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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
手に残るもの

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「やっぱり、やり直さないか、もう一回」


 驚きに、手のグラスを取り落しそうになった。握るように持ち、冷えたお茶を口に運ぶ。喉にやってしまうと返事をするのが馬鹿らしくなった。

 

 振り返れば、夫は真面目な顔をしてわたしを見返した。ちょっと笑みを浮かべている。

 

「考えれば、元に戻るのが一番誰にとってもいいんじゃないかって思って…」

 

 よくもまあ…。

 

 今更こんなことをしれっと口にする。その厚顔さにあきれよりも生理的な嫌悪が強い。まだ続きそうな彼の声を遮った。

 

「わたしはそうは思わない」

 

 彼が飲み終えた空のグラスを受け取り、自分のと一緒にシンクに置いた。

 

「お前が怒る気持ちもわかる。俺は勝手に実家に帰ったし、総司のこともお前に任せっきりで…」

 

「自分の子じゃないんでしょ? 勘弁してほしいんでしょ? もう気安く名前を呼ばないで」

 

 弁護士が入り問題が片付けば、自分が思いのほか不利になった。せめて半分は残ると思った病院との和解金は、びっくりするくらい目減りした。それが惜しくなり焦ったのだろう。焦ったのは夫ではなく、姑かもしれない。

 

 底の見え過ぎる言動だ。自分が芯から甘く見られ、馬鹿にされているのを感じた。復縁をほのめかせば、嬉しがってわたしがそれに乗っかると思っているのか。

 

「…いい加減、お互い許し合おう。大人になろうぜ」

 

 はあ?

 

 話が通じない。

 

 この彼を相手に思いをぶつける気にも、口論をする気もならない。

 

「もう遅い。終わったの。わたしたちはおしまい」

 

 それで会話の窓を閉めたつもりだった。じき、この場にダグが来てくれることを口にしようとして、止めた。それまで居座るのなら、せいぜいびっくりすればいい。

 

 彼から顔を背け壁を向いた。緩く腕を組む。肩の辺りにじっと視線を感じた。

 

「お前に男がいたのは知ってる。金持ってるらしいな、そいつ」

 

 言葉にびくりとなった。けれど振り返らず、唇をそっと噛んで驚きをやり過ごした。「知ってる」が、どこまで沖田さんに迫っているのか。それが気にかかった。確証があるのかもしれないが、はったりかもしれない。

 

 黙ったままでいれば、夫はわたしの肩に手を伸ばした。振り向かせるように引き寄せる。

 

「手軽な女だと、遊ばれてるんだ。誰が本気になる? 子供もいるおばさんに。目を覚ませよ」

 

「許してやるから。間違いくらい、もういいから…」夫の言葉はそう続いた。夫の手から抗い離れた。黙ったまま距離を置けば、彼はわざとらしいため息をついた。

 

 聞き分けの悪い女のわがままに手こずっている、でも寛大な俺。彼の中での自分はこんな感じだろうか。小芝居を心で嗤っていると、

 

「男の会社に乗り込むこともできるんだぞ、大事な家庭を壊されたってな」

 

 と次の手に息を飲んだ。まさかと思い、だが最後の手段となれば、そんな無茶もするかもしれない、とも思う。夫にすれば正当な権利で失うものは少ない。

 

 そんなことになれば、沖田さんに大きな迷惑がかかる。

 

 そこまでつかまれていることに、怖くなった。弁護士に相談もしたのだろうか。興信所でも使ってわたしの身辺を調べたのかもしれない…。

 

 どうしよう。

 

 息がつまった。

 

「おかしいとは思った。ブランド品の包みを持って帰るし、気に入って通ってたパートを急に辞めるだろ? そうだよな。レジに立って稼がなくったって、社長からお手当てが出るんだったら、そっちの方が楽だよな」

 

 は?

 

 社長?

