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信じられないことにバイト希望の女性がやってきたのは、募集の張り紙を出した翌日だった。求人誌にも載せず、あのシンプルな張り紙で希望者が来たのには驚くばかりだ。
ちょうど今その女性が目の前にいて、店の片隅に置かれた椅子に座って面接を受けている。癖のないストレートの黒髪が頬を覆っており、凛とした二重の瞳がいかにも理知的な印象だ。
「え、えーと。小田涼音さんね。あの、よくこのお店に来てくれていますよね」
彼女の顔をまじまじと見る。やっぱりそうだ、彼女は週に二、三回やってきて、うちのケーキを購入していってくれているはず。
「はい。私、カンフリエさんのケーキが大好きなんです」
小田さんはにこやかな顔をして答える。
「ありがとうございます。えっとそれで、いちおう志望動機を聞かせてもらってもいいですか?」
「はい。私、お菓子作りが趣味で、自分でもクッキーを焼いたり、ケーキを作ったりしているんですけど。自己流なので、できればプロの方に習いたいと思っていまして。こちらのお店のケーキは美味しくて大好きなので、張り紙を見て思い切って応募したんです」
なるほど。受け答えもしっかりしているし、澄んだ声に衣服のセンスもいい。何より人目を惹く美貌の持ち主である。これだけでも十分に採用の理由にはなるのだが、さすがにそれだけでよしとするわけにはいかない。曲がりなりにも一緒に働くのだから、もっと訊いておかなければならないことがある。
──と思っていたところへ、買い物から帰ってきた母が席に割って入ってきた。
「あら、この方は?」
「あ、お母さん。バイト希望の子だよ。小田涼音さんっていうんだ」
「採用」
母はにっこり笑って即答した。え、なにそれ。まだ質疑応答の途中なんだけど。
私は異を唱えようとして結局止めた。どちらにしろ母の意見が正しいだろう。根掘り葉掘り志望動機やら訊くよりも、とっとと雇って彼女を囲ってしまった方がよいに決まっている。この先、張り紙一枚でバイト希望者が来るとも思えないし。
そんなこんなで、小田さんの採用はあっさり決まった。私が「これからよろしくね」と手を差し出すと、彼女は微笑んで、
「こちらこそよろしくお願いいたします」
と握り返してきた。
小田さんにはさっそく現場に入ってもらうことになった。彼女はグレーのいかにも高級そうな仕立てのいいコートと厚手のセーターを着ていたが、それを脱いでもらい店のロゴが入ったエプロンを手渡した。ブルーが基調で「カンフリエ」と白いカタカナがあしらわれている。
彼女にバックヤード──といっても我が家の廊下なのだが、そこで着替えてきてもらい、二人でカウンターの中に入った。
「私は何をしたらいいんでしょうか?」
手を洗ってアルコール消毒した後、小田さんが尋ねてくる。
「えと、母、いえ店長が店番をしているので、私たちは厨房でケーキを作ります」
「はい、お願いします」
小田さんは清潔にまとめた髪を揺らして深く頭を下げた。それから二人で厨房に入り、熱せられたオーブンからケーキのスポンジ部分を取り出す。ここにクリームをコーティングし、飾りつけをしていくのだ。
まずは丸型のスポンジに濡れ布巾を被せる。そして冷めたら型から外しラップで包み、冷蔵庫で一時間ほど休ませる。
その間にもやることはたくさんある。リンゴ、オレンジ、ストロベリーなど、フルーツのカットだ。それもホールのフルーツケーキ十個分もある。
私がそれらを形良くカットしていくと、小田さんも見様見真似でカットし始めたのだが、丁寧なうえにやたら手際がよい。これは素人の趣味の域を超えている。手早さではこの道十年の私も負けていた。
カットの次はシロップ作り。さらにその次はホイップ作りだ。ボウルに生クリームを入れ、ハンドミキサーで少し泡立てる。その際、砂糖、レモン汁を投入したのちにしっかりと泡立ててゆく。
そうした工程を小田さんは一通りメモしてからボウルを取り出し、私と同じように生クリームを作り始めた。これも大変テキパキとこなしてゆく。
