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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
それぞれに懸命

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 現実逃避でも都合がいい。こんなとき変に原稿がはかどった。

 

 次のイベントに合わせて準備中のものが一つ。他、通販に予定しているものが二つほど。リアルでは千晶の本の分があって、手がいっぱいだ。理由などどうでもよくて、集中してものが描けるのは本当に嬉しかった。

 

『ええ?! よろしいんですか? 本当においでいただけるんですか?』

 

 電話越しに、同人仲間の咲耶さんの声が響く。イベントでは何度も彼女に委託させてもらっている。都度お礼はしているが、久しぶりに手伝いを買って出たのだ。彼女の本はファンが多くて午前中には完売してしまうが、少しでも。

 

「お邪魔じゃなければ、売り子するよ」

 

『畏れ多い! 遊びにいらして下さい。 お坊ちゃんとご一緒に』

 

「ははは、子連れは無理かな」

 

 約束を交わし、電話を切った。人で熱気むんむんのイベントに顔を出せば、気も紛れそうな気がした。

 

 夫たちとの話し合いの後、わたしは家にこもりがちだった。あの後、二日実家に泊まった。姉たちは引き止めたが、総司の幼稚園もある。弁護士の件を詰めた後、こっちに帰ってきた。

 

 いい思い出は少し。ローンはほとんど残っているし、子供と二人で住むには広過ぎた。それでも、ここが自分の家だと思ってしまうのはなぜだろう。

 

 結婚してあちこち夫の転勤先についていき、やっと本社勤務。もう転勤はないはずと家を買った。初めて落ち着ける気がした。総司の幼稚園もここを軸に決めた。自然、ここから通える小学校も頭にあれば、その先もそうだ。

 

 夫が失業してからは、ここからわたしがパートに出かける日々だった。それからも、あれこれあって…。

 

 ケイタイが鳴った。表示を見れば、びっくり。

 

 沖田さんだ。

 

 ちょっと迷い、出る。

 

『おい、雅姫か? お前な…』

 

 いきなりケンカ腰だ。何なんだ。

 

「はは、久しぶりだね」

 

『何が「はは」だ。連絡くらい寄越せよ。うんともすんとも言ってこないんだからな』

 

「え、メッセージ返事したよ」

 

『そうだな、「うん」だけ、な』

 

 あきれた声が届く。

 

 もらったメッセージはこちらの具合をたずねる内容だった。離婚の状況とか総司の様子とか、もし弁護士を通すならその件でも協力できるとか。ついでに、買った新しいたこ焼き器の性能とか…。外面の割に、細やかなメールだった。

 

 気も滅入っていた。返事のしようがなくて、つい「うん」とのみ素っ気なく返してしまっていた。


 当事者のわたしですら、勘弁してほしいと願うほどの事態だ。何を言っても、愚痴や泣き言になる。そして、将来に備えて出来る限りの額を夫から引き出したいと望むようになってもいた。

 

 部外者の彼にはお金と欲が絡んだ、醜い場面にしかきっと見えないはず。それらを隠すつもりで、安易にだんまりを決め込む。こんなでも、わたしは彼に甘えているのだろう。

 

 多分、これくらい許してくれる、と。こんな女だから、と。

 

 ちょっとした沈黙の後だ。

 

『こじれてるのか? 話が』

 

「うん…、ちょっとね。ごめんね、ややこしくて。…ははは」

 

 実際は、弁護士を通しての話し合いがしばらく続くだけだ。どちらかがどこかで折れるまで。

 

『条件でも出されてるのか? 親権のこととか、分与とか…』

 

「うん…、まあね…」

 

『言えよ。お前が「まあね」しか教えないから、中身がわからない。これじゃ、相談にも乗れないだろうが』

 

「相談なんかしてないじゃない」

 

『じゃあ、しろよ』

 

「はは、…別にいいよ」

 

『なあ、俺と話すとまずいのか? 弁護士に止められてるとか…。なら、言ってくれないとわからない。ダグも何かはぐらかすみたいな感じだったし…』

 

 彼がダグと連絡を取っていることに驚いた。ダグは気さくな人だし友人も多い。いつの間にか、年齢も近い二人は友だちにでもなっていたのだろう。

 

「ふうん」

 

『「ふうん」じゃねえよ』

 

そこで彼は「なあ」とつないだ。

 

『へらへら笑ってるけど、お前「大丈夫」とは言わないよな。言えないんだろ、本当のところは』

 

 ちょっと探るような声でそんなことを言う。それが鋭いところを突くから、即座に空笑いも返せなかった。はぐらかす余裕がない。

 

 彼に黙っていたいと願いながら、洗いざらい打ち明けてしまいたい気持ちもある。それに、起きたことへの整理もまだつかない。

 

 選んだことに迷いのないはずが、やっていることは、出来事から目を逸らしていることに近い。これからの日々に悔いなどないのに。

 

