劉備と孫権との同盟成立と司馬懿の登用
さて博望坡の戦いで夏侯惇と于禁を打ち破ったことで劉備の名は上がりました。
そして孔明は呉に赴いて、曹操への降伏反対派の魯粛を通じ、劉備と孫権の同盟を結ばせ、曹操と対峙する事を進言しました、劉備はこれを喜んで受け入れ、孫権との同盟は間もなく成立しました。
呉は周瑜を軍の総指揮に任じ、魯粛を参謀として北方へ兵を進め、合肥付近で曹操の軍と交戦したようです。
私はそのようなことを張飛に聞いたあと彼に言いました。
「東の孫権と同盟がむすべたのなら、今度は西とも結べるといいですね。
そういえば西の益州の劉璋という人は暗愚でその下の人でも
反感を抱いている人が多いみたいですよ」
私が張飛にそう言うと彼は
「ほお、そうなのか、ならどうすればいいとおもう?」
「益州に同盟の使者を送り、その際に様子を探り
こちらに協力をしてくれそうな人物を探し
そこからこちらへついてくれる豪族を
見つけていくのが良いかとおもいますよ。
それと同時に司隷の地を軍を率いて落としてゆくのが良いかと。
その地に司馬と呼ばれる高名な人がいたら孔明のときと同じように
何としてでも迎えるべきでしょうね。」
「なるほどな、じゃあそう玄徳に伝えてみるぜ」
果たしてその意見は劉備に受け入れられたようです。
まず徐庶を益州へ送り、益州にて張松、法正、孟達などの不満分子への接触に成功しました。
そして、法正の進言により劉璋は劉備と同盟を結んだのです。
そして劉備自身は北方へ兵を出して河南、河内、河東、弘農など司隷を切り取る事に成功しました。
そこでさらに河内に住んでいた司馬氏の一族を登用することに成功しました。
有名な司馬懿もその中に含まれます。
まあ、これは新たな火種を抱え込んだという気もしないでもありませんが、有能な人材を手に入れられたのは喜ぶべきことでしょう。
曹操は北に袁紹、南に孫権、西に劉備に同時に攻め込まれ、その領土を減らしたのです。
本来であれば劉表と孫権は争っていて、北方に全力を向けられたのが北に加えて南と西までも攻められたのは曹操にとっても計算外だったのでしょう。
曹操にとって本拠地に近い場所の防衛を優先したため、孫権と曹操の戦いは一進一退であったようですが、北方と西方のまもりはその分手薄になったのですね。
そして劉表の息子である劉琦は兵を率いて、南方の交州を抑えました。
このあたりは現在の香港、マカオなどを含む場所で東南アジアやインド方面との交易が行われていました。
それに我々はより茶や木綿などを手に入れるのが楽になったのです。
「これなら本来よりはだいぶ楽ですかね……。
南北に領土が伸びるのはいいこととも言えませんが」
私の言葉に張飛が聞いてきました。
「ん、どうしてだ?」
「孫権が北を攻めるよりこちらを攻めるほうが楽だと思って
急に攻めてきた場合守りきれないかもしれませんからね。
西からは多分大丈夫だと思いますが」
まあ、暫くは大丈夫だと思いますけどね。




