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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
それぞれに懸命

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13

 キスはごく短いものだった。

 

 そのまま続きそうになるのを避けるため、彼の肩を押しやった。

 

「ごめん」

 

 千晶の家だ。解決していないことも山積みで、これ以上行為を続けることに抵抗があった。

 

 意を汲んで沖田さんもすんなり身を引いてくれる。

 

「ああ、そうだな…」

 

「基本エロいよね、沖田さんって。エッチなグラビアアイドル好きだったしね、…あの子どこ行っちゃたんだろ?」

 

 照れで、そんなことをへらへら喋った。

 

 ちりちりと羞恥はある。でも、これまであった隔たりがうんと小さくなるのを感じた。間に挟まった湯気におおわれたガラスを、さっと手がぬぐう。それで互いにその向こうがのぞけるようになる…、たとえばそんな気がした。

 

 湯気のついたガラスの想像から怪しいバイトを思い出す。同人の資金欲しさに『紳士のための妄想くらぶ』で半裸でやったバススタッフだ。おかしく、そしてちょっとだけ懐かしい記憶になる。

 

 ワインを飲みながら彼が何か言った。それに、妙な思い出がふつっと途切れる。

 

「…所属のプロダクションの社長と結婚したらしいぞ」


 彼がファンだったグラビアアイドルの話だ。

 

「ふうん、すごいね。消えたと思ったら社長夫人か…。でもよく知ってるね、さすがファン」

 

「お前に似てたよ。だから…、気になってた」

 

「え?」

 

 ええ?!

 

 沖田さんは言ってからちょっと笑った。「写真集も買ったなあ」

 

「似てないよ、全然。彼女巨乳だしスタイルいいし…、髪だってロングでしょ」

 

「顔が似てんだよ、雰囲気とか。まあ、そういう訳だ」

 

 返事に困った。

 

 今更の告白は小さくない衝撃だった。単に、グラビア好きなオッサンだと思っていたのに…。

 

「…だから嬉しいんだ。お前とこんな風になれて」

 

 さすがに照れが混じるのか、彼は目を伏せてグラスを口に運んだ。

 

 言葉に迷ってを出たのが、つまらない謙遜だ。それでもいいと言ってくれている彼に何の意味のないもののはず。

 

「大したことできないよ、これといって取り柄もないし…」

 

「普通でいいんだ。たとえば、休みに何か食いに行くとか、電気屋行くとか…。そんな感じでいい」

 

 彼が言うのはわたしが散々やってきたことだった。ただ、相手が夫から沖田さんに変わっただけの。

 

 ささやかな望みを軽く笑いながら聞く。もっと似つかわしく相応しい誰かが、彼にはいるのではないか。そんな気持ちがふっと兆す。

 

 わたしの過去は彼に何の責任もない。それと総司をこれから背負わせてしまう…。劣等感でないが負い目ではある。それが、こうしている今も照れと混じり合って、わたしをちょっと尻込みさせている。

  

 空いたグラスにワインを注ぐ。チョコをもてあそびながら、口を開いた。

 

「…あのね」

 

 子供は難しいだろう、ということだ。総司は長い不妊治療の結果、やっと授かった子だった。わたしに原因がある。その触りのようなことは言ってあった。でも、きちんと伝えておくことだと思ったから。

 

「だから…」

 

 彼とはぜひにも結婚の形をとらなくてもいいと、わたしは思っている。のちに、彼が実子がほしいと考えが変わることだってある。そのときに、きっとわたしでは願いを叶えてあげられない。

 

「そんなことはない」「絶対大丈夫」とか、ほんの一瞬で価値を変えるそんな言葉は要らない。

 

「大事なことだよ。よく考えて。答えは今じゃなくてもいいから…」

 

 わたしの言葉に彼は黙り込んだ。思いのほかそれが胸に堪えた。この期に及んでの彼のためらいがよく伝わる。

  

その沈黙が、わたしの言葉と事実の彼にとっての重さに思えた。

 

「安請け合いは止めてね。ははは」

 

 前の涙の残りで声がほんのり湿ってしまう。口に含んだチョコの甘さに意識を向ける。千晶が出してくれたどこかのショップのものだ。パッケージは可愛いけど、味はちょっと微妙…。

 

 それが舌の上でなくなる頃、彼の声がした。

 

「俺も、これまで何人かつき合った人はいた。…こんな話したことなかったな」

 

「そうだね、初めてかも…」

 

「でも、誰とも結婚には踏み切れなかった。確かに、お前のことが忘れられなかったのもあるけど、そこまで俺もロマンチストじゃない」

 

 少女漫画の影響か、若干脳がピンク色の気はあるみたいだけどね。もちろん声にしない。

 

「俺、子供が出来ないんだ」

 

