ヒールの高い靴を捨てた日
母はかつて国王がまだ王子だった頃に婚約者候補だったことが誇りであり、選ばれなかった事が屈辱だったらしい。
華やかな赤い髪をした母は王国の薔薇と言われていたけれど、実際にはその性格の悪さときつさから裏では棘の多い毒花と言われていたのだと教えてくれたのは誰だったか。
王子の婚約者候補である間は他の男性をキープなんて出来るはずないし、母のプライドの高さから自分が選ばれて当然という駄目な方向での自信の高さのせいで、選ばれなかった後に新たなる男性を探しても優良と言われる人達はすでに婚約済みだった。
まあ、王子の婚約者選定がそろそろ終わるかと噂された時点で大半の男性が母に狙われないように、これまた優良な令嬢と婚約を急いだので母の事を皆がどう思っていたのかは察せられる。
結局、母にとって屈辱的な事に妥協に妥協を重ねて選ばれたのが伯爵の父。母が選んだというのは大間違いで、誰もが拒否したので祖父が頼み込んで父に引取りを願ったのが真相。
嫡男ともう一人子が産まれたら離婚して良いと言う裏取引があった。因みに、父には男爵家の恋人がいて、根回しをしている最中の事で婚約が間に合わなかった。
子供達の教育に母を関わらせないようにすること、適切に育てること、後継者を嫡男にすることを条件に祖父は父が恋人を囲うことを黙認していた。
私からすれば私が生まれた時点で約束を果たしたのだからさっさと離婚して母をどこかに幽閉し、恋人を後妻として迎え入れて子供を正式に産んでもらったら良かったのに、とは思うのだけれど。
性格の悪い母と離婚するのに苦労すると思ったのか、結局私の婚約が決まって数年、15歳になって母が亡くなるまで離婚しなかった。
まあ、あんな毒まみれの女を世の中に放流してどこかで迷惑を掛けるのは想像出来たし。それと、母を引き受けている間は母の生家から援助金が入ってきていたのも大きいか。
母には言えなかったけれど、兄と私は父の恋人と会っていた。とても優しい人で、二人の仲を引き裂いた女の子供である私達にも優しくしてくれた。
父と恋人の間には子供がいて、可愛い女の子。兄をお兄様、私をお姉様と呼んでくれてそれはもう可愛がった。つまり、母だけが排除されていた。
悪いとは思うけれど、母のあの性格の悪さを考えたら可哀想とは思えなかった。
私の教育に母は関与できなかったけれど、小さな事からそれなりのことまでそれはもう散々に口を出された。
父に似て小柄な私の背丈はみっともないとヒールの高い靴を履いて背丈を誤魔化すことを強要された。足が痛くて仕方なくて嫌だったのに、金切り声を上げる煩わしさが勝って仕方なく履いていた。
兄は兄で兄の婚約者に対してそれはもう散々に愚痴を言われていた。私も婚約者について散々言われたけれど。
どうして王子の婚約者になれなかったのか、とか言われても、そりゃあ母が母だからとしか言いようがない。母が選ばれなかった最大の理由が今は他国に嫁いだ王女殿下をこき下ろして貶して馬鹿にしたから。
華やかな美貌は持っていなくとも聡明さで評判だった王女殿下を王家の方々は慈しんでいたからこそ、母の悪辣な言動は不適格とされた事を母は最後まで理解していなかった。
何故不敬罪で処罰しなかったのか。していたら兄と私は産まれなかったけれど、父と恋人は結婚出来て、妹は庶子ではなく嫡子として祝福されていただろうに。
母の唯一良かった所は顔だけ。その顔の良さを兄と私は受け継いでいた。まあ、私に関しては穏やかな目元を持つ父にそこが似ていたのできつさは減っていたから良かったけれど。
兄は母を男にした華やかな顔立ちで、母の息子ではあるけれど令嬢人気が高い。婚約者は侯爵家のご令嬢で顔立ちは華やかよりも穏やか系だけど、兄の好みそのままなで、兄からの溺愛がすごい。
幸い、私と兄は父のおかげでそれなりにまともに育つ事が出来た。夜会だお茶会だと言っては王都に留まって領地に足を運ばない母のおかげである。
父の恋人は密かに領地に住んでいたから、母が来ないおかげで気にせずに会えた。
私と兄の被害は社交シーズンさえ乗り切ればと言うものだけど、その期間が拷問だった。
母が亡くなって誰もが安堵したのではないだろうか。
