9
千晶が帰ってきた。
三枝さんと連絡がつき、沖田さんが帰って、三十分ほど後のことだ。
「ごめん、遅くなって」
彼女はコンビニの買い物袋を提げていた。その中からアイスクリームのカップを出し「食べる?」と聞く。
「うん」
不意の外出が、ちょっと気まずいように、千晶は黙々とスプーンを動かしている。
「誰に」「どこで」会っていたといった、報告めいたものは口にしない。きっと三枝さんと…、と想像はついたが、わたしもたずねなかった。
アイスクリームをいじくりながら、わたしは沖田さんが来たことを告げた。彼女の家であり、隠すのもおかしい。
「用があったみたい。ごめん、部屋に上がってもらっちゃって…」
千晶ははっとしたようにわたし見た。すぐにうつむき、ぐりぐりとアイスクリームをスプーンでかき出している。
短いが、重さを感じる間の後で、彼女がぽつりと、
「じゃあ、聞いたよね…?」
何を指すのか。彼から耳にした話が、一瞬わっと頭の中に舞う。それが静まるのをちょっとだけ待ち、答えた。
「…うん、まあ」
それに「びっくりした」を付け足した。本人を前にしても、まだ驚きが抜け切らないのだ。
「だよね」と返し、千晶はくすっと笑う。
「沖田さん、何て?」
「もう長いって、言ってた」
「はは…、長くなるね、もう」
そこで、彼女が「さっき、あの人と一緒にいたの」と打ち明けた。
「沖田さんが来たの、あの人に用があったんだよ。会ってるとき、いつもケイタイ切るから…」
その理由も聞いてはいたが言及せずに、ふうんとのみ受けた。千晶が「あの人」とのことを話したいのかそうでないのか、まだ見えなかったからだ。
そして、身内に近いとはいえ、第三者の沖田さんではなく彼女の口からそれらについて知りたい気持ちがあった。
打ち明ける気持ちがないのなら、こじ開けるように聞き出そうとは思わない。誰にも、敢えて話す気になれない事柄はあるだろう。わたしだって、夫とどのように今の状況に至ったかは、きっと言葉にしにくい…。
ひっついたの、別れるの。つまるところ、恋の話に違いない。うきうきわくわく告白し合った頃は、もう遠い。中身の色合いも違い、その深刻さも深いのだ。
ややもてあますようにアイスクリームを食べる彼女を見、お互い年を食ったものだと、しみじみ思う。
その、どれほどか後だ。
「別れようと思って…」
「え」
ぽつりとした彼女の声に、わたしは顔を上げた。
「そのことを電話で言ったら、どうしても会ってほしいからって…」
千晶は立ち上がり、部屋を出て行った。部屋着に着替えて戻ってくると、キッチンからワインのボトルを取り出した。それを手に「しらふでする話じゃないかもね」とちょっと笑い、床に腰を下ろす。
それがどんな内容であれ、話そうとしてくれることが嬉しかった。
二つのグラスにワインを注ぐ彼女へ、わたしは「何で?」と聞いていた。少し前、沖田さんから二人の関係を初めて聞き、違和感に信じられない思いでいたというのに。
そこで、千晶は自ら三枝さんとの始まりを話し出した。ほぼ沖田さんの話と重なるそれに、わたしはやはり相槌も打てず、静かに聞いた。
「…あの人を、利用してやろうと思った」
告白は自嘲的ながら、彼女の様子にうなだれる気配がない。それは、ここまでのきっかけはともかく、手がけてきた仕事に対して、揺るがない誇りや自負があるからだろう。そこがやはり、必ずわたしの目にまぶしくほっとする部分でもある。
千晶の計画は当たり、意図した成功を収めた。思いがけず長引いたあの人とのつき合いをそろそろ清算したくなったのか…。
「今終わりにしなかったら、きっと、ずるずるといつまでも続いていくと思う。あと何年か、あの人に女が必要にならなくなるまで。その頃、わたし、一体いくつになってるんだろう、何が残るんだろう…。それを考えたら、怖くなった。…もう若くなんか、ないのに」
おそらく、妻の座にある人が耳にすれば憤懣やる方ない言葉だろう。利用するだけして、要らなくなったら、自分の身の可愛さのため男を捨てようとする…。
千晶に甘いわたしですら、喉の奥に小さな失笑がわきそうになった。けれども、それが言葉になることはない。彼女の嘆くようなつぶやきを聞いたからだ。
