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ネタ元があったおかげで原稿ははかどった。
咲夜さんにも心配かけないよう、締め切りに間に合う旨を報告した。その直後問題が起こった。
プリンターが壊れた。
鉛筆描きの原稿でせめて読みやすいようにと、ふきだしにはるセリフはワード打ちしていた。それが二枚ほど刷った後で吸紙したまま動かない。
夫に見てもらうが「古いからな」と早々にさじを投げられた。確かに古い。幾度もの引越しのたびに梱包の思い出がある品だった。
修理を頼もうにも新しいものを買うにも、時間が遅過ぎた。少なくとも今夜セリフを刷るくらいは終えておかないと、明後日の締め切りまでにあまりに余裕がない。
本当は今夜中に刷ったセリフを切り整理し、貼れる分は貼る予定でいた。だからインクも買い置きしてあったのに…。
目の前が暗然とした。
咲夜さんに頼んでプリンターを拝借しようかと思った。さすがに夜分お邪魔するには気が引けた。またお宅もお宅だし、距離もある…。アンさんにしてもしかりだ。
そこで千晶が浮かんだ。昔はこんなこと互いにしょっちゅうだった。咲夜さんやアンさんよりは頼むハードルが低い。夜分に急で失礼だが…。
忙しいだろうか、やっぱり邪魔になるだろうか…。
でも、聞くだけ聞いてみても…、
駄目なら駄目でいい。
ケイタイを取り出し、キッチンへ向かいながらメモリーを探った。夫がパソコンを使っていいか、と聞いてくる。プリンターが使えないなら占領していてもしょうがない。コールボタンにタップしながら「うん」と返した。
幾度かのコールが不意に切れた。通話が始まる。
彼女の声を待つ前に、
「ごめんね、遅くに。千晶、今大丈夫?」
急いで聞いた。
小さな咳払いが返る。
続く笑いを含んだ声にぎょっとなった。
千晶ではない。
『おい、雅姫、誰にかけてる?』
沖田さん?!
わたしは返事もせず、耳からケイタイを離し表示を確認する。間違って沖田さんにかけていた。
わたしは登録の表記をカタカナに変えてあった。幼稚園のママたちを「トウヤ君ママ」などと入れておくと読み間違えがないから。千晶の本名は憶良千晶だ。そして沖田さんはオキタアキヒコ…。
紛らわしいのに、慌ててたから。
あちゃ。
心の声がもれていたようだ。
『何が「あちゃ」だ。大先生なら取材で福岡だぞ』
取材旅行にお供する千晶の担当者に昨日会ったのだという。『今頃は社の金で水炊き食って、焼酎で酔っ払ってる頃だろ、ははは』などとのんきに教えてくれた。
「ええ?! そうなの…」
『どうした? お前が千晶に連絡するなて珍しいな。何か約束でもあったのか?』
「約束はしてないけど…、ちょっとね…」
『何だよ? 言えよ』
「… うん……」
言ってもしょうがないと知りつつ、八方塞がりの愚痴めいて現状を伝えた。言った後で、
「ああ、沖田さんになんか言っても仕方ないんだけどね。もう…」
と、昔のような生意気がぽろりと口をついた。
沖田さんはやはり昔のようにあっさり流し、意外なことを言った。
『持って来いよ、うちで印刷すればいいだろ?』
へ?
