18-39.リーングランデ異世界に行く(3)
「……えっと? そっか、ハヤトの家に泊まったんだったわ」
いつもと同じように、夜明けと同時に目覚める。
見覚えのない部屋に戸惑ったけど、すぐに状況を思い出した。
「うにゅう~、ハヤトにぃ~」
私を抱き枕にして眠るのは、ハヤトの妹である幼いアイカだ。
起こさないように慎重に抜け出し、床の上に敷いた布団で眠るハヤトの寝顔を堪能する。
こんなに安心した無防備な寝顔は、ハヤトが勇者をしていた頃にはほとんど見た事がない。
「ここがあなたの本来いるべき場所だったのね」
寝汗を掻いて張り付いたハヤトの髪を手で整えてやり、ほっぺに軽く親愛のキスを落とす。
いつもの習慣で生活魔法を使って身嗜みを整えようとしてしまったけど、サトゥーから「地球では魔力が回復しないので魔法を使いすぎないように」と注意されているのを思い出して寸前で思いとどまった。
「いつも使っていたモノが使えないのは不便ね」
私は一つ嘆息して洗面所に向かう。
ハヤト好みの幼い姿になったとはいえ、淑女としては身嗜みも整えず恋しい相手の前には立てない。
「マナが皆無な世界だけど、色々と便利ね」
蛇口のレバーを上げるだけで水が出るなんて便利だわ。
しかも適温のお湯まで出てくるし。
「これなら家に侍女やメイドがいなくても問題ないわね」
そんな事を呟きながら、髪を梳かし、薄く口紅を塗る。
「……似合わないか」
背伸びした子供にしか見えない。
私は手でぐいっと紅を拭い、もう一度顔を洗う。
「あら、リーンちゃん? 朝早いのね」
「おはようございます、お義母様」
気配で分かっていたので驚かなかったけど、お義母様の反応を見る限り、少し驚いてあげた方が良かったかもしれない。
「リーンちゃんは朝シャンはしないの?」
「あさしゃん?」
何だろう?
「シャワーを浴びて頭を洗わないの?」
「……頭?」
触ってみると、少しごわついていた。
そういえばサトゥーが、こっちは湿度が高いから注意するように言っていたっけ。
ハヤトの家は庶民だと言っていたけど、朝からそんな贅沢をしていいんだろうか?
「せっかくだから、浴びさせていただくわ」
ハヤトに見せるのは、いつでも最高の私でいたいから。
「シャンプーはハヤト用の安物じゃなくて、私のを使ってね」
「ありがとう、お義母様」
笑顔で見守るお義母様を洗面所に残し、私は浴室へと踏み込んだ。
昨日も使ったけど、とても清潔で使いやすい。
私は念入りにお母様のダメージケアシャンプーで髪の毛を洗った後、薔薇の香りのする素敵な「トリートメント」で仕上げる。身体はボディーシャンプーという髪の毛とは別の種類の液体せっけんで洗うそうだ。
こちらの世界は美容関係がとても充実している。出入りの商人を呼んで、私の分も用意させよう。
余分な水分を払い、浴室を出ようとしたところで、扉ががらりと開いた。
「うわっ、リーン」
「おはよう、ハヤト」
ハヤトが慌てて顔を背ける。
相変わらず紳士だわ。
「ごめん、リーン。入ってるって気付かなかった」
「それより、早く服を着たら? 丸見えよ」
私の知っているハヤトの身体より若い。
鍛え上げた鋼のような肉体が、年相応の柔らかな肢体に戻っている。
パリオン神の御業で、召喚された頃の姿と時間に戻ったと言っていたっけ。
「おわっ、す、すぐ服を着る」
ハヤトは扉を閉めるのも忘れて、慌てて服を着込み転げるように出ていった。
「あんなに慌てなくていいのに……」
私は自分の身体を見下ろす。
凹凸の少ないぷにっとした身体だ。
「前に私の全裸を見た時は『悪い』の一言であっさりと離れたくせに」
なんとなく許せない気分になって、タオルを洗面室の扉に投げつけて憂さを晴らした。
◇
「美味しい!」
お義母様の作る日本風の朝食は、素朴ながらとても美味しかった。