「ふうん」


 と適当な相槌を打ってから驚きが来た。チョコの包装紙をいじる指から目を彼へ向けた。

 

 沖田さんはわたしの視線を受け、それを流すこともなく見返す。社会人になりたての頃におたふく風邪をやった、と言った。

 

「症状がひどくて、十日くらいだったか入院までした。出るときに、医者にそういわれたんだ。ゼロではないが、俺の場合は多分かなり難しいって…。若かったから、大して深刻に考えなかったんだけどな、そのときは」

 

 仕事の忙しさと若さで紛れていたことが、折々に顔を出し始めた、という。誰かの結婚や出産の知らせ、または自身の恋愛の経過で…。

 

「ちょっとずつ堪えてくるようになった。思いつめもしないけど、何かのはずみで必ず思う。自分が絶対持てないものがあるって…。そんなもの他にも腐るほどあるんだけどな。だから辛いとか、寂しいとかじゃない、何か…」

 

 ぴったりの言葉がないのか、沖田さんはそこで黙った。それは、埋められない心の中に開いた、穴なのではないか、と思う。スペアはある、別でふさぎようはある。でも、そのことでない限り穴は開いたままなのだろう。

  

 それで結婚には至れなかった、と彼はつないだ。

 

「きらきらした目を向けて将来のことを語られると、気持ちが萎えた。真剣になれない。引け目なんだろうな。だからか、一度も彼女たちに打ち明けたことがない。…お前にだって、こんな遅出しだ」

 

「ふうん」

 

 引く手あまたなはずの彼がこれまで独身でいたことが、このとき腑に落ちた。きっかけも相手もいくらであっただろう。ただ、彼の気持ちに踏み切れない理由があった…。

 

 彼の心の穴はわたしでふさげるのだろうか、とちょっと思う。

 

 彼はつなぐ。

 

 妹のいろはちゃんがわたしとのことを認めているのは、子を望めない兄の相手として、バツイチになり子持ちのわたしが都合がいいと理解しているからだ、という。

 

「お前なら、俺に子供を求めないんじゃないかって。きっと楽だろうって」

 

 彼の持つ事実にわたしの引け目はバランスよくつり合う、彼女はそう見るのだろう。「楽だろう」と。理知的なところのある彼女らしい判断だと思った。この彼女の打算には兄への愛情と思やりの裏打ちがある。

 

 すんなりと理解できた。

 

 落胆がないと言えば嘘だ。「雅姫さん」と年上のわたしに親しんでくれる彼女からの純粋な好意を、ずっと感じていたからだ。

 

 そんな訳ないか。

 

 わずかに自嘲しながら、それでもとてもよく納得がいく。賛成にはこれほどくっきりと理由がある。漠然とした好意より頼もしいのかもしれない。本当の親愛などは積み重ねでしか得られないもの。

 

 彼が敢えてこんなことを告げるのも、いろはちゃんは実際的な面を踏まえている、と伝えたかったのかもしれない。同人絡みの浅くふわふわとした親しさのみではないと。

 

 彼の告白からいろはちゃんの思いを知り、わたしの中の彼へ感じる負い目もふっと軽くなっている。彼を前に自分のそんな部分を気まずく味わう。

 

 けれども、それは彼だって同じではないか。わたしを長く忘れかねていたと言ってくれる嬉しいその言葉の全ての成分が、恋ばかりではないはず。妹のいろはちゃんが感じたように、わたしの子供を含めた経験に、どこかでほっとしているだろうから。


 いいよ、いろいろあっても。

 

 お互いさま。

 

 そのままでいいから。


 向けられる視線を受け、ちょっと笑った。

 

「もし、沖田さんにそんな事情がなくてとっとと結婚してたら、きっとわたしに回ってこなかったね。今頃、元ミスの奥さんと週末は避暑地の別荘でのんびりスローライフとかだったんだろうね」

 

「何だよそれ、具体的だな…。俺に何の問題もなかったら、とっくにお前に声くらいかけてた」

 

「多分、断ってたよ」

 

「はっきり言うなあ」

 

 あの頃の自分の心を詳細に振り返ることは難しい。自分にばかり一生懸命だったことだけが鮮やかだ。同人と千晶と、彼女と一緒にやっていたサークルの『ガーベラ』、そして身体に兆した変調…。楽しみにも悩みにも、気持ちはいっぱいいっぱいだった。

 

 沖田さんの存在など、よく行くコンビニのバイトくらいにしか重さがなかった。それから長く時間を置いた今、その彼にこんなにも焦がれている自分が信じられない。結局こんな風になるなんて。

 

 十三年も時間をかけた遠回り。

 

 無駄なようで長いそれがなければ、わたしは総司の親でいられなかったし、彼だってわたしに対しての思いを固めてくれることもなかっただろう。そして、わたしがそんな彼にこう向き合うこともなかった。

 