 

 やっとわたしは顔を上げた。夫を見る。意味がわからないのだ。

 

 目が合えば、彼は何もかものみ込んだ余裕のある表情をしていた。

 

「その頃からだよな、お前が強気になってきたの。漫画描くだの、それを売るだの言い出して…。社長から甘いこと言われていい気になってたんだろ? 自分にも何かができる、まだ遅くない、とかな…」

 

「まだ遅くない」その言葉に聞き覚えがあった。確か、いつか沖田さんからもらった励ましだった。思いがけなくてそれが嬉しくて…。涙ぐんだのを忘れていない。

 

 まあ、それは置いておいて。

 

 ここまで聞き、夫が壮絶な勘違いをしていることに気づいた。身体の関係こそないが、わたしは不倫をしている。しかし、相手が違う。

 

 どこでどう逸れたのか。夫はなぜか以前のパート先の社長をその相手としている。あ然としたが、すぐに大きな安堵がやって来た。正式な調査をした訳ではない。大丈夫、沖田さんにまで辿られてはいない。

 

 落ち着けば、おかしさが込み上がる。何がどうしてあの社長と…。まあ、言い寄られてはいたけどね。

 

「主婦が客層のメインのスーパーに、社長がパートと不倫のスキャンダルは痛いだろ。そんなこと知られてみろ、売り上げに大打撃じゃ…」

 

「言ってみれば? 追っ払われるだけだよ。そんなデマ、名誉棄損で訴えられるかも。あそこ、コーヒーショップも展開してて、社長やり手みたいだよ」

 

 遮って言い返す。へろっとしたそれに夫が驚きの顔をしてこちらを見た。まさか、こんな言葉を返されるとは思っていなかったようだ。

 

「言ってみれば?」と茶化すように返したが、実際あの社長に夫が会えば、沖田さんに通じる恐れがある。わたしといるところを、二度、しかも滅茶苦茶濃い状況で見られてしまっているのだから。

 

 でも、弱気を見せるのはまずい。たとえ、社長から沖田さんの影なりを耳にしたとしても、彼へはつながらない。「知り合い」で突っぱねれば、逃げ場はある。証拠などない。

 

 浅ましく計算しながらつんとした表情を作り、夫を見返した。

 

「いいんだな? 本気だぞ。お前らが会ってるのを見た人間もいるんだ。そうやってごまかそうったって、すぐにボロが出…」

 

「出ないよ、ボロなんか。大体、見たって何を? 誰が?」

 

「いや…、誰かは言えない。その人に迷惑がかかるし…」

 

「その人、嘘ついてるかもよ。適当なこと言って人の家庭に波風立てるのを楽しむ人もいるしね。本人には内緒に、とか言われたんでしょ? 言ったことの責任逃れの口上だよ」

 

「見たんだよ、とにかく。お前が、男と会ってるのを」

 

 心中、息をのみつつ夫を見たまま「ふうん」と返した。

 

「どこで?」

 

「その辺だよ、街中の…、公園か、駅前の」

 

 それでぴんときた。「誰か」がわたしと沖田さんと一緒いるのを見たのは、風俗まがいのバイトの帰りだ。あの社長にバイト先にやって来られ、あわや、と言うピンチを沖田さんが救ってくれた、あのときのことだ。

 

 多分「誰か」とはお隣りの奥さん辺りだろう。わたしの顔を知り、夫にそんな話ができる噂好きな人など滅多といない。しかし、それがどうして社長に…。

 

「街中で人に見られる中、誰か男性と話して、それが不倫? 道を聞かれただけかもしれないよ」

 

「親しげにしてたって、聞いた。何か食ってたって…」

 

 ああ、ガリガリ君ね。沖田さんが買ってくれたっけ。

 

「わたしは駅前で昔の同級生とも話せないの? で、何でその人が、あのパート先の社長になるの?」

 

 沖田さんの素性を隠してさらっと偽った。夫はそこで言いよどむ。彼なりの推理で相手をあの社長に絞ったのだろう。わたしの交際範囲などごく小さいもの。

 

 事実言い寄られていたので、イタリア土産のブランドバックはもらったことがある。すぐに返したが、一時それは家にあった。不似合に目立ったのかもしれない。まあ、隠しもしなかったから。

 

 しかし、本気で社長に問い詰めでもしたら困る。ブランドバッグに言及することなく、わたしは社長との不倫関係を否定した。これは真実だから強気のまま言い切れた。

 

 夫は何か言葉を探しているようだった。わたしへかけた疑いを詫びることもしない。いつかの段階で、わたしが先に彼を裏切っている。だから謝ってほしいなどとも思わない。

 