喪が明けたら父の恋人を正式に後妻として迎え入れ、妹も籍に入れる。兄が引き継ぐのはまだ先なので恋人は伯爵夫人として社交しなければならないけれど、そこは私と兄の婚約者でサポートするし、妹も伯爵令嬢としてお披露目しないと。
「もう、これは要らないわね」
母の命令で履いていたヒールの高い靴を脱ぎ捨てる。惰性のように履いていたけれど、やはり苦痛でしかなかった。ヒールの高さに合わせて仕立てられたドレスの裾を詰めなければならないし、母が選んでいた派手なドレスも処分したい。
私にとってヒールの高い靴は母の支配の証だった。
「お嬢様、これらは処分で?」
「ええ。要らないわ」
母に愛された記憶はない。母にとって私は母が叶えられなかった王妃になるための道具。支配して私を王妃にしてその母として君臨したかったのだろうけれど、無理だとなぜ分からなかったのか、それが分からない。
「コレット、準備は出来た?」
「スコット様!お待たせして申し訳ありません」
「待ってないよ。今日は君に沢山贈り物が出来ると思うと嬉しくてね」
母のこだわりで揃えられた服を処分すると決めたと婚約者のスコット様にお話をしたら、プレゼントをさせて欲しいと申し出られた。
初めて顔合わせをした時に私がヒールの高い靴を履いて苦しんでいることに気付いてくれた人。
スコット様は穏やかな方で家格が同じ伯爵家の次期当主。我が家とは事業絡みでの婚約だけど、時間を掛けてお互いを好きになった。
母の実家からの援助は兄が後継者としてお披露目されたので細々と続くらしい。ご自分達の家で養えないからと父に押し付けた負い目があるのだろうけれど、教育の失敗の尻拭いは自分達でして欲しかった。
母の死を嘆いた者はどれだけいたのだろう。感情的で自分以外を見下し、過去の栄誉に縋る人。夜会やお茶会でもきっと変わらなかったはず。
母を取り巻く人々はその程度によるけれど、性格は宜しくなかったのだろう。悪口三昧のお茶会になど行きたくは無い。
ドレスはレースやビジューなどを外して解体したら何かに使えるだろう。孤児院への寄付に使ってもらおう。
靴は勿体無いけれど捨てよう。あれこそが私を苦しめた最たるものだから。
***
コレットとその婚約者であるスコットが馬車に乗り込んで屋敷の門から出ていくのを見送る。
母によく似た顔と言われる事が幼い頃から嫌いだった。母は幼心にどこかおかしい人だった。己こそが世界の中心のように振る舞い、国王陛下や王妃殿下どころか、先王夫妻、他国に嫁いだ国王陛下の妹様である王女殿下を悪し様に罵っていた。
父との結婚は屈辱でしかなく、それでいて契約だからと二人の子供を産んでからは伯爵夫人としての仕事は一切せずに贅沢ばかりしていた。
コレットは母の最大の被害者だった。教育には決して口を出させない契約だった代わりに、それ以外に口を出してコレットを支配していた。
幸いにもコレットが適当に聞き流していたが、もしもそれが出来なかったら意志のない人形になっていたのでは無いだろうか。
母は領地に足を運ぶことはない。王都にあるタウンハウスでずっと暮らし、己の思うままに生きていた。
だから父に恋人がいることに欠片も気付いていなかった。
俺とコレットは父の恋人に頻繁に会っていたし、異母妹が生まれた時は祝福した。
そもそも父と恋人は結婚の約束をしていたのに、母方の祖父が話を持ち込んで引き裂こうとしたのだ。様々な話し合いから父が恋人を囲う了承をもぎ取った父は先のことまで考えていたのだろう。
コレットがデビュタントを迎えた15歳に母は病に倒れそのまま回復すること無く亡くなった。
今は喪に服す期間で、明けたら後妻として父の恋人が我が家に入る。一応は人の目を気にして領地にいるけれど、一度実家に帰って、父から婚姻の打診を送る手筈となっている。
母は毒だった。この家だけでなく、国からしても毒だった。
「マークス、コレットの衣装代の予算を少し引き上げたいのだが」
「旦那様より臨時に増額するよう命じられておりますので大丈夫ですよ」
「そうか。良かった」
好きなドレスを仕立てる事が出来なかったコレット。本当は薄い青色が好きなのに、赤いドレスばかりを作られていた。
赤は母が好きな色であって、コレットの嫌いな色だったのに。
「ナジェル様。婚約者のミザリ様がお見えです」
「分かった」