「どうにもならない関係なのに…」
そのささやきに似た声に、千晶の本音が聞こえた気がする。
千晶は好きなんだ。手に入らない「あの人」が。
始まりはどうあれ。既に十分な自活力のある女が、好きでもない男にいつまでも縛られる訳がない。また、同じ非のある相手に不倫の弱みを感じるいわれもないはず。
ただ「好き」にもあれこれある…。たとえば情。愛情に似た厄介な感情。
「…情じゃ、ないの?」
わたしの問いに、千晶はちょっと笑う。首を振りながらわからないと答えた。もうずっとあの人しか知らないから、と。
聞き手のわたしが、ちょっとため息をついたりする。若い女が狡く立ち回り、三枝さんを籠絡した図に、単純に見える。
でも、千晶だって手にしたものの代償に、費やし捧げた長い年月があるのだ。「もう若くなんか、ないのに」。千晶がもらした言葉が、ふっと重く耳によみがえるようだ。
そうだね、もう若くない。
「三枝さんは、何て?」
「別れたくないって、そればっかり。わたしも十分勝手だけど、男って、かなり身勝手だと思う。離婚する気もないのに、かといってわたしも手放したくないって、どういうの?」
千晶はがぶりとワインを口に含む。そこに苛立ちとあきらめがにじむ。この問題は、長く二人の間で、未解決のままあったのだろう。
ふうと息をつき、彼女はごめんと言った。
「久しぶりに会ったのに、重い話して…。誰にも話せなかったから、これまで」
「ううん、ちっとも。会わない間、千晶がどうしてたか知りたいし」
「…沖田さんに言えば、叱られるだけだし」
どう言って彼が彼女を叱るのか、知りたい気がしたが、笑って流しておく。
別れたくないと言う三枝さんのことをどうするつもりなのか、訊いてみる。
「もう会わなきゃいいだけの話だし…」
千晶の答えはさらりとしていた。関係を終わりにするのは、口だけのことではなく彼女の中ではもう出来上がった未来なのかもしれない。
「手に入らないのに」と嘆くのなら、その方がいい。若くはないが、別のこれからを選ぶにはまだまだ遅くない。三枝さんが、千晶の幸せにどんな希望をくれるというのか。彼女を選びもしないくせに。頷きながら、彼女のためにそう思った。
そして、決して自分から答えを出さない男を、狡い、と思った。
「奥さんがきっつい人らしいよ…。あの人、見初められたらしいんだけど、名門出のお嬢様で、頭が上がらないみたい。それで、わたしみたいなので都合よく息抜きがしたいのかもね」
千晶の言う「きっつい」奥さんが、この夜緊急入院したという話は、口にしなかった。のち、知ることになろうが、今知る必要はないだろうから。
彼女はそこで黙り、うつむきながら指先をもてあそんだ後で、ふと顔を上げた。
「あ、ねえ雅姫」
その後に続くのは、意外なことに仕事の依頼だった。知り合いの大学の先生が、本を出す際の挿絵を頼まれたのだという。迷って返事は保留していたらしいが、次作の準備もあり、やはりちょっと余裕がないらしい。
「どうしてもわたし、っていうんじゃなくて、雰囲気のいい絵だったらそれでいいみたい。本は難しいものじゃなくて、エッセイに近いらしいし」
興味があれば先方に伝える、と彼女は言ってくれた。ワインをちびちび飲みながら、彼女の話に頷く。ありがたい話で、わたしでいいのならぜひ、と答えた。
千晶はわたしのために口をきいてくれたのじゃないかと思う。忙しいのは事実だろうが、人気漫画家の彼女を目当てに仕事の依頼があったのに、無名の同人作家で、すんなりその代替が効くのはおかしい。
ともかくありがたい、嬉しい。彼女の思いやりも、手がけられる仕事が増えることも、だ。
詳しい話はまた、メールで送る、と彼女は請け合った。
「ありがと」
「そうそう、沖田さんとはどうなの?」
いきなりの問いに、口に含んだワインをふきそうになった。何とか堪え、千晶を見る。
しれっとした顔でグラスを持つその様子に、とうの前から知っていたのがうかがえた。
もう、沖田さん、ぺらぺらと…。
酔いもそれほどなのに、瞬時に頬が火照る。
あのオッサン、ぺらぺらと…。
馬鹿。
恥ずかしさに千晶から視線を逸らせ、心の中で彼を野次ってやる。
