1
夫が家を出て、十日になる。
彼が実家にいることは、わたしは義母からの電話で知った。そんな連絡すら自分でできないのかと、電話を切った後であきれた笑いがふき出した。
彼に離婚を切り出すことは、まだできていない。千晶の家に泊まった翌日から、彼は家にいないのだ。こちらの心構えがついたときには、肝心のその相手が消えていた。
義母には電話で「大事な話があるので」と、彼からの連絡を頼んであったが、それもない。まさか伝えずにあることはないだろうが…。孫の様子を聞きもしなかった隔てのある声を思い出すと、ちょっと疑いたくもなる。
ま、いっか。
今更、どうでもいいことだ。
実家にいること。それを彼が自分で連絡してこないこと。「そんな連絡すら」できないのかとあきれたが、もしかしたらそんな意識すらないのかもしれない。それくらいに、彼の中でわたしの存在は、軽いものなのかもしれない。
でも、総司は?
親としての責任やその自覚は?
それらをとうに忘れたかのような身軽さだ。いっそ潔いほどの勝手な態度に、怒りは通り越したが、もやもやしたものはやはり残る…。
夫との話し合いはできないまま、わたしは離婚届を用意しておいた。それを、最初は寝室の奥まった場所にしまう。思い直して、彼がよくお金を抜き出すキッチンの引き出しに入れておくことにした。
彼の目につきそうな場所にそれを置くことで、覚悟を決めたはずの自分を追い込みたい気持ちがあったのかもしれない。
そして、義兄のダグからの催促もあり、とうとう沖田さんにダグを紹介することも決まった。沖田さんの快諾を伝えれば、ダグは「まずは、幸先がいいね」と喜んだ。
「どこでも出向くから」と言ってくれた沖田さんに、ダグの方も「僕の方が、自由が利くから」と返した。結局、急な出張を控えた彼側の都合に、全面に合わせてくれる形になった。
当日、約束のホテルのロビーには、わたしたちが約束にやや遅れて着いた。この日、総司は幼稚園の後で実家に連れて行っている。来客があり、出かけるのに少々手間取った。
広々としたロビーを眺め、ラウンジの一隅に彼の姿はすぐに見つかった。膝に書類を置き、読んでいた。そこへ、わたしはダグを促し歩を向ける。
ほどなく、気配に彼が顔を上げた。目が合いちょっと笑う。だが、すぐ「あれ?」といった表情になった。
沖田さんは膝の書類を足元のケースにしまいながら聞く。
「お義兄さんは?」
ダグなら隣りにいる。
それを伝えると、沖田さんはさっと顔を上げた。そこへダグが手を差し出す。「初めまして」と。
そのダグをはっきり認めたとき、彼は、確かに三秒は固まっていたようだ。いや、五秒…。
え?! といった顔でわたしを見る。もしかすると、初めてペリーの黒船を目にした江戸の人は、こんなびっくり顔をしたのかもしれない。
「ダグ。姉の旦那さんで…」
あんまりダグを人に紹介し慣れていないわたしは、そこで、ちょっと照れくさく面倒になってしまった。尻すぼみの紹介で済ませ、ダグの手を引き座ろうと促した。
腰を下ろしてからダグは、自分が我が家で父に付き寺の仕事を勉強しているのだ、とかなり謙虚な説明を補ってくれた。
「ううん、副住職として、父を助けてくれてるの」
「ああ…」
沖田さんも一瞬後には驚きも去ったようだ。ダグと今度は握手を交わした。
改めて、今度は沖田さんをダグに紹介する。くすぐったいほど恥ずかしく、ぐだぐだなものになったが。
ダグは彼らしい穏やかな態度だ。聞きたいことは聞き、話しながら沖田さんという人を冷静に客観的に推し測っているように見えた。
概ね満足できたようで、最後にはわたしへにこやかに笑顔を向けてくれる。ダグの目にも、沖田さんは『合格ライン』であったらしい。
心配はそれほどなかったつもり。だが、嫌な汗が出るシチュエーションだった。
とにかく、
ほっ。
この後、大阪行きの新幹線に乗るという沖田さんとは、ロビーで別れた。
仕方がないとはいえ、無理に時間を取ってもらったようなもので、慌ただしかったはず。
別れ際、短く「ありがとう」と言えば、彼は軽く首を振った。他愛のない、ささやかなやり取りを交わす。
「夜、電話する」
「…うん」
そんなことだけ。言葉の後に、それぞれ余韻を感じてしまうのは、わたしだけではない気がする。
急ぐ彼を見送った後で、やや虚脱したようにぼんやりとした。あんまり手を付けなかったコーヒーは、温くなってしまっていた。それを飲み、長い息をつく。
「いい人物だね」
ダグが下す彼への評価に、「ああ」とか「うん」とか適当に返した。嬉しいのに、すごく。