『「へ?」じゃねえよ。急ぐんだろ? USBにでも入れて持って来いよ』
驚きの後で返事に詰まった。
それは迷うからだ。
彼の家なら一度お邪魔したことがあり、場所もわかる。今なら電車もあり、行くのは可能だ。そして、セリフを刷らせてもらえれば、今非常に助かる…。
ちらりと壁の時計を見る。もう九時過ぎだ。おいそれと人の家にお邪魔できる時間じゃないだろう。
どうしよう。
迷うくせに。ためらいもせず『持って来いよ』と言ってくれた、変わらない優しさと気安さが嬉しい。
嬉しかった。
「じゃあ行く」
電話を切った後で、夫にこれから出かけることを告げた。「え?」といぶかしがる。当然の反応だ。バックに必要なものを詰めながら、
「ごめんね。今夜中に印刷できないと本が間に合わないの。友達がプリンター使わせてくれるって言うから…」
「ふうん」
「次のイベントで出す本なの。前に言ったよね? ジャンルのすごい大手と組んで作ってるから、わたしのせいで落とせないんだ。大きなイベントだし絶対売れるよ。今までとはケタ違いに!」
「ふうん…」
いつもなら口にすることはない同人関係の期待を込めたよもやまだ。同人に疎い夫が理解しているかは怪しい。ほら、ぽかんとした顔でわたしを眺めている。
矢継ぎ早にしゃべったのは、必要とはいえ後ろめたいからだ。
主婦のわたしが夜更けに家を空けることだけではない。
もう一つの理由が頭をよぎり、頬をはけでなぞるようなくすぐったさが走る。
沖田さんの家だからだ。
「用が済んだらすぐに帰るから」
総司をよろしくね、と頼み家を出た。園の外遊びで疲れてか、今夜は早めに寝ていた。
ぬるい夜風に頬をなぶらせながら、自転車で駅に向かった。
手ぶらもまずいな、と駅前にあるチェーンのドーナツショップでドーナツを買った。沖田さんは好かないかもしれないが、妹のいろはちゃんなら食べてくれそうだ。
向かう途中、彼から『迎えに行ってやる』と電話があった。場所もわかるし、その最寄りの駅から彼らのマンションはほど近い。
「いいよ、すぐだから」
断ったのに、なのに、
『駅の前で待ってろ、動くな。行ってやるから』
ときにわたしへ向けるあのちょっと有無を言わなさい口調だ。『夜中に危ないから』という。
「…うん、ありがとう」
きっといろはちゃんにもそうなのだろう。電話を切って思った。
電車を下り改札を抜けた。ロータリーの辺りは以前昼の来た印象と違い、閑散とし暗かった。駅前の商店も今の時刻に開けている店はちょと目につかない。
迎えに来てもらってよかったかも、と安堵する。ここから一人夜道を行くのはやや心細い。
モニュメントのそばで待ってすぐだ。見覚えのある人が手を挙げ、こちらへ走ってくる。
あ。
その光景がどうしてだろう、変にまぶしい。
こくんと胸が鳴った。
Tシャツにハーフパンツの沖田さんは、停めた車に乗るように促した。
何となく照れくさい。
示された助手席に乗り込んですぐ、持ってきたドーナツの箱に触れた。
「こんなのしかなかった、夜だから。でも、いろはちゃん好きだよね?」
「あ、いろはいない。あいつ…」
有給休暇を取って友人と大阪の同人イベントに「遠征している」という。
はあ?!
わたしの驚きをどうとったのか。彼は首をひなりながら言う。
「いい年頃の若い子がなんだか…。まあ、ろくでもない男につかまるよりましか」
はあ?!
「心配すんな、俺が食うから、それ」
そんなこと、これっぽっちも心配していません。
二人っきりなの?!
場所の雰囲気や色合いはそのときどきで違う。
時刻や人の密度、こちらの心の持ちようで、見えてくる景色はうんと違って感じられる。
以前お邪魔したときと何が変わっている訳でもない。同じように整って生活の温かみが伝わる、そんなお宅だ。
沖田さんはわたしを中に招じ入れると、私室へ引っ込んだ。ほどなくノートパソコンを手に戻って来る。
「貸してみろ」
と手のひらを差し出した。持ってきたセリフの入ったUSBをぽんとのせた。彼はそこからファイルを開き印刷を始めた。
軽快に印刷音が流れ出す。よそのお宅の元気なプリンターがわたしの目にまぶしい。しばらく立ったまま眺めてしまった。
「そんなにかかんないだろ」
沖田さんに促され、ソファに掛けたものの手持ち無沙汰だ。何となく焦った気分になる。会話の種を探して視線をさまよわせた。
ふとローテーブルの上に液体の入ったスプレーに目が落ちた。アイロン用の霧吹きに見える。
わたしの視線に沖田さんが答えた。
「液肥だよ」