塩がよく利いた焼き鮭の味が、次に食べた卵焼きの甘さを引き立ててくれる。お味噌汁というのはスープがつぶつぶしていてあまり好きではないけれど、サトゥーやルルがよく作っていたので慣れている。お義母様の作る味噌汁は薄揚げや豆腐に加えてナスという野菜が入っていてボリュームたっぷりだ。
「口に合ったようで良かったわ。タクアンは佐藤さんから頂いたの。ご自分で漬けてらっしゃるなんて、本当に料理好きなのね」
「うふふ、サトゥーは『奇跡の料理人』って呼ばれているくらいだから」
お義母様に勧められて、黄色い漬物を頂く。
あら、本当に美味しいわ。
「コリコリしていて美味しいですね。これは何の野菜なんですか?」
「それは大根よ」
「ダイコン!」
驚きのあまり、思わず立ち上がってしまった。
「あら? 大根は嫌いだった?」
「いえ、あまり故郷で食べる習慣がなかったので――」
「口に合わなかったら、残していいのよ?」
私が育った公都では、大根を食べるとオークがやってくるという迷信が根強く信じられていた。私の乳母もその一人だったので、王都の学院に行くまでは一度も食べた事が無かったほどだ。
それ以降も苦手意識があったのか、ほとんど食べた事がなかったので、お義母様に言われるまで気付かなかった。
でも――。
「いいえ、美味しい物に罪はないわ」
私は問題ない事を伝える為に、あえてタクアンを一つ口に入れた。
「外国の方って、ご飯とおかずを別々に食べるのね」
「そういえばハヤトはパンと主菜を一緒に食べるのが好きだったわ」
この辺は文化の違いだろう。
お義母様に試しにご飯とおかずを一緒に食べる事を勧められたけど、どうしてもマナー違反な気がして、それは断らせてもらった。
「ところでハヤト、今日はどこに行くの?」
「どこ? 近所に散歩でもいこうかと――」
「あんたね! せっかくリーンちゃんが来てるんだから、デパートや遊園地にでも連れていってあげなさいよ!」
ハヤトと一緒なら散歩でもいいけど、せっかく異世界に来たんだし、色々な場所を見て回りたい。
「ゆうえんち! アイカも! アイカもハヤト兄ぃといっしょに行く!」
「アイカはお母さんとぷいきゅあ・ミュージアムに行きましょうね」
「ぷいきゅあ! アイカ、ぶあっくにあうの!」
お義母様がこちらにウィンクして、アイカを連れてダイニングを出ていった。
「それじゃ、リーン。出かけようか?」
少し照れたように、こちらに伸ばしたハヤトの手を掴み、私は笑顔で承諾の言葉を伝えた。
◇
「中心街まではちょっと距離があるからバスで行こう」
「バス? 乗り合い馬車みたいなの?」
サトゥーと来た時は「たくしー」というのを使った覚えがある。
「そうだよ。このバス停で待ってるとすぐに来る」
ハヤトがバス停を示す標識に書かれた小さな数字と腕時計を見比べて、「あと3分くらいだ」と呟いた。
「3分?」
首を傾げる私に、ハヤトが時計の読み方を教えてくれた。
一刻を二時間、120分に分ける細かさだ。ハヤトの世界の者達は、少しせっかちすぎる気がする。
本当に3分でバスという大きな乗合馬車が来た。
「すごいわ、ハヤト! この国の乗り物は時間に正確なのね」
「まあな。バスは時間が前後する事が多いけど、電車はほぼズレなしできてくれるよ」
そこまで正確に運行する意味が分からなかったけど、ハヤトが自慢する姿が可愛くて、ちょっと嬉しくなった。
「座席に座らないの?」
「あれは優先座席。お年寄りや身体の不自由な人の為の席だよ」
「それはステキだわ」
互助精神とでも言うのかしら?
シガ王国やサガ帝国には無い仕組みね。
もっとも、体調の悪い人は激しく震動する馬車なんかには乗らないのだけど。
「次ぃ~停まりま~す」
伝声管から声がしてバスが停車した。
ずいぶん鼻声だったけど、風邪でも引いているのかしら?
