味わう。人声の交じる外の騒がしい気配が伝わった。ようやくこの修羅場に区切りがつく。その安堵に気持ちが緩んだ。


 ダグと夫の姿が揺らいでかすんでゆく。


 小さな総司の手を自分の手のひらに感じたその後、ふつっと意識が途切れた。

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