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自らの家庭生活を省み、二人の口論に口を挟む余裕もない。また、不満は吐いた方がいいと思う。行き過ぎない限り、溜めずに。気づけば、ストレスの捨て場がなくなっていることもあるから。
「これだから、世間の厳しさを知らない女は…」
三枝さんの文句を千晶は慣れているのか、横を向いてスルーした。けれど、外野のわたしが反応してしまう。
決して広くもないライバルだらけの漫画業界で、彼女は懸命に生き抜いて、しかも勝ち続けてきた。バックアップがあったのは確かでも、彼が代わりにネームを練り、ペンを走らせたことなどある訳がない。その苦労が他に劣るとは絶対に言えないはず。
ふと、口をついた。
「ページ数と宣伝だけ派手なクソつまんない漫画って、あるよね。どっかのパクリすれすれの。すぐ消えてるけど」
誰に向かって言った言葉でもないが、すぐに千晶のリアクションがある。ちょっと笑いながら言う。
「ああ、よくある。いろいろ噛み合ってないんだよね。描き手本人の感覚と無理やり持ってきた「何か」とが。まわりは、これだけそろえたんだから描けるはずだって、都合よく期待して盛り上がっちゃうんだろうけど、そういう問題じゃないしね」
低くない下駄を履かせてもらってのスタートだったのは、本人も認めるところだ。でも、実力が出るのは、その後。面白いものが描けるか、そうでないか。そんな純粋な部分に水増しはきっと効かない。千晶の声にはそんな自負がにじんでいた。
そこへ、じろりと三枝さんの視線が降る。
「業界を知らない素人が…」
侮ったそれはわたしへ向けてのものだ。嫌な響きだった。
ふと、沖田さんから聞いて何となく忘れかねていたエピソードを、こんなところで思い出す。それは、副社長の三枝さんが大ヒットした千晶の漫画のキャラ画をオフィスに飾り、訪れる社員皆に拝むよう強いていたという、おかしなものだ。
耳にして、社へ莫大な利益を生んでくれた彼女への感謝にも、尊敬にもわたしには思えた。嬉々として話した沖田さんの様子もちょっと印象的だった。
そんな振る舞いをする紳士然とした三枝さんと、今の彼がマッチしない。先のエピソードだけがぶらりと胸に浮かんでしまっている。
「誰に言ってんの? 雅姫が素人の訳ないじゃない。そうやって、描き手も読者も馬鹿にしてんのね。そろそろ、その勘違いした上から目線を止めないと、次々に人が離れていくから…」
「そうか、…やっぱりか」
「何が? いい加減気づかないと、哀れだよ。いい歳してさ」
「そうだったのか、あいつか? 沖田とできてたんだな? そうか、手近で若いのに鞍替えか?」
千晶の苦言を受けた三枝さんの反応に、当の千晶もわたしも、そしてダグも驚いた。ダグは「あのアキヒコ?」とわたしへ呟いている? ちなみに「アキヒコ」とは、沖田さんの名前だ。
わたしは首を傾げ、それに応じた。三枝さん、ちょっと何言ってるか、わかんないんですけど。
「はあ?」
「最近のあれの生意気な態度も、そういう意味か…、なるほど。もっと早くに気がつくべきだった。君らはお神酒徳利のようだったからな…。まさか、子飼いにこんな裏切り方をされるとはな、わたしも落ちぶれたもんだ」
そう、苦々しく一人ごちる三枝さんを千晶は盛大に鼻で嗤った。「馬っ鹿じゃない」と。
わたしは「ははは」と上っ面で笑って流した。博識なダグは「ああ、落語のオミキドックリ」と合点している。
「仲がいいという意味でいい?」
と聞くので曖昧に頷いておく。多分ねー。わたしもその程度の認識しかない。
千晶は三枝さんの持ち出した疑惑を再度否定した。うんざりとした顔をしているのは、わたしの手前もあり、言いがかりが真に煩わしいのだろう。
三枝さんの言葉から、彼と沖田さんとの間にちょっとした衝突があったのがうかがえた。しかし、それを千晶との裏切りの根拠とするのは、かなり飛躍がある。
「沖田から「生活を改めてくれ」など、偉そうなことを言われたよ。誰に向かって言えた口だ、まったく…」
そのぼやきに、沖田さんの忠告にはこの人の病床の奥さんへの配慮があると思った。「食わせてもらったり、着せてもらったり。若い頃、しょっちゅう世話になった」…。上司の奥さんを超えたそれらの細やかな気配りは、大物政治家の家庭を出自に持つ人にすれば、ごく当たり前の周囲への目配りなのかもしれない。