 まわり道。余計な経験ばかり増えていたようで、一つとして要らないものはないのかもしれない。

 

「お前に子供がいることが、俺には本当にありがたい」

 

 沖田さんの言葉を受け、わたしはワイングラスの脚をいじりながら目を伏せた。少しの酔いに任せて、吐息と共にぽろりと愚痴が出た。

 

「…誰の子か、わかんないけどね」

 

 重なった手に甘えるように不安を口にする。将来、総司に告げることになる事実、その重さ…。それらを思うとき、同時にわく不快さがあった。見も知らぬ人の精を受け入れ子を生した不気味さが、いつまでもまとわりつく。

 

 言葉にしないが自分の経血を見るのも気味が悪かった…。自然下腹に手が伸びた。何となく押し当てる。

 

「俺の子にしとけよ。相手がわからないならちょうどいい。もう俺の子でいいじゃないか」

 

「ちょうどいい」って乱暴な。人ごとだと思って。苦笑して彼を見た。適当なことを…。

 

 軽い文句が出かけたが、作らない彼の表情を見ていい加減に言っているのでもないのかもしれない。

 

 下腹に置いた手に彼の手が重なる。やんわりとそのまま押された。

 

「お前は四年前に俺の子を産んでくれたんだ。俺はそんなつもりでいる」

 

 わたしたちが籍を入れる際、同時に養子縁組をしないか、と言い添えた。望外な思いやりだ。ちょっと声がつまる。

 

「…うん」

 

 ありがとう。

 

 嬉しい。

 

 そう言いかけたが、最後まで言えない。互いに抑えていたはずが、ほんのはずみでするりとやわな縛りは外れそうになる。

 

 頭に彼の手が置かれた。抱き寄せる力はちょっと強い。つむじの辺りにとんと顎が乗るのがわかる。瞬くほどの間のことに言葉を失う。

 

 軽い、それでも密接な触れ合いに感じる。この人とこれから共にあることを、こんなときになって実感する。

 

 ただときめくだけでなく、遅れてやっと幸福感が心に生まれてくる、そんな気がした。初めてのような初々しい感情にちょっと戸惑う。胸を占めるふんわり柔らかな思いを噛みしめた。

 

 そして、比較でもなく後悔でもなく、ふっと差す影のように思った。夫にはこんな気持ちを抱かなかった、と…。それは、罪悪感に似ていた。

 

 互いにふさわしいと魅かれ合ったし、生活を重ねての安らぎももらった。充実していると感じていた。総司が生まれてからは特にそうだった。

 

 それで足りないのではないし、いけないのでもない。

 

 夫はどうだったのだろう。そんな事柄を真剣に話し合ったこともなく、いつしか関係が狂い始めていた。既に、愛情も未練も何も感じない。

 

 その彼から大きな裏切り。まるであやまちのしっぺ返しのよう。

 

 わたしが何をしたのだろう。何が悪かったのだろう…。

 

 そこで、総司が泣き出した。

 

 とりとめのない思いを、きつく目を閉じて押しやった。ついでに沖田さんも押しやる。

 

「ごめん、見てくる」

 

 総司を寝かせた部屋に向かう。ふと目が覚めたときいつもと様子が違い、不安になったのだろう。抱いてやればしがみついてくる。

 

「大丈夫、大丈夫。ママがいるよ」

 

 どれほどかあやせば、落ち着いた頃にはもう寝息を立てていた。しばらくそばにいて静かに部屋を出た。気持ちにゆとりがないときはため息も出ることもある。それでも全身でわたしを求めてくれるのはもう数年もない。成長に従い、友だちや好きな人にその座を易々奪われてしまう…。

 

 そう自分に知らせてやれば、その場その場がかけがえのない時間だ。

 

 リビングに戻ってすぐ、今度はインターフォンが鳴った。出れば、当たり前に千晶だ。すぐに施錠を解く。

 

「あいつ、早いな」

 

 沖田さんはこぼすがちょっとほっとする。小さくあくびをしながらソファに浅く座った。そのわたしの手を彼が緩くつかんだ。

 

 二人の時間が惜しくない訳ではない。

 

 でも、これまでを清算しないまま感情だけで先に進むことに抵抗がある。特に、総司を見てからそれを強く思う。いろんなことで適当な自分の、唯一守りたい一線、そんな気がした。

 

「落ち着いたらどこか出かけないか? 子供も連れて」

 

「そうだね」

 

 そんな日が未来に待っているようで、ふっと目の前が明るくなる。ほんの先のようで、まだまだ遠くのような気もする。

 

 それでも、思いをさらし気持ちを確かめ合えた今、心の奥にはぽっと勇気のようなやる気のようなあたたかいものを感じられた。

 

 ちょっとぎゅっと手を握り返し、離す。そこで玄関のドアが開く音がした。

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