モラハラ夫の支配に限界がきたので逃げ出したら、夫が勝手に破滅してて草
結婚して二年。
エレーナの人生は光を失っていた。
その原因は夫であるレクサーだ。社交界では完璧な紳士を演じる彼だが、その本性はモラハラ気質。妻であるエレーナを操り人形のように支配する男だった。
──お前の喋り方は、下品だ
──この衣装は、俺の妻として相応しくない。二度と着るな
──実家の友人との付き合いは、俺の許可を得てからだ。勝手に会うな
そんな言葉をかけられるのは日常茶飯事で、エレーナはどんどんを心をすり減らしていった。今では、「はい、すみません」と息を吸うように口が開いてしまう。
そんな自分に嫌悪していたのは最初だけで、今はそれにすら慣れてしまっている。
朝食は八時。一分の遅れも許してはくれない。
夜の食事は、レクサーの機嫌次第。機嫌がいい日は、エレーナも食事にありつけるが、機嫌が悪い日は何も食べられなかった。
「お前が、俺の気分を悪くするのが悪い」
そう言い放たれてはどうしようもなかった。
両親に相談しても意味はない。
「貴族の妻というのは、夫に従うのが義務だ。我慢しなさい」
こんな言葉が返ってくるだけ。助けてはくれない。
エレーナは、次第に理解するようになった。
社会も、家族も、誰も助けてくれるわけではないのだ。
支配は、家の中だけに留まらなかった。
社交界でも、レクサーは彼女を完全にコントロールしていた。
「お前は俺の隣で、微笑んで、何も喋るな」
誰かがエレーナに話しかけても、レクサーが代わりに答える。
エレーナが発言することは、決してなかった。彼女の存在は、ただレクサーの付属物。彼の所有物だった。
ある晩。
レクサーは、酒を飲みながら言った。
「お前は相変わらず無能だな。いつになったら子供ができるんだ。使えない。子供を産まなきゃお前に価値はないんだからな」
その言葉を聞いた時、エレーナの心に恐怖が走った。
子供……。
もし、レクサーとの間に子供ができたら、その子もこのサイクルに入ってしまうのではないか。彼の支配に屈して生きる希望を見失うのではないか。
まだ見ぬ子供を想い、エレーナはエレーナは決心した。
逃げなければ。
早く、この場から逃げなければ!
子供にまでこの苦しみを味わわせるわけにはいかない!
★
一大決心をした夜。エレーナは、身一つで家を出た。
レクサーは毎晩、深酒をして眠るという習慣があった。
その隙をつくのは容易だった。
どこに行くのか。
これからどうなるのか。
エレーナには何も分からなかった。
小さな村に辿り着いたのは、王都を出て三日目の午後だった。
エレーナは、ふらふらと村道を歩いた。
足は、ここ三日間の馬車で痛くなっていた。
腹は、空腹で鳴っていた。
手には、わずかな金と、着替えた汚れた衣装だけ。
このままでは、夜が来たらどこで寝ればいいのか。
明日は、何を食べるのか。
そうした不安が、彼女の心を占めていた。
だが、同時に——
レクサーの家に戻るくらいなら、野垂れ死にの方がましだ。
その思いだけが、彼女を前に進ませていた。
村の外れに、古い旅籠があった。
看板には「黄昏の灯」と書かれていた。
塗装が剥げ、木もくすんでいた。
それでも、窓からは、ぼんやりとした灯りが見えた。
暖かみのある灯りだった。エレーナは、戸惑った。
無一文の身で、中に入っていいものか。
だが、その時、ちょうど来た一人の客が、旅籠へ入っていった。
それは、エレーナに決断を促した。彼女は、深呼吸して、扉を押した。
中は、思ったより温かかった。
暖炉の火が、心地よい温度を保っている。
客は数人。皆、静かに、酒や飲み物を楽しんでいた。
カウンターの奥から、一人の男が出てきた。
五十代だろうか。年老いた眼をしていた。
その眼は、エレーナを見た時、同情もなく、好奇心もなく。
ただ、事実を受け入れるような、淡々とした光があった。
「いらっしゃいませ。何をお飲みになりますか」
その言葉は、他の客への言葉と、何ら変わりなかった。
