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それほど、だったあなたに  作者: 帆々
ため息と吐息の違い

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4

 

 咲夜さんのお宅からの帰路、疲れたのか総司は眠ってしまっていた。


 四歳にもなればしっかり重い。厚意でアンさんのリムジーンで家まで送ってもらえなければ、難儀をしたはずだ。


 熟睡し切っている総司を抱え、ポーチから玄関まで運ぶのもひと汗かいた。むっとする屋内に人の気配は感じられない。朝用意したスーツに合わせた夫の革靴はまだなかった。


 リビングの床にタオルを敷き、その上に総司を寝かせた。起きないかと鼻をちょんとつまんでみる。うるさそうに顔を振るだけだ。小一時間もすれば目も覚めるだろう。


 外に出しっぱなしの洗濯物を取り込み、畳む。時計を見れば六時に近い。ケイタイをチェックするが連絡は入っていなかった。夫は遅くなるのだろうか。


 日課で晩ご飯の献立に迷いながらキッチンに立った。サラダと冷奴に…、冷蔵庫の中身を思い出しながら食器棚の引き出しを開けた。二つあるそこは一つはカトラリー入れに使い、もう片方はレシートや領収書やらの一時置きに使っていた。


 財布から抜いたレシートをその中に混ぜようとして、中の封筒の位置がおかしいことに気づく。封筒には直近のイベントの売上金が入れてあった。


 とりあえず中を見る。数枚あった一万円札が残らず消えていた。抜いたのは夫しかいない。


 ここに入れておくことを彼は知らないはずだった。余っているお金ではない。やっとそれらしい収入が出て、次回のイベントの費用と諸々の支払い分のために避けておいた分だ。


 隠していたのでも、へそくりのつもりもないが…。


「言ってくれたらいいのに」


 思わず愚痴が出た。


「手持ちがないから、もらうな」でいい。細かな理由など要らない。抜く前に一言断りが欲しかった。タイミングが悪かったのかもしれないが…。


 気分は一瞬で曇った。


 そこで目が覚めた総司が不意にぐずり出す。声をかけて相手をしてやりながら、ばたばたと食事の準備をこなした。うっとうしい気分はともかく、目の前の忙しさにかまけてみる。


 そう、今日はためになる話も聞けた。イベント以外での別な同人誌の販売手段のことだ。書店での委託販売とネットで通販を募るやり方だそう。


 咲夜さんは「通販は発送処理が面倒で」と書店委託を選び、すでに試みているという。今度出すアンソロ本もこの方法で大量に販売予定なのだとか。


 一方、アンさんは長らく通販を続けているらしい。「面倒なことなんかないわよ。咲夜さん、あなた、雑なだけじゃない?」。「申し込みの際に感想も寄せてもらえることも多いし、楽しい」とのこと。


 メリットデメリットはどちらもあるよう。あとは個人の好みなのだろう。


 委託・通販の販路は『ガーベラ』の昔からあって、存在はおぼろに知っていた。けれど、あの頃はとにかくイベントに参加するのが楽しくて、それが描く目的の一つでもあった。


 そして、沖田さんの出版社からいずれも止められていた。『ガーベラ』はいわゆる先物買いされていたから。


「確定申告も知らないお前らが欲をかいて勝手に儲けに走るなよ。追徴課税とうちへの違約金で相当痛い目に遭うからな」などと脅されていた。


「ふうん」「はいはい」と偉そうに頷いて従っていた。しかし、縛られながらも世間知らずのあの頃、千晶と二人、大人である沖田さんたちに守られていたのだ、と今頃になって感じることができる。


 今は縛るものもなく自由だ。脱税の何たるかも知る。細かな作業に時間と神経を使いたくないわたしは、書店委託に気持ちが傾いていた…。


 実際的なことを手と目を動かしながら思ううち、気持ちのもやもわずかに晴れたように感じる。


 昔とは違う。


 誰も守ってくれないどころか、弱くて小さな守るべき対象を抱えている。


「しっかりしてくれよ」。


 以前、夫に投げるように言われて腹を立てた言葉がよみがえった。責任を一方的に放りつけられたようで、今も面白くはない。でも、それで互いに投げ合っていればいいいというものではないだろう。