「お母さん! ここ空いてるよ!」
バスの入り口が開くなり、小さな男の子が元気に駆けてきて、優先座席に飛びついた。
「早く早く!」
男の子は嬉しそうに母親を呼ぶが、母親の方は少し困り顔で「そこはダメよ」と子供を窘める。
「どうして~?」
「そこは優先座席って言うの。体調が悪い人や身体の不自由な人が座る場所なのよ」
私がさっきハヤトに教えられたのと同じような説明をしているが、子供の方はよく分かっていないような感じだ。
「ほら、あのお姉さんも立っているでしょう?」
母親が近くで立つ私を見る。
「ホントだ!」
「ユウ君も立っていられるかな?」
「うん! ボク立てるよ! もう年長さんだもん!」
男の子が誇らしげに立つ。
「偉い偉い」
何か言いたげにこちらを見たので、そう褒めて頭を撫でてあげたら、恥ずかしがって母親のスカートの陰に隠れてしまった。
ハヤトとの間に子供ができたら、あんな感じなのかしら?
「次ぃ~停まりま~す」
さっきの鼻声がして、またバスが停車する。
乗り合い馬車よりも停車間隔が短い。まあ、乗り合い馬車は速度を落とすだけで、停まったりしないのが多いけれど。
ハヤトが「二つ先のバス停が目的地だ」と耳元で囁いてくれた。
相変わらず頼もしく聞き心地のいい声だ。
私は少し甘えたくなって、ハヤトの身体にピタリと身を寄せる。
「疲れたか?」
「いいえ、少し混んできたから」
そんな私の言い訳をハヤトは気にせずスルーしてくれる。
「失礼しますよ」
杖を突いたお婆さんが優先座席の前に来る。
「あら?」
お婆さんが座ろうとしたところで、自分のすぐ後ろにいたのが、お腹の大きい妊婦さんだと気付いてそちらに向き直った。
「どうぞ、座って」
「いいえ、私は大丈夫ですから」
「そんな事を言わないで。お腹の子供の為に座ってあげて」
「あー! 空いている!」
お婆さんに席を譲られた妊婦さんが遠慮し、譲り合っている所に、行儀の悪い女の子が滑り込んだ。
マナーを知らない子供の行動に、お婆さんと妊婦さんがなんとも言えない顔になる。
「そこは優先座席なんだよ。子供は座っちゃダメなんだから」
「知らないもん。あたしが先に座ったからあたしの席なの!」
さっきの男の子が、女の子のマナー違反を咎める。
「なんざますか! あてくしの可愛い娘に喧嘩を売ってるのはどこの悪ガキざますか!」
変な口調のおばさんが、男の子を殴りつけそうな勢いで迫る。
「お仕置きざます!」
「やめてください」
「お前がこの悪ガキの愚親ざますね! どういう教育をしているざますか!」
子供に危険を感じた母親が、ザマスの前に立ち塞がる。
言い返せない大人しい母親に、ザマスが悪口雑言を叩き付けた。
「止めなさい。聞くに堪えないわ」
誰も止めに入らなかったので、つい口出しをしてしまった。
「なんざますか! この外人のクソガキは!」
「ずいぶん酷い言葉遣いね。お里が知れるわよ」
ザマスが振りかぶった手を、私の頬を目がけて振り下ろす。
新兵の素振りよりもどんくさい動きだ。
避けるついでに投げ飛ばして――。
「止めろ」
ハヤトがザマスの腕を掴んで止めた。
さすがは私の勇者様。ザマスは脅威でもなんでもなかったけど、こうしてハヤトに守られるっていうのは、愛されている実感がしてすごく嬉しい。
「放すざます! セクハラざます! 痴漢ざます!」
ザマスが喧しい。
「だっさ。お前みたいなババア、だれが痴漢なんかするかよ」
「男の子の方がセクハラされているんじゃない?」
「あんな毒親に育てられた子供がかわいそー」
後ろの方の席に座っていた制服姿の女の子達が、ザマスを嘲笑する。
ザマスは反射的に文句を付けようとして、周囲の客達のザマスを非難する視線にようやく気付いた。
「き、気持ち悪い! こんな連中の側にいたらバカが遷るザマス! 前に行くザマスよ!」
ザマスが子供の手を引っ張って前の方に逃げていく。
「困ったお母さんね……」
「私はああならないように注意します」
お婆さんと妊婦さんがザマスの背中を眺めながらそんな言葉を交わす。