エレーナは、口を開いた。
正直に「お金がない」と言うべきか。
それとも、仕事があるかどうか聞くべきか。
彼女は、戸惑いながら言った。
「あの……申し訳ありません。私は……」
言葉が続かなかった。
汚れた旅装。痩せた顔。
絶望と、わずかな希望が混ざった瞳をしたエレーナに、男は柔らかく微笑んだ。
「お困りのようですね」
それは、質問というより、事実の確認だった。
エレーナは、その時、初めて泣きそうになった。
「……はい。困ってます」
エレーナは、かすかな声で言った。
「なら、ここで仕事をしてみますか」
「仕事、ですか」
「はい。給金はあまり多くは出せませんが、食事と寝床は保証しましょう」
「……は、はい、働かせてください!」
エレーナは、頭で考えるより先にそう声をあげていた。
旅籠の経営者はフィンと名乗った。
フィンに案内され、エレーナは二階の小さな部屋を自由に使っていいと言われた。
温かい食事、静かな寝床、一人だけの空間。
そこにはしばらく無縁だった自由があった。
★
朝は五時に起きる。
洗濯をして。掃除をして。調理を手伝う。
夜の九時まで続く仕事。
給金は安い。
月に数枚の銀貨。
だが、それはエレーナにとって、人生で初めて自分で得たお金だった。
仕事は、肉体的には大変だった。
手は、洗濯と調理で荒れた。
腰は、朝から晩まで立ち仕事で痛くなった。
だが、その痛みさえも、エレーナには心地よかった。
自分の意思で、自分の手で、自分の人生を作り上げている。
その実感が、エレーナの心を少しずつ満たしていった。
それにフィンはエレーナのミスを責めない人だった。
お皿を割った時も、客の注文を誤った時も、感情的にならない。
「大丈夫。誰でも最初はミスします。ゆっくり、慣れていきましょう」
その言葉が、どれほど救いになったか、エレーナは言葉にできなかった。
半年が経つと、エレーナは笑えるようになった。
客たちも、彼女に優しく接してくれるようになった。
「エレーナ、今日のスープ、本当に美味しいな」
そう言ってくれる常連客の顔を見る度に、エレーナは初めて感じた。
自分は、必要とされている。
だが、それは支配的な「必要」ではなく、純粋に感謝を込めた「必要」だった。
一年が経つと。
エレーナの手は、もう、荒れた手ではなくなっていた。
逆に、労働の中で、彼女の手は強くなった。
彼女の顔も、変わった。
支配されていた時の、死んだような顔ではなく。
毎日を生きている、輝く顔。
二年が経つと。
旅籠の常連たちは、エレーナを一人の大事な人間として扱うようになった。
彼らは、彼女の相談し意見を求めてくるようになった。
「エレーナ、この色の布、どう思う?」
「エレーナなら、どうする?」
そんな問いかけを受けるたびに、エレーナは満たされていくのを感じた。
自分の判断が、相手に影響を与える。
自分の労働が、相手に喜びをもたらす。
その喜びが、彼女を毎日、旅籠へ向かわせた。
三年が経った時。
エレーナは、初めて自分で働いた金でドレスを買った。
鏡に映っているのは、レクサーの妻ではない。
誰の支配下にもない。
ただの、エレーナ。
一人の女性。
自分の人生を生きている、その女性だった。
エレーナは、鏡の前で、一筋の涙を流した。
※
一方、王都では。
エレーナが忽然と消えたことで、社交界は騒ぎになっていた。
最初、レクサーは「妻が故郷に帰った。療養のためだ」と発表した。
だが、数ヶ月たっても、妻は戻らなかった。
「妻が、家出をした。浮気相手を求めてのことだろう」
彼は、そう言い張った。
だが、その言葉は誰の信頼も得られなかった。
何人かの部下が、真実を語り始めたからだ。
レクサーが妻に対して、どのように接していたのか。
食事の時間を限定したこと。
外出を禁止したこと。
友人との付き合いを禁止したこと。
さらには、機嫌が悪い時は何日も食事を与えなかったこと。
その全てが、王都の上流階級の耳に入り始めた。