「何言ったの、あの人?」
「ははは。そんな、ぶーたれた声出さなくても。沖田さんから聞いたんじゃないよ」
「え?」
じゃあ、誰から聞くというのか。実家の義兄のダグを思い浮かべたが、彼女とは面識がない。
「わかってたよ、前から」
意味がわからない。彼が言わなきゃ、きっと千晶には知りようがないのだ。納得がいかない。そのわたしへ彼女は、更にこっ恥ずかしさに身悶えるようなことを言い放つ。
「沖田さんが雅姫を好きだなんて、昔からのことじゃない。わかるよ、あんなの見てれば」
気づかないのは当のあんただけ、と彼女はつなぐ。
「ちょっと気の毒なくらいだったよ。雅姫、全然意識してなかったもんね。あの頃は、イベントとくれば、まず鯖寿司オンリーの…」
鯖寿司…。
そこまで、オンリーだった訳では…。
『ガーベラ』の解散後は、千晶の本格デビュー、それにわたしの結婚と続いた。環境の変化に、自然消滅したように沖田さんからわたしの名を聞くことは、稀になっていったという。
それが、千晶はなぜ、気づいたのか。
そこがわからない。彼女はわたしへちょっと笑いかけた。わたしが同人を再開したことを彼女が知ったのは、彼の知らせだったという。
「大した用もないのに、それのためにわざわざ電話してきてさ。ああ、この人まだ雅姫に未練たっらたらだな、って、そのとき悟った」
「確信したのが…」と千晶は、にんまりと笑う。
わたしは返事もせず、もじもじとグラスの脚をいじっていた。たとえるなら、気持ちの純な部分だけで描いた『心のキャンバス』なるものがあるとして、それを添削されるような心地だった。それはそれは、恥ずかしい。
「この間のイベントで撮った写メ、「浴衣の雅姫だよ」ってちらつかせたら、目の色が変わるんだもん。「あ、何かあるな」って気づいたのは、そこで。まあ、武士の情けってやつ? 敢えて何も、突っ込まないでおいたけど」
ふふふ、と千晶は楽しげに笑った。
「ほしいって言うから、画像あげたよ」
何が「武士の情け」だ。よく知る人の恋愛沙汰は、さぞ楽しいだろう。わたしだって、意外さに打ちのめされながら、彼女の告白には興味津々だった。
頬が熱い。
そこまで悟られているのなら、隠すのも水臭い。フェアじゃないだろう。
端折りつつも、再会からのことを打ち明けた。千晶はうんうん頷き聞いてくれ、最後には、
「運命だね、それ」
と結論づける。
「そんな大げさな。…まあ、いろはちゃんが、沖田さんの妹さんだったのは、びっくりしたけど…」
「だって『ガーベラ』から何年? 十三年だよ。そんな風なめぐり合わせなんだって、二人は。やっぱり運命だよ」
そんな「運命」を強調されても…。
照れつつ苦笑しながら、再会してから沖田さんがわたしへ向けてくれた、優しさの一つ一つを胸に思い起こしている。それらに似たものを、きっとわたしは、昔も彼からもらっていたのだろう。
気づけなかった当時の自分を、むやみに悔いはしないけれど。しみじみと彼のくれたそれらを心にしまうことが、不思議だと感じた。
こんなに時間が経っているのに…。
こんなに時間が経っているからこそ、なのかもしれない。
ふと、面白がる様子の千晶の声が一段落する。
「家庭どうするの? わたしが言うのも何だけど、面倒くさいよ、不倫っていろいろ…」
「別れるつもり…」
そう口にし、まだ夫に話してもいない現実が、ずんと肩に重くのしかかる。ろくに会話もない状況だ。彼が、わたしの切り出す内容にどう反応するか、ちょっと見当がつかない。渋るのか、怒り出すのか、それとも案外あっさりと認めてくれるのか…。
リストラに遭って以来の、夫の様々な面に対する自分とのずれにも触れた。
「そう」
彼女は頷いて応じた。その彼女へ、わたしは両の手を頬にあてがい、どこかに引っかかっていたこだわりを言葉にしていた。
「沖田さんと会わなかったら、離婚まで考えたかな…」
多分、わたしは夫の態度に焦れ、いらだちつつも共に暮らし、同人を続け、子供を育てていたのではないか、それなりに楽しみを見出しながら。きっと。
「だから?」と問うような、千晶の視線に会う。
だから、