侯爵令嬢のミザリが婚約者になってくれて嬉しいのに、最初の顔合わせで母はミザリを地味だとか陰気だとか言って貶した。たとえどんな華やかな令嬢を連れて来ても貶める事に変わりはないのに。
母にとって自分以外は誰もが下なのだから。どうしてそこまで自身への評価が高いのかは分からない。
応接室に向かうとミザリが穏やかに微笑んで待ってくれていてほっと安堵する。彼女の柔らかな雰囲気が好ましい。
俺は母に似て無駄に華やからしいけれど、こんなものは欲しくなかった。父に似たかった。
「お疲れですか?」
「いや。今は母の後始末に終わりが見えて安堵しているところだ」
「まぁ。あの方は亡くなってからも…いえ、言葉が過ぎましたわ」
「大丈夫だ。皆思っている」
亡くなってからもまだ迷惑を掛け続けるのが母だった。いい加減にして欲しい。
他者を平気で貶める事に罪悪感を抱かない性格がどうして作られたのかといえば、曾祖母のせいである。プライドの高い曾祖母は祖母をいじめ抜き、孫に当たる母をこれ以上ないほど溺愛した。祖母への嫌がらせでもある。
常に可愛い、美しいと褒め、外見だけを磨くようにし、わがままをなんでも叶えた。その時には既に曽祖父が亡くなっていて止められるものはいなかった。
祖母を関わらせず母を傲慢に育てるだけ育ててあっさりと亡くなった曾祖母。残されたのは怪物となった女が一人。矯正しようにもその期間はとうに過ぎ去り、見た目だけは確かに良いけれど中身は救いようが無くなっていた。
母に近い者ほど母と関わりたくないと逃げ出し、関係が少ない者は見た目だけで母を褒め称える。
祖母は母に蔑ろにされて話をしようともしなかったので、祖父と伯父がどうにかしようとしても無駄に終わった。
それらの尻拭いを父に押し付けて十数年。コレットが社交デビューしたので不要になったのだろう。母が本当に病死だったのかは分からない。
「ナジェル様、アネリー様とソフィア嬢のお迎えの支度は進んでいますの?」
「ああ。父が一人で選ぶつもりだったらしいが、センスが悪すぎてコレットが手伝っている」
「私もお手伝いしたいけれど駄目かしら?」
「君が良ければ助言して貰えるとありがたいな」
母が居なくなったことで王都のタウンハウスは居心地が良くなった。抑圧的な母は使用人を人間とは思っていなかった。貴族にはそういう者がいるのは知っているが、伯爵家の使用人は長く勤めている者が多いので勝手に潰されては困る。それも分かっていなかったのだろう。
ミザリとの結婚式は来年。父と義母の再婚などが落ち着いてからと決めていた。
ミザリの侯爵家としても母が居なくなったことで平穏な新婚生活を送れると安心してもらいたいところだ。
母のせいで女性が苦手になった俺に父が紹介してくれたのがミザリだった。穏やかに笑う心が落ち着ける女性。直ぐに好意を抱くようになった。
母から守るだけで精一杯だったけれど、これからは煩わされる事ない日々を共に過ごしていきたいものだ。
***
王国の毒花ロザリンドは元々公爵家産まれで、婚姻後は伯爵夫人となった女性。婚約者の母であり、何度も外見を貶められてきた。
私の家は侯爵家で、別に伯爵家に嫁ぐ必要は無かったけれど、婚約者であるナジェル様のお父様、現伯爵から是非にと願われた。
数年もすればロザリンド様はいなくなる、というのを匂わせながら。
ナジェル様はロザリンド様によく似た華やかな外見をしているけれど、それを嫌悪していた。
性格の悪さが出ているロザリンド様と違い、ナジェル様は美男子で顔の良い方を好む私としては最高に素晴らしい方。ナジェル様は派手な女性が苦手で私のような穏やかそう、と言えばまあそうだけど地味な外見の女性がお好きらしい。
少しふくよかなのが私の劣等感だったけれど、疲れきったナジェル様が私の胸元に顔を埋めるようにして抱きついて来るので、案外良かったのかも、と思っている。
ロザリンド様が亡くなるまで、外見の事を散々に貶されたけれど、ロザリンド様は外見でしか人を見ることが出来なかったのだろう。ご自身が外見しか無かったから。
ナジェル様の妹で、私の義妹になるコレット嬢はロザリンド様に命じられてヒールの高い靴を履いていたけれど、背を高く見せて何の意味があったのか未だに分からない。
ただ、足元を支配されていると好きなように行動出来ないだろうな、とは思った。