「あの男は、妻を奴隷のように扱っていたらしい」
「支配していたんだ。妻はその支配から逃げ出したんだ」
「妻に暴力を振るったという話もある」
うわさは、雪だるま式に大きくなっていった。
王族からの信頼は失われた。
レクサーに政治的な立場はなくなった。
同僚の貴族たちは、彼を避けるようになった。
何かに関わると、自分たちの評判も落ちるという懸念があったからだ。
家族も、彼から距離を置き始めた。
「あのような者は、我が家の恥だ」
兄が公然と言った。
母親も、彼への手紙を送ることをやめた。
父親は、彼を家から追い出すことを検討し始めた。
レクサーは、妻を探させた。
何度も何度も。
探偵を雇い。莫大な金をかけた。
情報屋に金をばら撒いた。
だが、妻の痕跡は、どこにもなかった。
彼女は、王都から完全に消えたのだ。
三年が経つと、レクサーは完全に孤立していた。
部下たちは、彼の命令に従わなくなった。
社交界での招待は来なくなった。
かつての友人たちは、彼を見ても目をそらした。
彼は、王都の片隅で、誰からも信頼されない、廃人のような生活をしていた。
毎晩、酒に溺れ。
毎日、妻のことを考え。
ただただ、自分が失ったすべてに、思い知らされ続けていた。
「あの女は、どこだ。あの女は……」
その言葉が、彼の口癖になっていた。
三年半後。
レクサーは、王都を離れることを決めた。
もう何もかもが、終わったのだ。
地方の領地に隠遁する。
二度と社交界に出ない。
そう心に決めて、彼は王都を出た。
だが、その前に一度だけ、妻について情報を追った。
妻が地方の小さな村で働いているという情報が入ったからだ。
確認したかった。
エレーナの現在を。
そして彼女が、自分を必要としているのではないか。
そのような、儚い期待がレクサーにはあった。
「黄昏の灯」という旅籠に到着したのは、夕刻だった。
窓の中を覗いた。
その瞬間、彼の心は完全に砕け散った。
屈託のない、心から出た、彼が見たことのない、そんな笑顔で、エレーナは給仕をしていた。
その顔は、レクサーの家にいた時のそれではなかった。
暗い。支配されている。恐怖に満ちた顔ではなく。
明るく。自由で。本当に幸せそうな顔だった。
客たちが、エレーナに感謝を述べていた。
「エレーナ、今日も本当にありがとう。君のスープなしに、この旅籠は成り立たない」
その言葉に、妻は心から笑った。
「こちらこそ。いつも来てくれて、ありがとうございます」
その笑顔に、レクサーは初めて気づいた。
妻は、彼の元にいた二年間、一度も笑ったことがなかったのだ。
あったのは、彼の前での、作られた、気味の悪い微笑みだけだった。
あるいは、何の感情も浮かべない、死んだような顔。
だが、ここで、妻は笑っていた。
本当に笑っていた。
支配も強要もない、純粋な労働の中で。
身分も財産もない、低い仕事の中で。
妻は、自分を失う前の夫の元よりも、ここで幸せなのだ。
レクサーは、旅籠の中へ入った。
妻に会いたかった。
話したかった。
何を言うか、分からなかったが。
だが、妻が彼を見た瞬間。
妻の顔の色が、完全に変わった。
恐怖。
戸惑い。
そして、その次に来たのは——
軽蔑だった。
「……何しに来たのですか」
その声は、冷たかった。
レクサーには、それがどのような冷たさなのか、理解できなかった。
「エレーナ。俺は——」
「私をあの場所に連れ戻すために来たんですか」
妻の質問は、淡々としていた。
だが、その中に含まれた軽蔑は、レクサーの心を刺し通した。
「いや、俺はただ、お前がどうしているのか気になって」
「なんですか、それ。いつも言っていたじゃないですか。結婚する相手を間違えたって。私みたいな能無し、放っておいてください」
「何言って……」
「近づかないでください!」
覚束ない足取りでエレーナとの距離を積めるレクサー。
エレーナは甲高い声をあげて、身を縮こめた。
旅籠の主人・フィンが、レクサーに近づく。
