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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
それぞれに懸命

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5

 

「どうして?」

 

 不意に話が飛び、顔を上げた。

 

 肝心なその件はまだほとんど進んでいない。後ろめたさを感じながら聞き返す。当の夫本人がつかまらない。彼の実家にいることは姑との電話で知った。折り返しわたしへ連絡を頼むも、電話がない。二度ほど催促の電話もしたが、なしのつぶてだ。

 

 姑は単身帰ってきた息子から、わたしとの夫婦仲も聞いているはず。悪い印象などなかった人が、明らかに声の調子が突き放したものに変わっていた。まるで、迷惑なセールス相手のように。「総司はどう?」と孫への声はかけてくれたが、それすら、取ってつけたお義理のように取れてしまうのだ。

 

 気は重いが、夫が隠れたままならそろそろこちらから出向くときなのかもしれない。そうなれば、総司は実家に見てもらわないと。込み入った話をするだろうから、連れて行くのは難しい…。

 

「別れてしまえばうちに来れるだろ。子供と二人じゃ、何かあっても不安だし」

 

 彼には夫が長く不在なのは伝えてあった。

 

 さらりと口にする内容に、どきっとなる。思わず彼の顔を見つめた。

 

「いろはちゃんがいるのに?」

 

「元々、家族向けで売り出してたマンションで、部屋なら余ってるし」

 

「あの、そういう問題じゃなくて…」

 

「何だよ? いろはならもう話してあるし、了解してるぞ」

 

「あの、だから…」

 

 いきなり一緒に住むとか、彼のお宅に子連れで上り込むとか、妹ちゃんが快く迎えてくれるとか…。彼が易く言葉にするそれらに、面食らってしまった。こっちは、夫が逃げ回り離婚の話すら始められないでいる有り様なのに。

 

 日常に紛れ何やかやと理由を作って、夫との交渉を億劫がっている。その自分のだらしなさにも、こんなとき惨めでいらだたしい。

 

 先へ進むことに何の障害もない彼の身軽さが、羨ましくてまぶしい。ちょっとうらめしくもある。言葉を途切れさせたまま、身勝手で気ままな感情を味わうように胸の中でかき回した。

 

「だから、何だよ?」

 

「だから…、大丈夫なの?」

 

「何が?」

 

 わたしにもそれが何を指すのかよくわからない。自分にはないきれいなものを持っているかに見える彼への、ぼんやりとした羨望だろうか。

 

ふと、顔を出したふわふわした腹立ちが、彼の胸をぽんと叩きたくさせる。馬鹿みたいにわがままだ。

 

「一緒に住むなんて…、よく知りもしないのに」

 

「知ってるだろ、お前のことなら」

 

「実家はショーリンジ」と茶化した口調が続いたが、返事をしなかった。うるせーよ。

 

「寝てもない女の、何がわかるの?」

 

 嫌な言葉だと口にしてすぐ気づいた。手と手がわずかに触れる、いつか、抱きしめられたことはあったが、それだけ。キスすらしたことがない…。互いに、いい歳をした二人なのに。

 

 それは、彼のせめてのモラルと節度のため。わたしがずるずると離婚もせず、人妻であるためだ。

 

 深く確かめ合えないのは、わたしのせいだ。

 

「寝たら、何か変わるのか?」

 

「…みっともない身体してるかもしれないじゃない」

 

「じゃあお前は、後で俺が、早漏で痔持ちだってわかったら、それで不合格なのか?」

 

 淡々と普通の声で喋るから、通り過ぎた人がこちらをちらり見るのがわかった。

 

 気まずさに声を落とす。

 

「痔なの? あれ、我慢しながら手当てするより、病院に行った方がいいよ。お父さんがそうで、手術したらすっごい楽になって…」

 

「親父さんの痔の話はいい」

 

 そこで彼が小さく笑った。例えの話だ、と言う。

 