「あの、良かったら、座ってください」
優先座席の前の席に座っていた人がお婆さんに席を譲り、妊婦さんは優先座席に腰を下ろした。
なんとなく優しい空間にほっこりしているうちに、バスは目的地に到着した。
◇
「すごい人混みね。何かお祭りでもあるの?」
「この辺はいつも混んでるけど、ここまで混むのは珍しいな――」
ハヤトが周囲を見回して、何かの幟に目を留めた。
「有名な政治家が演説にくるみたいだ。ここにいるのはそれを聞く為に集まった人達じゃないかな」
「そういえば選挙で為政者が選ばれるんだったわね」
平民に選ばせたら、短期利益を追う衆愚政治になりそうな気がするんだけど、この国の繁栄を見る限り、悪くない政治形態なのかもしれない。
「大きな建物ね。行政府の建物?」
ここまでの間に五階建てや六階建てのビルを幾つも見てきたけど、この建物はさらに大きい。
「違う違う。あれは銀行だよ。目的地はこっち」
そう言ってハヤトが背後の建物を指さす。
「この百貨店だ。――いや、今は呼び方が違うんだっけか?」
「ハヤトちゃーん! こっちこっち!」
百貨店の前に、ハヤトの幼馴染みであるユミリがいた。
「どういう事?」
自分でも声が低くなったのが分かる。
「言ってなかったか? 俺だけじゃ事案になっちまうから、ユミリにも来てもらったんだよ」
「事案?」
「俺みたいな男子高校生が銀髪碧眼の外国人ロリを連れていたら、良識ある人達に通報されかねないんだよ」
「人攫いと間違えられるって事?」
私の問いにハヤトが首肯する。
ハヤトの好みの外見にしたが為に、二人っきりのデートに障害が起きるなんて想定外だ。
サトゥーに言って認識阻害の魔法道具か、大人の幻影が表示されるような装備を用意してもらおう。
「ハヤトちゃん、最初は子供服売り場でいいの?」
「それで頼む。今の服装だと公園や遊園地に連れていきにくいからさ」
「何か変かしら?」
サトゥーの用意した服の中から選んだのだけれど。
「変じゃないよ。でも、ちょっとだけ非日常な感じかな?」
ユミリによると、今着ている服は「美術館やドレスコードが必要な高級店に行くような服装」で、一般人が普段着にするような服じゃないそうだ。
シガ王国で言うと、舞踏会に出るような服装で街を散策しているような感じなのだろう。
「リーンちゃん、こっちだよ」
ユミリに案内されて行った先は、子供用のサイズの服が見渡す限り並んでいた。
「こっちは既製服が普通なのね」
「向こうだと仕立ててもらうのが普通だったっけ」
「そうね」
使用人に言っておけば、仕立屋が公都の城まで来るから、こういう買い物は王立学院に入るまで縁がなかった。
「やたらとスカートが短いのね」
「そう? 普通じゃない?」
そういえばユミリの服もスカートが短めだ。
シガ王国やサガ帝国では足首まであるスカートが普通だから、膝上のスカートというのは攻めすぎな気がする。
「まあ、あの辺の子達にくらべれば長いか……」
下着が見えそうなほど短いスカートを穿いた成人前くらいの少女達が、何かの機械の前で談笑している。
「リーンちゃん、こっちのキュロット・スカートは? これなら、下着が見えないか気にしなくても大丈夫だよ」
「ハヤト――」
どう思うか聞こうとしたら、ハヤトは売り場の外のベンチに座って黒い板――スマホを弄っていた。
「あはは、ハヤトちゃんはいつもあんな感じだから」
ユミリが残念そうに笑うが、せっかくのデートなのに、スマホに負けるなんて許せない。
ハヤトの前に服を持っていき、彼の意見を聞く。
「ハヤト!」
「ん? リーン、もう買い物は終わったのか?」
「まだよ。これ、どうかしら?」
「いいんじゃないか? きっとリーンに似合うよ」
「こっちは?」
「それもいいと思うけど、そっちのキュロットの方がリーンに似合うと思うぞ」
「ハヤトちゃんが、ちゃんと洋服を選んでる!」
私はハヤトが似合うと言った服を試着しに更衣室に向かう。
「どうかしら?」