そのとき、わたしのバッグからケイタイが鳴った。取り出し相手を確認する。
千晶だ。
ダグに目で断り、電話に出た。
ケイタイを耳に当てた途端、彼女の声が飛び込んでくる。低く切羽詰まった震えのある声だった。
その声が、『来てほしい』と言う。
「どうしたの?」
『あの人が来るって、これから…。止めたのに』
『あの人』とは三枝さんしかいない。彼女が長く不倫の関係を続けてきた男性だ。前に会ったとき、彼とは別れると、そう決めたと、彼女は言っていた。
『あの人』が千晶を手放したがらないということも、そのとき耳にしていた…。
『様子が、普通じゃないの…』
「え?」
『怖い』
千晶には、これから向かう、と言い、電話を切った。
ダグが「何?」と問うような目をしている。その彼へ、電話の内容をざっくり且つ曖昧に伝えた。
「友達が、急用だって言っていて…。これから行かないと」
ダグとはここで別れるつもりだった。今日の労の(彼が言い出しっぺだが)礼を言い、この日、実家で見てもらっている総司のことを頼む。
ダグは相槌のように、ぱちりと瞬きをした。そして、わたしの肩をやや抱くように叩き「行こう」と促すのだ。
「え」
「不安そうだよ」
「でも…」
千晶のあれこれややこしい事情を思うと、ダグを連れて行っていいのか戸惑う。それでも、一人でこれから向かう先を思えば、確かに気は重いのだ。気持ちは急くのに。
「雅姫一人では、荷が重い」
電話での彼女の声は、ひどく切羽つまって聞こえた。心に多少怯えがあるのも事実。ダグの言う通りだ。
それでも、冗談交じりのほんの小さな意地で「そうかな?」と返してみる。
半分笑った彼の声が、
「…多分」
そんなことを言う。
「多分?」
「何でもないよ、君の友達は」
「それも多分?」
「多分」
いい加減なことを言われているのに、なぜだか彼にこうかわされると、不思議に焦りや不安が凪ぐ。
わたしは吐息と同時に彼へ頷いた。
地下鉄とタクシーを使い、千晶のマンションに着いたのは、ホテルを出てから四十分も過ぎた頃だ。
エントランスで来訪を告げれば、機嫌の悪いときのような声で、千晶が施錠を解いてくれる。
インターフォンを鳴らしたのち、部屋のドアはすぐに開けられた。わたしを見てか、ほっとしたように彼女の顔が歪んだのがわかる。一人ではなく、そばにダグの姿があることにぎょっとしたようだった。
「義兄」
わたしの紹介に次いで、ダグが彼女へ「ハイ」と笑顔を見せた。
靴を脱ぎ部屋に上がったところで、奥の方から「上げたのか?」と言った男の声がした。
リビングには一人男性がいた。スーツの上着を脱いだ姿だ。落ち着かない様子で立っている。ちょうどわたしたちが部屋に入るのと、彼がこちらへ振り返るのが重なった。
闖入者(しかもダグ付き)に、久しぶりに見る三枝さんの表情は硬かった。
「覚えてない? 雅姫だよ。『ガーベラ』のときの」
千晶の説明に三枝さんは「…ああ」と顎を引くように頷いた。不満げな顔を彼女へ向けている。わたしが誰であれ、ここへ部外者に立ち入ってほしくないのだろう。
「隣りの人は、雅姫のお義兄さん」
千晶はぶつっとそう言ったなりだ。明らかな彼の不快さに取り合わず、顔を背けた。身をよじって横を向いている。この空間から逃げるような、投げ出すような仕草だった。
こんなとき、「ご無沙汰してます」との挨拶も間が抜けている。小さく会釈だけし、彼女のそばへ行った。
隣りに腰を下ろすと、割れたグラスのかけらや倒れたフォトフレームなどが床に散っているのが目に入った。わたしたちがやって来るまで、物が飛ぶほどのいさかいがあったのがわかる。
千晶の腕を軽く叩いた。
「ありがと」
小さい声がそう言う。わたしは頷いて応え「大丈夫?」と聞いた。千晶はそれに小刻みに首を振るのだ。縦にも見え、横にも見えた。そばにいて彼女の動揺が伝わる気がし、胸が痛くなった。
そのとき、妙な音が聞こえた。
ほどなく、どこかの言葉だとわかる。三枝さんが発したそれに顔を上げると、ダグに向かい、両手を胸幅に広げ話している。わたしの乏しい語学の知識からでも、それはフランス語と知れた。
なかなか流暢に聞こえる。しかし、なぜ、フランス語…。
ちょっとぽかんと見入ってしまった。そこで、ダグがこっちは英語で返した。短い、小学生にもわかる程度の文だ。フランス人ではない、といった意味だ。
「あ」
まるで、ポケットからアマガエルでも飛び出したかのような驚き方だった。千晶が、ぼそっと「何でフランス語だよ?」と突っ込むようにこぼす。