 なんだ、ふうん。痔であるのなら、これまでつき合わせたBL話はさぞ…、と痛々しくも思ったのに。

 

 腕をつかんだ彼が問う。

 

「そんなことで、変わるのか?」

 

 それにわたしは返事をしなかった。彼がつかんだ腕を眺め、そこから彼へ視線を流した。聞きたいのはわたしの方。知りたいのはあなたの変化だ。

 

 不意に、自分がとても不安でいることに気づく。

 

 いい気候なのに、寒いようなおかしな感触が肌をめぐった。わたしは逃げるように彼の腕をやんわり外した。

 

「じゃあね、沖田さん。ここからでしょ?」

 

 ほどなく現れた駅へ向かう曲がり角で、彼と離れた。急くように足を速めた。そろそろ総司の幼稚園が終わる時間だった。余裕がないのは本当。

 

 でも、彼と一緒にいる今が、いたたまれなかった。

 

 さっき、カフェで「頑張らなくていい」と。自分にまかせてほしい、そう言ってくれた彼の声は、本当に嬉しかったのに。

 

 甘えたい気持ちと、それをセーブする気持ち。自分を抑えるのは不安だから。

 

 わたしは抱いてほしいのだろう、きっと。それが叶えられないから、彼を見て苛立つのかもしれない。当たり前の顔をして常識やモラルを離さない彼が、恨めしいのだろう。

 

「寝たら、何か変わるのか?」と彼は言った。踏み込んだ関係になったとして、それで自分の気持ちの何が変わるとは思えない。気恥ずかしさがやや増し、じきそれも薄らいで、わたしたちはもっと男女として親密になるだけ、多分そうなるだろう…。

 

 不意に、ぱんと背中が叩かれた。軽いショックにぎょっとなって振り返る。そこには、ちょっと駆けてきた風の沖田さんがいた。

 

「勝手に決めるなよ」

 

「え、何?」

 

「お前のこととか…、いろいろ」

 

 言葉の意味がよくわからず、彼を見た。これからを一人で決めてしまいがちなのは、彼の方だ。

 

「お前のことは、知ってるつもりだぞ。人の話を聞かないとか、せっかくのところで怠け癖が出るとか、興味がないといきなりいい加減になるとか。「適当」で何でも済ますやつだって…、わかってる」

 

 人の悪口を言いに追いかけてきたのかと、ぽかんとなった。

 

「俺は、お前に決めてるんだ。勝手に「適当」に逃げるなよ」

 

 怖い声でそんなことを言う。それが彼の思いをぶつけたものであるのに、じわじわ気づいた。不恰好で脅迫まがいのものだけど。

 

 のまれたようにわたしはしばし黙り、ゆっくりと頷いた。恥ずかしさが頬に上り、彼から目を逸らした。

 

「わかったよ、うるさいな…」

 

「うるさくねーよ」

 

 彼は短く、自分の妹と同居の話をいきなり進めたのは、強引だったと言う。「いろはなら、大丈夫、平気だって言ってる」

 

 彼女は優しい気持ちのいい子だ。けれども、言うべきことは変に折れず、口にするタイプだと見ていた。だから、彼が言う彼女の言葉は、あながちお兄さんに気を使ってのものではないのかもしれない。

 

 わたしだって、彼女との同居は嫌ではない。ルールを決めマナーを忘れないでいれば、快適に家族にもなれる気がする。

 

 ただ、いきなり降って湧いた話に面食らったのだ。

 

「お前の気が進まないんなら、また考えよう。ただ、余計な遠慮だけはするなよ」

 

「うん…」

 

 頬が熱い。気恥ずかしさに上気しているのだ。彼のくれた言葉は厚いこだわりを通り、じゅんと胸にしみた。

 

 ふと、やみくもに彼に甘えたい気持ちになった。何もかも面倒も厄介も、全部脇に置いて寄り添っていたい。彼への気持ちだけを抱いて…。

 

 一瞬の逃避はすぐに果てる。出来ないこと。出来ても、決して自分がそれを選ばないことを知っているから。

 