伯爵に愛人がいると聞かされた時には驚いたけれど、ロザリンド様の生家の公爵家がそれを認めていたし、ナジェル様とコレット嬢も受け入れていたので、私もそういうものかと同じく受け入れた。
ロザリンド様があまりにも悪辣すぎて、伯爵家の評判は低いのかと思えば、ロザリンド様と言う怪物を伯爵家で押さえ込んでいる点を評価されていたし、伯爵と子供二人は同情されていた。
ロザリンド様はひたすらに口が悪かった。話す言葉全てが毒を含んでいて、人を褒める事は無かったと思う。
公爵家はどんな育て方をしたのかと不満を零せば、張本人である曾祖母は怪物にするだけしてぽっくり逝ってしまったと言うではないか。
ロザリンド様が役に立った事は、ナジェル様の麗しいお顔を残したことくらいでは無いだろうか。コレット様も美少女だけど、目元が伯爵と似ているので雰囲気が変わる。
王家に睨まれていたロザリンド様のせいで伯爵家はこれまで大人しくしていたけれど、やっと自由に動けるようになった。
「シーズンが終わったら領地に戻るけれど、良ければ君を招きたいんだ」
互いの領地がそれなりに離れていたので今まで訪問することは無かったけれど、婚前に誘われて思わずどきどきしてしまう。婚約者なのだから、一度は見ておくべきよね、と心を落ち着かせる理由を考えながら、私は是非にと返答した。
***
ロザリンドは自分が良ければ全て良いと思って生きてきた。祖母が肯定してくれていたので悪いなど欠片も思わなかった。
王子の婚約者候補として選ばれたのは当たり前の事だし、王女が不細工なのは事実だったので正直にそれを口にしただけだった。
結局王子の婚約者になれなくて、父が見つけたのはうだつの上がらない地味な伯爵の嫡男。子供を二人産んだら後は自由にしていいと言われていたので、王都で子供を産んだ。
領地に行くはずもなく、社交シーズンになってやってきた息子と娘が地味な格好をしていたから正しくアドバイスをしただけ。
特に娘は背が低いからみっともなく見えたので、ヒールの高い靴を履くように言った。
これだけ美しいロザリンドからよく似た顔で生まれた息子は感謝すべきだし、娘はまあ、目がロザリンドに似てはいなかったけどそれなりに見られる顔だったからやはり感謝すべきだと常々告げていた。
娘がデビュタントを迎えた後に体調が思わしくなくて寝付く事が増えた。医者に見せても改善せず、体の至る所が痛い。
早く治って社交界に戻らないと。今の社交界にロザリンド程の華がある女はいないのだから。
ロザリンドの気持ちとは裏腹に起き上がれなくなり、意識も朦朧とする日々の中で、久々に兄と夫の声が聞こえた。
「中々しぶといな」
「まあ、即効性ではないですからね」
「この件、父にも知らせてはいない。私とお前だけの話だ。これまで迷惑をかけたな」
「その分支援してもらっていましたしね。お陰でコレットのデビュタントは問題なく出来ましたから」
「コレットのデビュタントまで待っていたのか」
「ええ。やはり、最高の仕立てをしたドレスを着せてやりたい親心ですよ」
「我が家からの支援金を長く引き出したものだ。まあ、問題ない額ではあったな」
「恐らく今日明日には終わるでしょう」
「こいつの為に泣く人間がどれだけいることが」
「やり直せる時はいくらでもありました。ですが、彼女は己が悪いなんて欠片も思ってはいなかった。ある意味貴方達のお祖母様の被害者なのでしょうが」
彼らの言っていることは分からなかった。
そしてロザリンドはあることに気付いた。
コレットとは娘の名前だったか。普段はお前とか貴女と言っていたから名前など忘れていた。息子の名前はなんだったか。
そうしてロザリンドはその後、完全に意識が亡くなり、夜も明ける前に静かに息を引き取った。
彼女は最後の瞬間まで自分に悪いところがあるなど一切思うことなくこの世を去った。
ロザリンドは最後の最期まで自分を貫きました。
産んだ子供の内、娘は自分が好きに使っていい人形と思っていたので名前も覚えていません。
二人の名前は父親が付けました。
伯爵が恋人と別れてなくて、子供たちに会わせていたことなどは現実だと非道な事だと思いますし、誰かのトラウマを抉る展開では無いかな、と思ったりもしました。ご都合主義という事でスルーお願いします。