「日本語も大丈夫です」
ダグのそれに、三枝さんは「申し訳ない」と詫び、「つい、フランス語がいいと…」と言う。わざとらしさのないそれに、再度千晶がぼそりと「インテリ自慢かよ」と突っ込んだ。
テンポのいい返しに、思わず小さい笑いが出た。千晶が肘でこっちの脇腹を突いて返した。じろりとにらんでいる。人の緊急時に何がおかしいのか、とでも言いたいのだろう。
「あんたが妙な突っ込み入れるから」
小声で言うと「もう黙っとく」との意味か、千晶は頬をちょっとふくらませ、むっつりとした顔になる。
そこに、ダグの声が降るように聞こえた。彼の声は大抵穏やかで、ややスローだ。
「日本人は、すぐ相手に合わせてやろうと考えますね。何のこだわりなく。国内ですら、外国人だとわかれば、英語やあなたのようにフランス語を使ってコミュニケーションしようとしてくれる」
いきなり始まったダグの話に、千晶がまたもや「だって、外人、最初っから英語で話しかけてくるじゃない」と突っ込みを忘れない。「もう黙っとく」のではなかったらしい。
彼女の声が聞こえたようで、ダグはちょっと耳を澄ますようにこちらへ首を傾がせた。
「そう、われわれ外国人は、どこでもまず英語でぶちまけがちです。一応共通語の認識があるから、それが手っ取り早いこともありますが、真実は、譲歩の気質が乏しいのでは、と僕は思います」
千晶はそれに和して「だよねー」とつぶやくように言う。
「自然に、当たり前に相手に譲る日本人のそんな面を、僕はとても好きです。それは、様々なことに通じる間違いない、世界でも稀な美質です。こういうことを改めて口にすると、日本人は大抵、面食らったような顔になって、恥ずかしがるんですけど」
確かに、
さらりとそんなことを言われた、この場のダグ以外の三人の日本人は、言葉を失ったようだ。共通の気恥ずかしさを抱え、しばらく沈黙が続いた。
ダグのみがしれっと涼しい顔でいる。その彼へ三枝さんは、先ほどフランス語で言っただろうことを、日本語で繰り返した。「関係のない部外者は帰ってくれ」
「わたしが呼んだの。客観的で冷静な判断のできる人を、ね」
ダグに先んじて千晶が応えた。それが癇に触ったらしい三枝さんと、ちょっとしたにらみ合い起きる。
険悪な雰囲気の中、わたしは笑いをかみ殺すためうつむいた。「わたしが呼んだ」と言い切る千晶の言葉がおかしかったから。ほんのさっきまで、ダグの「ダ」の字も知らなかった人なのに。
「…僕が妥当かはともかく、この場に第三者が入るのは賛成です」
そう言ったダグの視線は床に落ち、物が飛び交った喧嘩の気配を見とっている。それらがなかったとしても、「怖い」とはっきりした千晶のヘルプがあったのだ。簡単に出てはいけない。
「帰るのはそっちの方でしょ。…いい加減にしてほしい」
と吐き捨てた彼女の声を、すかさず三枝さんが拾った。
「何様のつもりだ。誰のお陰でご大層なマンションが手に入った?」
千晶はそっぽを向き、ちっと舌打ちをした。三枝さんのこういったセリフは、聞き飽きているのかもしれない。
「使えるだけ使ってその価値が落ちたら、別の新手を探すのか? 「まだわたしは若いから」だと、ふざけるな」
「まるで自分だけが被害者みたいに。そういう女々しいとこが、鬱陶しいんだって」
「おい、君が何の被害を受けた? 失ったものの一つでもあるのか? 偉くなったつもりだろうが、わたしの力がなければ、同じ仕事ができたと思うなよ」
千晶に詰め寄ろうとした三枝さんの肩を、ダグがやんわりと抑えた。それに止められ、彼は苛立ったように肩の手を払った。
激昂し、いつもと様子が違うとはいえ、こういった内容をぶつけられれば、彼女も堪らないだろう。うかがえば、表情にはうんざりとした色が浮かんでいる。今に始まったことでもないようだった。別れ話が出るたびに、こんな調子であったのかもしれない。
長年裏切られ続けてきた彼の妻である人が、病床にあることを思い出し、何とも苦々しい気持ちになる。知りたくなかった三枝さんの背景だった。
「契約契約で縛り上げて、自由のない中、そっちの言い値で長らく描かせてもらったね。その薄っい報酬が、売り上げや内容に本当に見合ってたのか疑問だけどね。今の若手だったら、とっくに逃げてたと思うよ、よそに」
仕事に話が及んでは、やはり黙ってもいられないのか、千晶も反論する。先日聞いた、新人の追い上げ等諸々の苛々も交じるのだろう。その声は痛烈だった。