 不愉快であっても、理不尽に思えても。


 いつか、重い思いと感じていた肩の荷がふっと軽くなる。そのうちきっとあるだろうから。


 どれほど先なのか、いつまで耐えていればいいのか。


 見えないけれど…。わからないけれど…。


「しっかりしないと」


 心のつぶやきが声になってこぼれた。「しっかりしないと」。頑張ろうと、元気を出そうと繰り返しつぶやくのに。


 どうしてだろう、


 ほんのり気持ちが切ない。


 どうしてだろう。



 その電話の着信にはお風呂上がりに気づいた。


 咲夜さんからのものだ。彼女からはこの日の午前に、アンソロ本の原稿の進み具合について問い合わせがあったばかりだ。その返事も済んでいた。


 着信は三度も続けて入っている。いろはちゃん同様やり取りはSNSが多く、電話は非常に珍しい。急ぎの用は間違いなさそうだ。十時を回り、個人のケイタイとはいえ遠慮しつつコールしてみた。


 ワンコールですぐ出た。


『姐さん!』


 こっちが何をいうよりも早く、泣きそうな声が耳に飛び込んできた。


 年もこっちがずっと上だし、咲夜さんの口調にはときに甘えが混じることもあった。でも、こんな悲鳴に近いものを聞いたことはない。


『やられました!』


「何のこと?」


 彼女のお家には威勢のいい「若い衆」が何人もいた。輩のカチコミか!? と妄想が走ったが、まさか。稼業が違う。あり得ない。


「何?」


 それには信じがたい答えが返ったきた。


 次回出すアンソロ本の参加メンバーの八人のうち、六人に逃げられたという。


 すぐに二の句が継げない。残るのは咲夜さんとわたしのみ、ということになる。


 へ?


 もしもし?


「逃げられて? ねえ、どういうこと?」


『それが、姐さんっ…』


 しばしの絶句の後の彼女の話に、わたしも言葉を失ってしまう。


 原稿をもらう予定でいたサークルさんたちが六人、そろいもそろって「参加を止めたい」とキャンセルのメッセージを送りつけてきたという。


 慌てて咲夜さんが連絡を取ろうにも、全員からブロックとくる。話のしようもないらしい。


 確か、アンソロ本の印刷所入稿の締め切りは、一週間後。この本の販売をメインに、近くイベントの参加予定もある。そして、印刷代は超早期前払い割引きを利用して咲夜さんが立て替え、もう支払い済みだった。割引きが大きい反面、期限を過ぎたキャンセルや返金も不可だった…。


「キャンセルは…?」


『昨日まででした』


 メンバーの一人として印刷代金を知っていたが、わたしにはめまいのするほどの金額だった…。

 

 強い敵意が鼻の奥に臭った。逃げたメンバーはこれを狙って仕組んだのではないか。偶然にしてはタイミングがうま過ぎる。咲夜さんへの配慮があれば、印刷代金のことは絶対に頭に浮かんだはず。


 ぎりぎりそうなってしまった結果かもしれないが、その線は薄い。前から仕組んでのことだった、と考えるのが自然だろう…。


 当初からよくなかった咲夜さんの評判が思い出される。出会いのエピソードはともかく、わたし自身は迷惑をこうむることがなかった。だから、敢えて忘れたふりをしていたところはあるが…。


 仲間と言っていいメンバーにこんな手ひどいやり方で逃げられる。彼女にも責められる非はあるのだろう。


 ここでそれをとやかく言うつもりはなかった。かといって、慰めや同情だけを口にする気にもならなかった。


 しかし、むごい。


 書店委託販売の準備も整っていたのだという。後は原稿を集め印刷所に渡し、本の出来上がりを待つだけ。そのツメの段階まできていた…。


 逃げたメンバーはこの企画を放棄する直前まで、不審な素振りもなかった。原稿が順調であることをそれぞれ陽気に知らせてきていたという。


 わたし自身はイベントでちょっと会った程度でしかない。可愛いらしい雰囲気のお嬢さんたちだった。元メンバーらにどんな理由があれ、詐欺に近いやり方ではないか。残酷な仕打ちに慄然となる。