身辺に余裕がない若い頃、彼が受けた奥さんからの恩恵は、ありがたく忘れがたいのだろう。だから、この三枝さんの態度がそばにいる彼の目に余るのはよくわかる気がした。
「何が悲しくて、よりによって沖田さんが、さーさん(三枝さんの愛称)のお古なんかに手を出すっつーの。頭の中、沸いてんじゃない?」
「誓って言えるのか?」
「こんなこと誓われた神様が、迷惑するって」
「わたしにだ。誓えるのか? どうだ? できるのか? …ほら、言葉を濁すのは、やましいからじゃないか?!」
三枝さんが繰り返す問いに、千晶は言葉を濁したのではない。反論するのにも飽いて、顔を背けているのだ。更に詰問を重ねる彼へ、ダグが声をかけた。
「その疑いは、どちらへ向いています?」
「君は何を…? 悪いが、通訳できるほど英語は得手じゃないんだ。フランス語なら…」
「またフランス語かよ」
と千晶がやっぱり突っ込むので、ちょっとおかしくなる。
ダグは三枝さんの言葉に首を振る。
「疑いが生まれるのは、自分の中からですよ。原因が外にあっても、そのように見えても、生み出すのは己の心です。そして、何もないところから生まれないのが疑心です。妬みや恨み、ときには悔恨さえ…。その根を張らす種々の肥しを与えたのは、自分自身です。責めがいずれにあろうとも」
「坊さんのような説教は止してくれ」
「すみません、僕は坊さんなのです」
ダグの返しに、うるさげに眉をしかめた三枝さんの表情が、瞬時、ぽかんと弛緩したものになる。「ん?」とこちらを見た千晶に「お姉ちゃんの…」と頷いておく。
「あ、そっか」
彼女はうちの家業も姉も知っているから、わかりが早い。
「千晶さんに向けた疑いが、同じだけ自分にもありませんか? 人は不思議なもので、良いものは外から与えられることを願うようです。強さも安寧も、幸福も…。己の心が不安定なとき、なだめようとしてよそからの安らぎを求めます。一番の解決策は、自分の中にちゃんとしまってあることが多いものなのに…」
「馬鹿な。原因は、千晶の方じゃないか。わたしに何があるという? 訳のわからんことを…」
「でも、あなたは信じない。彼女は「違う」とはっきり何度も否定しているのに。なぜですか?」
「口先では、何とでも言い繕える」
「では、どんな答えがほしいのです?」
「それは…」
言いよどんだ三枝さんの言葉の後を、千晶がつないだ。
「わたしが、さーさんに隠れて沖田さんとヤリまくってるって言ってほしいんでしょ? だったらどうなの? 仕事中でもアシの前でも、証券会社の営業マンの前でも。時間のないときは、電話だって使って絡み合ってます。こう言えば満足なんでしょ? 勝手に信じてれば」
淡々とすんごいことを言った後で、わたしに「ごめん」と謝る。謝ってもらうほどのことでもない。ただ、この時、出張中の彼がこっぴどいくしゃみを連発してそうで笑えるが。
千晶のあられもない発言に、ダグはやや苦笑した。やはり苦い顔の三枝さんへ言う。
「この答えも、あなたは望んではいないようですね」
「真実というものは、望む望まないにかかわらず、眼前にあるものをいうんだ。いい加減な説法もどきで、人を煙に巻くようなことは止めてくれ」
ダグは彼の言葉に素直に頷いた。
「そうですね。その通りです。おっしゃるように、目の前にあります。でも、明らかなそれをあなたは受け入れたがっていないように見えるのです。なぜでしょう?」
「だから…!」
苛立ったように、そこで彼は言葉を切った。吐息の後で、一人頷く。
「わかった。そこは信じよう。何も、そうあってほしい訳じゃない。…しかし、十年以上も続いた仲だぞ。簡単に終わりにしたいだなんて…」
こんなごくプライベートな場面にあって、邪魔でしかない部外者であるダグやわたしの存在を、既にこの人は認めてしまっている。「いい加減な説法もどき」とダグの話を切り捨てたが、その態度の変化は、鮮やかなくらいダグの言葉の効果だ。
わたし一人ではこの場で何の手助けも出来なかっただろう。ダグが来てくれたことに、今更安堵した。
「だから、理由がほしいのですね。あなたが納得できるような」
「「やり直したいだの」「一人になってみたい」だの…、そんな曖昧な逃げ口上で済まされては、堪らない。これまで色んなものを都合してきたんだ。そのために失ったものだってある」