ベランダ園芸の液体肥料だという。さっきそれを外で撒いているときわたしからの電話が鳴ったのだ、と言った。
「夜に撒くものなの?」
「夜しか暇がないからな」
見てみるか、と聞く。彼もわたしを相手に間を持て余しているのだろう。興味がない訳でもないのでうんと頷いた。
リビングの窓を開けると夜風がカーテンのレースを揺らした。向こうにガラス張りの温室が設けられている。広いバルコニーの半分ほども使ったそこには土が入り、きれいな菜園になっていた。ツヤのいいナスがなっているのが見える。
先日彼から送ってもらった野菜がどれも新鮮で、大層おいしかったのを思い出した。改めてお礼を言う。
「売ってるのと違うんだね、びっくりした」
たまに実家からもお流れで野菜をもらうが、そんなに意識してこなかった。
「だろ? やっぱり手間をかける意味があるんじゃないかと思う」
いい趣味だと思った。
何かを生み出し味わい、身近な人と分かち合う…。沖田さんは豊かな人なのだろう。
店先ではまず野菜の値段に目がいくわたしとは、月とすっぽんだ。
「そうだね」
夫も日がなテレビやオンラインゲームにふけるばかりではなく、こういった手まめさを見せてくれていたら…。とちょっと歯がゆくなる。総司にその世話や収穫を見せてやるのはきっと成長にいい。そんな夫はわたしの目に今とは違って映るのだろう、多分…。
身勝手にそんなことを思った。そのもどかしい感情は葉がしなびるように消えていく。
口先やこうして欲しいと思うだけでは、人はそのように動いてはくれない。
夫はわたしではないのだから。
そんな当たり前の事実がようやく頭にしみたのは、あきれたことに、ここ最近のこと。まるで効きもしない念力でも使うようだった。こちらの意に沿うように動いてくれないことに、ただいらだち、焦れていた。
人は変えられない。
願うだけでは、望むだけでは、決して変わらない。
こんな気づきは、ぎゅっとつかんでいた何かを手放すのに似て、あきらめにも似ている。
でも、
それは見たくない現実から視線を逸らしているのと、どこが違うのだろう…。
「ほら」
沖田さんが目の前でナスをもいだ。それをわたしの手に載せてくれる。みっしりと重い。これ一個で三人分の小鉢ものになる。
「ありがとう」
部屋に戻ると彼がテーブルのドーナツに手を伸ばした。「腹が減った」と、かじりついている。
「あれ、まさかご飯食べてないの?」
「昼が遅くて食べ損ねた」
ドーナツを咀嚼する彼へ、ふと「何か作ろうか?」などと口にしていた。
「簡単なものなら、冷蔵庫のもので何か…」
もらったナスを手の中で転がしながら言う。そのわたしを、沖田さんが犬が喋り出したかのような目で見た。
失礼な。これでも主婦だ。
「何? 大人と子供が飢えない程度のものは毎日作ってるってば」
「…いいのか?」
真剣に聞くからおかしい。大したものは作れないけどと前置きし、冷蔵庫を見せてもらう。
「昔、お前におにぎりもらったな」
「へえ、そうだっけ?」
「具のないやつ…」
「塩むすびだよ、きっとそれ」
「旨かったような気がする、気だけな」
「ははは、それはそれは」
冷凍のご飯があるから、あり合わせで和風のチャーハンにする。せっかくだから、さっきのナスを田楽にして食べてもらおうと考えた。
料理に取りかかる頃、プリンターが止まった。カウンター式のキッチンからのぞくと、沖田さんが紙の束を手に持っている。
目が合う。
「切っといてやろうか?」
「いいの? 助かる」
打ち出したセリフを切り取っていく作業は、なかなかに面倒だ。
切った後も貼り易いように、と原稿一ページに対して無駄が出ても一枚紙を使うように入力してある。しかし、せっかく切ってもらっても、切ったセリフがバラバラになったりすれば、厄介だ…。
気になって料理をしながら目をやれば、彼は切ったものをきちんとページごとに分け、それをクリップで留めてくれている。へえ、と感心した。仕事で同人誌に関わることも多かったから、当たり前の所作なのだろう。
口に出すまでもなく、気づくよりも前に。こちらの望むものをこんな風にさらりとわたしの前に差し出してくれる…。
目が離せない気がした。
再会するまではおよそ気づかなかった沖田さんという人の、男らしい細やかさだとか優しさ。それらにわたしは幾つ出会っただろうか。すぐにでもほろほろと拾い上げることができる。
心の中でわめくように願いをぶつけてきた夫ではなく。
なぜ、沖田さんには易くわたしの願いが届くのだろう。
何だかな…。
鼻の奥がつんと辛くなる。