『雅姫姐さん…』


 易く言葉は発せられない空気だ。いい加減なことは言えない。


「価格を下げて本を薄くする…?」


 それなら被害もまだ軽いだろう。アンソロメンバーが大幅に減っても、咲夜さんは人気サークルだ。本はきっと売れるから…。


 わたしにしたって期待していた収入から大きく減となる。今口に出すことではないが、落胆は小さくない。でもマイナスにならなければマシだ。あきらめはつく。


 専業で同人をやれば、こんなトラブルにはいつかどこかで遭う。これを避けるため『ガーベラ』時代では頑なにゲスト寄稿に手を出さなかったのだが…。


 そんな回顧はこの際、何の役にも立たない。


 わたしの消極案に、咲夜さんはキッとした声で反論した。


『何ヶ月も前から大がかり告知をしてあったんですよ。姐さんだってそうでしょ? なのに薄っい本なんか! 夜叉神咲夜の名にかけて、そんな恥さらしな…』


「でも、出来合いのものを作って売る方が恥ずかしいと思うよ」


『…でも、姐さん! でも、裏切られてそのまま泣き寝入りなんて、絶対にしたくありません!!』


 振り絞るような声だ。締め切り前のこの土壇場。こっぴどい裏切りに遭ったショックと腹立ちがめらめら燃えるのが見えるようだ。


 妙なやり取りが耳に入るのか、夫が怪訝な顔でこっちを見ている。「大丈夫」と目顔で答えておいて、キッチンへ移った。


 原稿を描くときと同じ椅子に掛け、吐息混じりに問う。「じゃあ、どうするの?」と。


『本は出します』


 決然とした声が続く。


『ページも内容も減らしません。減らしたくありません、絶対に。ついでに価格も下げません!』


 価格が下がらないのは嬉しいが、本が出ないのなら絵に描いた餅と一緒だ。お腹は満たされない。


 わたしが相槌を打てずにいると、深呼吸に似た音がした。


『姐さんをクールジェンヌの君と見込んで、無茶を承知でお頼み申し上げます…』


「だから、そのクールビズみたいなの止めて……」


『売り上げ、姐さんが六でどうでしょう?』


 え?


 もちろんこれまで通り、主催として印刷や宣伝までの諸々雑務は請け負ってくれるという。その上で、わたしに売上を六割くれる、というのだ。当然、実入はでかい。初期の比ではない。


『ただ、担当してもらうページはぐっと増えます。残り一週間。印刷所に無理言って掛け合って十日…。いかがです?』


 出来るだけ公平に、互いに負担が少なくなるよう本のレイアウトは大きく変更するという。再録や漫画以外の読み物ページも設ける、とつなぐ。


 …う~ん。


 流石に厳しいかな。


 十日…。


 たっぷりの沈黙の後、わたしは唇を開いた。


「少し、考えさせて」


 電話を切った後で心が騒いで揺れた。かつて『紳士のための妄想くらぶ』でバススタッフをしようかと迷ったとき以上だ。気持ちがぐらついた。


 無茶だと、頭のどこかが言う。


 でも、また別などこかが惜しいと叫ぶ。チャンスだと。


 六:四か。


 やっぱり捨てがたい。


 でも…、


 ああどうしよう。



 咲夜さんは返事を明日まで待ってくれると言った。


 人気サークルの彼女との合同誌だ。当初の計画と大きく逸れたものになろうが、かなり売れるのは期待していい。だから冒険はせず、内容自体を無理のないお手軽なものに変えるのが、きっと正しい。


 残りたった十日。訳百ページもの原稿を真っ白な状態から仕上げることなど、不可能だ。理性が告げる。


 大きな裏切りに遭った直後で気持ちが荒れ、彼女も冷静ではないはず。明日になれば、また違った言葉が聞けるかもしれない…。


 それで彼女が企画を止めるつもりなら慰めるに留め、そのままそっと距離を置くべきだろう。気の毒で胸が痛いが、直接被害をこうむったのはわたしではない。


 生活のため趣味で書いているのではないからこそ。気持ちを切り替え、次のイベント用に自分の個人誌に時間を割けばいいのだから…。


 最大手サークルとの合同誌。


 売れると保証があるようなもの。


 六:四…。


 欲が頭でくるくる踊る。


 頭を冷まさなくちゃならないのは、わたしの方かもしれない。


 悩むのも早計と、ひとまず迷いを隅に追いやった。

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