「単に、自分の…、エゴだよね。はっきり言って鬱陶しい今の環境から、一人になりたいとか、もっと漫画に集中したいとか、ついでに沖田さんとか…」
「ついでに? そこ?」
と、千晶が突っ込んで笑う。
「気に入らなくなった夫から、新たな沖田さんへ乗り換えようとしているだけ」。そんな身勝手な自分のイメージが、頭にこびりついてしまっているのだ。
ぽんと、頭に手が置かれた。千晶の手だ。幾多の名作と莫大な富を生み出したそれが、わたしの髪をくしゃっとかき混ぜるようになぜた。
「気にするなって、言っても、雅姫は気にするよね。根が真面目だもん」
「真面目じゃないよ。こだわっても、それでもわたし旦那と離婚しようとしてるのに…」
以前のダグの指摘に自分のエゴに気づいた。それを何とか正当化しようとする、これは安っぽいごまかしなんじゃないだろうか。「こんなに、わたしは気にしている」「これほど、わたしは罪悪感を抱いている」のだ、と。
これを言えば、また千晶は「真面目だから」と返すだろう。そう思い口にしなかった。
でも、本当に真面目な人は、夫以外の男になびかないはず。気持ちが揺らいでもどこかでブレーキをかけるはずだ。わたしにはそのブレーキすらなかった。
「女側から切り出す離婚って、大抵男がいるらしい…。社会学の先生が、そんなこと言ってた。それが、決断のはずみや強みになるんだろうって」
「さっきの本の挿絵の先生」と、千晶は言い添えた。
「ふうん」
「守るものや、持ってるものは、女の方が多いだろうに…。潔いよね」
大した相槌も打てずにいるわたしへ、千晶の独り言めいた言葉が落ちてくる。それは、わたしの件を通して彼女自身についての言葉のように聞こえた。
不安にまみれるものの離婚の気持ちを固めたわたしを前に、ずるずると彼女との関係に未練を持つ「あの人」は、千晶の中にどう浮かび上がるのだろうか。どんな形であれ、決して短くない時間を共有した相手なのだ。
「そっか、沖田さんか…」
「面白がってる」
「面白いよ。あり得ないって思ってた展開だしね。人生って、わからないね」
「そっちこそ。わたしだって言いたいよ」
「そりゃそうだ」
顔を見合わせて笑う。その笑みはなかなか消えなかった。
笑いのしまいに、視界に入った壁に飾られた『ガーベラ』の同人誌の表紙絵に触れた。千晶は絵に振り返りしばらく目を置いたままでいる。
時間が経った。十三年はあの頃のわたしたちには、驚くほど長く、そして遠い先のことだったはず。
それが、経てしまえばまるでびゅんと通り抜けたかのような速さだ。気づけば別の場所に立っているのだ。それぞれ、望んだ位置に似たようできっとそうでないどこかに…。
「早いね」
「…うん」
互いに持つものは違う。なのに、それぞれ懸命に何かを手放そうとしている。
「あの頃が、一番楽しかった気がする。まっすぐで、前だけ見て、いいことしか考えられなかった」
「ははは、そうそう、こっちに都合のいいことだけね」
昔話が楽しいのは、振り返る過去は美しくまぶしいから。そのきらめきは、今に相反しているのじゃないかとも思う。だから、ちょっと危ない。
当時のわたしたちに戻れるとして、そのわたしたちが、一度目とは別な選択をできるのかどうかは、わからない。そして、当時には帰れないわたしたちが、互いに今持つものを、簡単に手放すことも、おそらくできないだろう。
わたしには総司の存在があり、千晶には築いた大きな成功がある。形も中身も大きく違うが、わたしたちが会わずにいた間、それぞれが願い懸命に作り上げた、自分自身の一部なのだから。
それがわかっていながら、過去を懐かしみ慈しむのだ。「戻りたいね」「よかったね、昔は」と。とめどなくとりとめなく繰り返す。
それは、今を生きるしかないわたしたちのため息のような、息継ぎのような。ほんの少しの休息なのだろうか。生きにくさを感じる日々にふともらす、疲れのにじんだため息であり、嘆きの吐息なのかもしれない…。
それでも笑って、
折り合いをつけ、
何とかしていくのだ。
中身のあるもの、そうでないもの。軽い笑いも沈黙もある。それらはなかなか尽きなかった。
二人向き合い他愛のない話題を共有する時間こそに、惜しいような愛しさがあった。