「可愛いぞ。試着するなら上着も合わせた方がいいんじゃないか?」
「じゃじゃーん。ちゃんと似合いそうなのを選んできました!」
ユミリが五着くらいの上着を持ってきた。
順番に試着し、ハヤトが疲労困憊になってきた辺りで、買う服を決めた。
「そんなに買うの? ハヤトちゃん、予算は大丈夫?」
「子供服だし、母さんに臨時の小遣いを貰ったから大丈夫だろ」
「今の子供服って高いんだよ」
ハヤトが値札を見て目を丸くしている。
「リーン、すまん。一着だけにしてくれ」
「お金なら持ってきているわよ?」
「金貨は使えないぞ」
「それくらい分かってるわよ。サトゥーに換金してもらったから大丈夫よ」
ハンドバッグから封筒に入った札束を出す。
紙幣って金貨と違って軽くていいわよね。
「うわっ、そんな大金、こんな所で出すな」
札束を見たハヤトが慌てて封筒をハンドバッグに戻す。
「リーンちゃん、何か落としたよ――黒いクレジットカード?」
ユミリが封筒を取り出す時に落としたカードを拾ってくれた。
「そういえばサトゥーが持たせてくれたんだったわ。これを使える場所なら遠慮無く使えって言われたんだけど、ここで使えるのかしら?」
「ああ、使えると思う――使えるよな?」
「ええっ、私クレジットカードなんて使った事無いから分からないよ」
ハヤトとユミリがカードを押しつけ合う。
私はそれを取り上げ、こちらを見る店員に「これ使える?」と確認した。
「はい、使えます」
「なら決済して」
私はカードを店員に渡し、買い物を進める。
「うわっ、ブラックカード?」
「子供服売り場で初めて見たわ」
「外国のお金持ちの娘さんかしら」
店員達が小声で噂話をするのが聞こえた。
サトゥーが用意したカードは特別な物だったらしい。
「暗証番号をお願いします」
「暗証番号? サインじゃないの?」
公爵家の名前で買い物する時はサインだけだったんだけど。
「今はこちらの機械で暗証番号を入力するのが一般的です」
「ふ~ん」
暗証番号って何かしら?
「あ! さっきの封筒に書いてあった四桁の数字じゃない?」
ユミリに言われて封筒を確認したら、確かに四桁の数字があったので、数字の書いたボタンのある機械で暗証番号を入力する。
ピッと音がして、店員からカードを返される。
これで決済が終わったらしい。
とても便利だ。
後でどういう仕組みなのか、お義母様かサトゥーに教えてもらおう。
続けて靴や小物を買う。
「リーンちゃん、下着はいいの?」
「下着はアリサが色々と用意してくれたから大丈夫よ」
中には娼婦でも顔を赤らめそうな下着があったけど、普通の下着もたくさんある。
「でも、そうね。せっかくだし、ハヤトの好みの下着も買っておこうかしら?」
そう言ったら、ハヤトが顔を真っ赤にして「そういう冗談はやめろ」とか「セクハラだぞ」とか言って面白かった。
「ちょっと咽が渇いたな。アクドでも行って何か飲もうぜ」
「また、アクド?」
「あそこしかペカリが置いてないんだよ」
ペカリというのは、炭酸入りのスポーツドリンクだ。
炭酸は公都でよく飲んだけど、スポーツドリンクの独特の薄甘さには慣れない。
「リーンもそこでいいか?」
「いいわよ。青紅茶は置いてる?」
「こっちの紅茶は色が違うんだ。赤茶色の紅茶ならあるよ」
そういえばそんな事をサトゥーが言っていた覚えがある。
「それでいいわ」
私の手から荷物を取り上げ、ハヤトがアクドというお店に先導する。
向こうではアイテムボックスやインベントリがあったから、こういうシチュエーションは初めてだ。
恋愛物語のワンシーンみたいで、心がワクワクする。
ショウウィンドーに映る自分の顔が、だらしなく緩んでいるのを見て、慌てて表情を整えた。
それでも、我知らず口元が緩んで、口角が上がってしまう。
「アクドはねー、アプリで注文すると並ばずに買えるんだよ」
ユミリがそう言ってスマホを操作しだした。
「こっちの世界はスマホがないと生活に支障がでそうね」
便利だけど、依存度が高そうで少し不安になる。