 視線を泳がせ、次の言葉を言いあぐねる彼を眺めた。わたしへの気持ちなどさらさらないのを感じた。不倫を許してやると、復縁を口にしながら不貞の事実がないと知れば、うろたえたように言葉をなくす。

 

 わたしが不倫していたと告白された方が嬉しいかのよう…。

 

 あ、と思う。


 そこで、彼が言った「会社に乗り込む」がつながった。多分、それはわたしへの脅しだ。そうされたくなければ、和解金の取り分を考え直せ…。そんなところだろう、と。

 

 どんな思いがあるにしろ、あっさりと総司を切り捨てた人だ。復縁など望むはずがないのだ。

 

 彼がほしいのは簡単に手に入らない額のお金だ。誰の種かわからない子供とそれを産んだ妻のいる家庭ではない。

 

 敢えて口にしたのは拒否されるのを見込んだ上で、わたしの様子を探るつもりだったのかもしれない。


 その後、不倫の証拠(うさん臭い)を突きつけ、動揺させておいて、相手の「会社に乗り込む」との決めぜりふだ。それでわたしが降参するはず、と読んだのか…。


「やり直したいなんて、本気じゃないくせに。話し合いは弁護士さんを通してするって決めてたじゃない。…何がしたいの?」

 

 時計を見ながら言った。総司のお迎えの時間までそう間がない。夫にはもう帰ってほしかった。


「何って、話だよ…」


「本気じゃないくせに」と言ったわたしの言葉を否定しない。やはり復縁など架空なのだ。そんなもの惜しくなどないが、少し傷ついたように感じるのはまた総司の存在が捨てられたからだ。

 

 馬鹿げた不毛な話し合いに、うんざりとした。


「話なら、もう終わったじゃない」


「…総司、そろそろ帰るんだろ? だったら、ちょっと会っておこうかな」


 唇にだけ薄ら笑いを浮かべる夫をにらみながら、深く思う。総司にはこの人は会わせられない。どんなに切ながっても、恋しがっても。関わることは何の益にもならない。あの子のためにならない。


 この嫌悪感をエネルギーにそう覚悟を決めた。


 夫を卑怯で身勝手に思ってきた。今もそう。


 でもわたしが先に彼とのすべてを捨てたのだ。ほしいものだけを抱いて、逃げ出したのかもしれない…。


 そんな思いがこの人を前にふっと顔を出す。罪悪感のようで、彼から受けた様々な裏切りの自分なりの理由付けのようでもある。気味が悪いから。訳もなく恨みを買ったかのような仕打ちは怖かった。

 

 こんな風に一々根拠を探すのもわたしの弱さなのだろう。単純に彼との未来はないだけなのに。不要なら「さよなら」と一方的に切ればいい。千晶が三枝さんと別れたときのように。あっさりとばっさりと。

 

「総司にはもう会わないで」

 

 できるだけすっきりと告げたつもり。彼の目を見て首を振った。


「帰って。もうそろそろ…」

 

 ダグが来るから、とつなげようとした。そのとき物音がして、目の端に何か映った。自然に、キッチンから続くリビングのドアへ目を向けた。

 

 影のように見えたものが人の姿になっていきなり現れ、面食らった。それが女性で、見覚えのある人で、そして、隣家の安田さんの奥さんだと遅れて気づく。

 

 何で?

 

 なぜ彼女がここにいるのか。驚きに頭がついていかない。

 

 まごついたまま、

 

「どうして?」

 

 そう問うのと、勢いをつけた彼女がこちらへ向かってくるのが、ほぼ同時だった。身構える余裕もなく、わたしは弾みのついた彼女の身体を受け止めた。壁にドンとぶつかる。強く背を打った。衝撃と違和感に膝が折れた。


 腰の辺りに熱を感じ、目をやれば服に血がにじんでいる。慌てて手をやる。指に自分の血が触れることが信じられなかった。


 刺された?


 力が入らない。痛みは遅れてやってきた。きついときの陣痛に似ていた。そのレベルから傷がひどいのだろうか、とちらりと思う。


 既に立ち上がった彼女の手には、ナイフがあった。

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