 せめて、

 

 わたしはうつむいたまま彼を見ず、額を彼の肩に押し当てた。日中の往来のこと。すぐに顔を起こした。

 

「雅姫…」

 

「じゃあね」

 

 彼の声を振り切り、背を向けた。少し歩いて走り出す。

 

 振り向いて、彼の表情を確かめる余裕がない。照れ臭さに身が焼かれそうに思えた。それでも、気持ちが弾むのだ。恥ずかしさでぎゃっと叫びたいほどなのに。

 

 彼のことが、こんなにも好き。



 急な雨に、開け放しておいた二階の窓を閉めて回った。階段を降りたところで、リビングで総司の声がした。誰かと話している様子に、耳を澄ます。

 

 電話をしているようだった。あの子がこれまで、一人で電話をかけたことはないはず。大人を真似もするだろうし。幼稚園でも生活習慣として習うのかもしれない。


 誰と?

 

 声が鮮明になるところまで、ゆっくりと進む。

 

「…パは? おばあちゃん、パパは?」

 

 それだけ聞いて、かけた先も目的もわかった。総司が電話したのは、夫がいると伝えてあった彼の実家だ。電話の相手をしているのは姑だ。

 

 夫が不在となって、一言も寂しさを口にしたことはなかった。二度ほど「どこ?」と聞かれたが、それだけだった。

 

 わたしに訊ねず、こっそりとこんな風に自分で夫の実家に電話する。幼い頭が何を考え、小さな胸が何を恋しがったのか、思いめぐらすだけで胸が痛くなる。

 

「ふうん、そうなの…」

 

 総司がそう答えたところでリビングに入り、手を差し出した。気が済んだら、受話器をちょうだいと伝える。

 

 総司はわたしを見、「ママに代わるね」と受話器をわたしに渡してくれた。子供の成長の速さと頼もしさに反して、自分の迂闊さを見せつけられたようで、ちょっとたじろいだ。

 

『総司がね、耕治がいないかって。今ね、あの子外に出てるの…』


「そうですか」

 

 近いうち伺います…とつないだ。姑は『そう』と受けただけで、何の問いも返してこない。夫からも聞き、修復の難しい夫婦仲を予想もしているのだろうか。

 

 電話を終え、総司に聞いた。「パパに会いたいの?」と。

 

 それの答えは、横のように縦のように首を振っただけ。聞いたわたしがいけない。会いたくなければ、電話などするはずもない。しかも、わたしに気を使うように隠れて。

 

 小さな手を引き寄せて、身体を胸に抱いた。

 

「ごめんね」

 

 考えもせず、口をついて出たのは詫びの言葉だった。

 

 どんな理由があるにせよ、もう後戻りはできないとしても、総司には、何の落ち度もない。夫とわたしの事情などこの子には意味がない。総司の中では、きっといつまでもたった一人のパパなのだ。

 

「はなせえ」

 

 腕の中で総司が窮屈そうに暴れ出した。けれども、抱かれることを真に嫌がっていないのか、甘えるそぶりも見せる。

 

「ごめんね」

 

 また、詫びが出る。

 

 もう少し時間が進んで、離婚が成立し、沖田さんと暮らすようになったとして…。総司はそれをどう受け止めるのだろう。

 

 受け入れてくれるのだろうか…。

 

 必要なことはすべてするつもり。総司次第では、彼と一緒に暮らすことはしばらくは叶わないかもしれない。

 

 取ってつけた嘘でもいいのに。理由さえ告げず、総司を置き去りにした無責任な夫との将来は、描けない。

 

 これからは違う人と共にありたい、という願いも。

 

 総司の親を恋しがる純な気持ちの前では、大人側の身勝手なエゴに過ぎない。この子の切なさを土台にしなければ、わたしの望む明日は来ないのだと思った。

 

 心の、事実の全てをどう飾っても。


 きれいな不倫などない。

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