「申し訳ありませんがお引き取りくださいますか」
フィンの言葉は、丁寧だったが、強い拒絶を含んでいた。
レクサーは拳を振るわせながら旅籠の外へ出た。
夜の暗さが、彼を包み込む。
窓から聞こえる、妻の声。
旅籠内の、温かく、楽しい雰囲気。
その現実が、レクサーにとって、何よりも耐えられない現実だった。
レクサーは、その後、王都に戻った。
だが、彼の心は、もう、どこにもなかった。
自分の所有物だったエレーナはもういない。
彼女は、自分より低い身分の者たちと一緒に、幸せに暮らしていた。
それは、レクサーにとって、何よりも耐えられない現実だった。
彼は、酒の量を増やした。
毎晩、酩酊状態で、妻のことを呟いた。
「くそ……あの女……」
その後の五年間、レクサーは王都の屋敷の中で、静かに朽ちていった。
もはや誰も彼を訪ねることはなかった。
家政婦たちは、彼の最低限の世話をするだけ。
彼は、朝から晩まで酒を飲み、妻の面影を求め、そして絶望した。
四十代のはじめで、彼の身体は老人のそれになっていた。
肌は萎びて、目は濁り、手は震えていた。
医師は、彼を見る度に首を振った。
肝臓が破壊されている。
もってあと数ヶ月だろう。
レクサーは、その医師の言葉を何とも思わなかった。
むしろ、死が近いことに、かすかな安堵を感じていた。
最後に、彼は一通の手紙を書こうと考えた。
エレーナへの手紙。
だが、ペンを握る手も、もう安定しなかった。
字を書く気力も、何を書くか決める思考力も、残されていなかった。
結局、彼は何も書かなかった。
ただ、暗い部屋で、酒を飲み続けた。
妻を支配していた時間よりも長く、妻に支配され続けながら。
ある朝、家政婦は、彼がベッドで息をしていないことに気づいた。
王都の貴族として、彼には立派な葬式が営まれた。
だが、参列者は数えるほど。誰も、彼の死を悼まなかった。
※
朝日が差し込む旅籠の厨房。
エレーナは、湯気の立つ鍋の前に立っていた。
今日のスープは、野菜をたっぷり入れたものだ。
この季節、この村で採れる野菜を知り尽くしている彼女だからこそ、作れる一杯。
「エレーナ、今日も美味しそうだな」
常連客が、厨房の扉から顔を出した。
彼は毎朝、同じ時間に現れ、同じ席に座る。
もう五年の付き合いだ。
「ありがとうございます。もうすぐ出来上がりますよ」
エレーナは、笑顔で答えた。
その笑顔は作られたものでもない。
彼女の心がそのまま顔に映ったものだった。
そして彼女の目は、輝いていた。
レクサーに支配されていた時代の、死んだような瞳ではない。
毎日を生きている、光に満ちた瞳だった。
窓の外では、朝日が村全体を照らしていた。
遠くから、鳥の声が聞こえる。
エレーナは、その景色を見ながら、スープをすくった。
味見をする。
塩加減はちょうどいい。
奥深い味わいが出ている。
彼女は、満足して頷いた。
フィンが、テーブルを拭きながら側に来た。
「良い朝ですね」
彼の言葉に、エレーナは同意した。
「ええ。本当に」
湯気が立ち上る。
その香りは、多くの客たちの心を満たしてきた。
彼女は、それを常連客の元へ運んだ。
「本日のスープです」
「ああ、ありがとう。いただきます」
客が、スープを口にする。瞬間、彼の顔に笑みが浮かぶ。
「毎回思うが、本当に美味いな」
「ありがとうございます」
エレーナの心が温まる。
彼女が求めていたのは「必要とされること」だった。
支配的ではなく。
強要的ではなく。
純粋な、感謝に基づいた「必要」だった。
人生は、誰に支配されるかではなく、自分がどう生きるかで決まるのだ。
朝日が差し込む旅籠で、彼女は確かに幸せだった。
もう二度と、その光は失われることはないだろう。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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