「恩着せがましく言わないで。散々、そっちもいい目も見たでしょ? いい加減、利用し合ってたんだって事実に気づいてよね。それでも、わたしをおいしいとこどりの悪女にしたいんなら、別に構わないけど」
千晶の反論に三枝さんが応じる。感情を抑えるためか、間を置いた後で声を落としていた。
「何度も訊くが、何が望みなんだ?」
「だから…、言ってるじゃない、何度も。「一人になって」「やり直したい」んだって」
答えに、三枝さんは苛々と首を振る。どうしても彼女言い分がのめないようだ。彼女から今の生活への焦りや不安を耳にしているわたしにとって、それだけで十分に通じるものではあったが…。
長い間、仕事上でもプライベートでも彼女とパートナーとしてやってきた三枝さんには、恩知らずな理不尽さなのだろうか。
今に至る決断に、千晶からのサインがなかったはずはない。
ちょっと唇を舐めてから、口を開いた。
「「一人になりたい」というのが、全てじゃないですか。千晶が人生をそろそろ考え直したい、そう思ったっていいじゃないですか。そのためには身軽になっておきたいっていう気持ち、すごくよくわかる…」
「身軽になって「考え直す」のは、別な男のことじゃないのか? 次の利用価値のある新手でも、見つけたんだろう?」
咬みつくようにわたし向かって言うから、二の句が接げない。
「○×書館の理事にでも、目ぼしいのを見つけたのか? あそこは丁度、斜陽の部門を切り離してサブカルに力を入れ始めているからな。君なら大歓迎だろう。得意の色仕掛けを使うまでもないかもしれん」
千晶を見れば、彼の話が耳に入っているのか、そうでないのか。冷めたような表情で、やや横を向いていた。
やれ、先頃、○×書館では売れっ子の作家を集めた豪華な食事会があった。それに千晶も招かれていたはずだ。考えてみれば、その後からじゃないか、君の様子がおかしくなったのは。ちょうど符合する……。
三枝さんの話を遮り、千晶が返す。
「だったら、どうなの?」
吐息交じりの冷静な声だ。それに彼が反応する。自分で侮辱し彼女を煽っておいて、それを認められれば、裏切られたような顔になるのが不思議だった。
「金だな。わたしを見切ったのもそれが理由だろ? 我が社じゃもう上にも限度があるからな。このままわたしに付いていても先が見えたか? …まったく、度し難い女だ」
「だから?」
「…損得で歳月を精算することに、やましさはないのか?」
三枝さんの言葉は、今ここだけを聞けば、彼が正しく見える気がする。利用されて捨てられる男性が、傷き、女性へせめてもの恨みをぶつけている姿だ。
対して千晶はソファにもたれ、つんと冷めた表情で彼を見ている。真逆だ。
「他に何があるの?」
悪女さながらに言い放った彼女は、ふと立ち上がった。
「出て行って」
三枝さんにドアを指さし示した。「もう、うんざり」。
「君は…、わかっているのか?!」
すばやく彼は千晶の手を取った。それを強く振る。顔をしかめた彼女を見て、ダグが間に入った。三枝さんの手をほどかせる。
「止めましょう。とにかく今は。どれだけ彼女に強いても、あなたに分がありませんよ」
なだめるダグの声に彼は首を振りながら、それでも場に踏みとどまろうとする。千晶へ強い視線を向けた。
「これが君の答えか? こんな、こんな…」
「今は、埒があきません。また日を改め、千晶さんと話をしましょう。雅姫と僕が約束します」
ダグが諭しつつ、半ば強引に三枝さんをリビングの外へ促す。「雅姫と僕」と(勝手に)言ったからには、次回三枝さんが求めれば、またこのような席に出張ることもあるのかも。ダグは約束を守る人だ。面倒だが、千晶のことを思えば、事情を知る人が間に入るのは当然だろう。
でも、千晶が嫌がるだろうな…。
束の間、そんなことを考えていると、千晶の声がした。「…いけないの?」と聞こえた。視線は、部屋を出ようとする三枝さんへ向いている。
「お金じゃいけないの? 不倫女に他に一体何があるって言うの?」
その声に、二人が振り返った。
「何があるっていうのよ」
静かだが、強い声にはっとする。何かそれに言葉を返そうとする三枝さんを、ダグがやんわり(でも強く)ドアの向こうへ押し出す。自身も付き、玄関の外まで送り出すようだ。
ドアが閉まる。