「なかったら、無いで困らないけどな」
ハヤトはそう言って笑う。
「えー、私はスマホが無かったら、勉強しかする事がなくなっちゃうよ。ハヤトちゃんはギガビッグアッグのセット、ペカリとポテトのLサイズよね?」
「おう、いつものだ」
ハヤトとユミリの会話に、二人の付き合いの長さを見せつけられるような気がして、少し悔しい。
「リーンちゃんは何がいい?」
ユミリがそう言いながら、メニューを私に見せる。
「私はこのチーズのと、ナゲット? この四角いのにしてみるわ」
「ナゲットは鳥肉の揚げたヤツだよ」
「ああ、サトゥーがよく作るやつね」
それなら期待できる。
「こっちで受け取るんだよ」
上に表示された表示板に注文の番号が出たら受け取りに行くらしい。
「ユミリ、決済にこれを使いなさい」
「ごめんね、リーンちゃん。アプリに登録したカードしか使えないんだよ」
「そうなの?」
「ユミリには俺が返しておくから」
ハヤトがそう言って、紙幣と小銭をユミリに渡す。
「ユミリ、それはクレジットカードとは違うの?」
「似たようなものかな? これはデビッドカードって言って、銀行口座にあるお金を引き落とすタイプのカードを登録してあるの」
こちらの世界は決済手段が色々あるらしい。
「番号が出たぞ」
「やっぱり、アクドは早いね」
「ファストフードだからな」
ユミリの説明を聞いている間に商品が用意されたようだ。
ハヤトが私と二人分を持ち、空いている座席に座る。
場末の酒場とは違い、高級店のようにテーブルの上には汚れ一つなく、床の上にもゴミ一つ無い。
ここはなかなか由緒正しい店のようだ。
「これはどうやって食べるの?」
「包みをこうやってほどいて、こんな感じで巻いて食べるの。こうしたら、中のソースが手に垂れないんだよ」
ユミリに教えられて食べる。
「美味しいけど、変わった食感の肉ね」
香辛料が利いていて美味しいけど、パサパサな感じで私の知るどんな肉とも違う。
でも不思議な事に、チーズや柔らかなパンと合わさるといい感じだ。
「こっちのナゲット? これも変わった食感だわ」
サトゥーの作る揚げ物には到底及ばないけど、これはこれでアリだと思う。
「リーンちゃん、こっちのケチャップやマスタードを付けると美味しいよ」
ユミリに勧められるままに試す。
ケチャップは向こうで食べたのと同じ甘いソースで、黄色いマスタードの辛さとは対照的だ。
「付けるソースによって味が変わるのは面白いわね」
「ソースを両方付けるのも面白いぞ」
ハヤトがそう言って、細長いポテトをへら代わりに使って試させてくれた。
「少し行儀が悪いけど、美味しいわ」
「リーン、これも食べてみるか」
ハヤトがポテトを私の鼻先に出す。
「いただくわ」
そのまま食べさせてもらったら、なぜかハヤトとユミリが真っ赤になった。
この国では恥ずかしい事なのかしら?
「ハヤトも食べさせてあげる」
「お、おう!」
「わ、私も!」
私が差し出したポテトを食べるハヤトを見たユミリが、必死の顔でポテトの束をハヤトの顔に突き出した。
「――ふがっ」
目を瞑って突き出す物だから、ポテトが逸れてハヤトの鼻の穴に突っ込んでいる。
「あわわわっ、ごめん。ハヤトちゃん、大丈夫?」
ユミリがバッグからハンカチを取り出す時に、慌てて飲み物を倒したけど、蓋付きのカップだったお陰で、最悪の事態は回避できた。
「ごめんね、ハヤトちゃん」
「気にするな、ユミリ」
しょげるユミリをハヤトが慰める。
それを見ているとなんだか、少し面白くない。
我ながら狭量な事だわ。
軽い自己嫌悪を覚えながら窓の外に視線を向けると、人気政治家とやらの講演が始まっているのが見えた。
何を言っているのか、ここからは聞こえないけれど、ものすごい熱気だ。
「――あら?」
政治家の前にあった空白地帯に炎が上がった。
混乱する人々の間を、黒装束の男達が壇上に駆け上がる。
どうやら、この世界も平和なばかりではないようだ。
「ハヤト、事件だわ」
※次回の更新は7月頃の予定です。