 ふと口にした「あの…」と彼の言った『なあ』が重なった。

 

 即座に引っ込め、「何?」と続きを問う。

 

『なあ…』

 

「だから、何?」

 

『時間取れないか? これから』

 

「え」

 

『昼くらい奢ってやる』

 

 壁の時計を見れば、十一時近い。朝食が遅かったから空腹はない。それでも気持ちが躍った。彼に会うのは久しぶりだ。


 でも、そこで夫の言葉が頭によみがえる。彼への連絡が控えがちになっていたのは、それも理由の大きな一つだ。

 

 返事が遅れた。「あの…」とさっきも言いかけた意味のない言葉を繰り返す。

 

『おい、どうした?』

 

 彼の声に引っ張り出されるように、しまっていた事情を打ち明けた。夫がわたしたちの関係を知っているらしいこと。意外さと恐れで、あの人が言ったセリフをわたしは半ば脅しのように捉えてしまっている。

 

『それでか…、ダグの歯切れが悪いのは…』

 

「うん、ダグは会うのを控えた方がいいって言ってた。人を使って調べることもあるだろうから、って」

 

 わたしの言葉を待つのか、彼は黙った。

 

「沖田さんに迷惑がかかるかもしれないし…、やっぱり会わない方がいいかも」

 

『ふうん』

 

 沈黙。

 

 ややこしくて重たい。わたしは受話器をちょっとずらしてため息をついた。

 

『誰かに見られたか?』

 

 自問のような声だった。二人でいたシーンを幾つか思い出す。普通に接していたつもりが、赤面したいものもあった。そのどれかが人の目に留まったのかもしれない。

 

 夫ではないと思う。が、総司の件を秘密にしていた底知れなさもある。わからない。

 

 もしかして、お隣の奥さんが夫の耳に入れたのかもしれない。大金の絡むビジネスを彼に紹介した人だ。話のついでに、ビジネス話の導入でも使ったのかもしれない。気を引くために、面白く脚色して…。

 

 もやもやとしたものが頭をよぎる。

 

『…なら、またにしよう』

 

「…うん」

 

 自分でセーブしたくせに『じゃあな』と電話を切られると、ひどく切なかった。ぷいっと彼に顔を背けられでもしたような、そんな寂しさがあった。

 

 しょうがない。

 

 また原稿に向かった。準備運動のように意味のない線を紙の上に描いていく。そのうち、気持ちにけりがつく。

 

 しょうがない。

 

 何度目かのつぶやきが、やっと納得できるようになる。

 


 千晶からのメッセージが届いたのは、総司を迎えに家を出ようとした頃だ。


『夜、おいでよ。総司も。

原稿持ってきたらいいよ。

ワイン飲もう』


 週末で総司の幼稚園も休みになる。泊まらせてもらっても都合がいい。気持ちがすぐに動いて「行く」と返した。

 

 帰宅後、総司がぐずり出した。不満と甘えが合わさったかんしゃくだ。こういったことはたまにある。身体も大きくなってきたし、赤ちゃん時代のようにずっと抱っこも出来ない。せいぜいあやしてなだめて、やっと静まらせた。

 

 ほっとすると一緒にどっと疲れが出る。アニメを見ながらアイスを食べる総司に声をかける。

 

「これからね、ママのお友達のところに行くよ。お泊りするからね」

 

「いいよ」

 

 何かのスイッチが切り替わったかのように、聞き分けがいい。言葉にならない子供なりのストレスだってあるだろう。それを受け止めてやることは、親なら誰だってやっていることだ。

 

 ここずっと一人でやってきた。手抜きもあれば至らないことも山盛り。きちんとした人から見れば、わたしの育児はびっくりされるかもしれない。それでも、毎日をこなしてきたという自負心はやはりある。

 

 けれども、疲れを感じたときふと不安になる。ちょっと怖くなる。この先、大丈夫なのか、と。


 夫が家にいたときは、忙しかったりわたしの手に余れば、荷でも渡すように総司の面倒を彼にバトンタッチしてきた。何もしてくれなくても、それだけでうんと楽だったことをこんな今痛感している。

 

 ダグはわたしが一人になるのを心配して「必要なときは僕を呼んで」と言ってくれている。「男の子の成長に、身近な大人の男性の影響は少なくない」と言うのが、彼の持論だ。姉も父も、もちろん気にかけてくれる。

 

 望むとき、身内のサポートが気兼ねなく受けられるのだ。ありがたい環境だと思う。

 

 それでも気持ちが不安に揺れるのは、ホルモンのバランスといった生理現象に近いのかもしれない。

 

 ダグは、きっと総司にいい刺激を与え続けてくれる。手近ないい見本だと思う。彼より身近になるはずの沖田さんを思い出し、ちょっと笑った。なぜか笑った。

 

 期待はしていない。強いたいこともない。

 

 ただ、わたしの心が彼を必要としているだけ。

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