次はいよいよデコレーション。冷蔵庫から冷やしたスポンジを取り出してシロップを塗り、生クリームも塗って、その上にフルーツを乗せていく。一番下の段にはマスカットを散りばめ、二段目には苺を散りばめる。
こうして三段重ねのスポンジができたところで、前後左右にまんべんなく生クリームを塗っていく。ちなみにこの生クリームは自家製でお客様の評判もよく、自慢の品だ。
クリームを塗り終えたところで、残りのクリームを絞り袋に詰めて見た目良くデコレートしていく。斜め直線にクリームをデコレートするのがうちのやり方である。
真ん中の窪んだところにはリンゴ、オレンジ、苺、マスカットを見栄え良く飾り立てる。これで生クリームのフルーツケーキの完成だ。
「ここまでできるかな?」
私が問うと、小田さんは頷いた。そうして、黙々とクリームとフルーツをデコレートしていく。その出来ばえは、私が作ったものと見分けがつかないほどだった。
ああでもない、こうでもないと指図するまでもなく、作業風景をメモしながら見ていただけなのに、いきなりプロ級のホールケーキを完成させてしまった。
私はしばし呆然とするも、口の端を上げ、ついでに片手を差し伸べる。
「すごいよ、小田さん」
称賛を小田さんはなんのことか図りかねていたようだったが、やがて照れながらも無言でこくりと頷きつつ、手のひらをぱちんと合わせた。
それからは流れ作業だ。十個のホールケーキを次々とデコレートしていく。結果的に小田さんが六個作り、私は四個作った。手際よさと完成度でも、家業を継ぐ私が小田さんに完敗してしまったのだ。それでも、不思議と悔しさは感じなかった。
ちょうど十個のホールケーキを作り終え、次はガトーショコラを作ろうとしたところで母が来た。そこで私たちが接客に回り、母がケーキ作りの方に回った。小田さんには接客もマスターしてもらわなければいけない。この交代のタイミングの取り方が絶妙で、母の熟練したケーキ屋さんの腕が垣間見えるところだった。
レジに入って接客の心得を小田さんにレクチャーしていると、さっそくお客様がやってきた。近所の奥さんで、このお店の常連さんだ。自他ともに認める甘党の彼女は、ショーウインドーに入っているケーキを見渡し、矢継ぎ早に注文した。
「モンブラン二個にザッハトルテ一個、ショートケーキ一個でお間違いないでしょうか?」
小田さんは少し教えただけなのに、そつなく対応している。
「ええ、それで間違いないわ。ところで飛鳥ちゃん」
「はい、なんでしょう?」
「この前の新作ケーキ、美味しかったわよー。やっぱりケーキはこの辺じゃここが一番よ」
奥さんはにこにこ顔でそう褒めてくれた。
「ありがとうございます!」
私は笑顔で一礼しながらレジを打つ。こうしてここのケーキを褒められるのは嬉しいもので、自然と笑みがこぼれる。
小田さんは丁寧ながら手際よく箱にケーキを詰めていき、奥さんに手渡した。
それにしても小田さんには恐れ入った。箱詰めも教えるまでもなく完璧だったし、お客様との対応も良好。あと、教えるのはレジの打ち方くらいであろうか。
お客様は途切れることなく、入れ替わりにおばあさんがやってきて、その次にはビシッとスーツを着こなしたサラリーマンさんがやってきた。この方も常連で、男性にしては珍しいと思うほどの甘党なのだ。
「お、君は見ない顔だね。新人さんかい?」
「はい。小田涼音と申します」
小田さんは上品にお辞儀をする。彼女の愛想の良さにやられたのか、常連のサラリーマンさんは相好を崩し、ケーキを十個も買っていってくれた。
やがてお昼になり、ケーキを作り終えた母が店番をすることになったので、私たちは休憩を取ることにした。キッチンで昨日作ったカレーに火を入れ、五分ほど煮込む。それを二人分取り分けてトレーの上に載せ、自分と小田さんの前に置いた。
「私も食べていいんですか?」
小田さんはきょとんとしている。
「遠慮なくどうぞ」
私が勧めると、小田さんはひとくち食べて「美味しいー!」と絶賛した。
私もカレーを口にし、食べ終えてから改めて小田さんの履歴書に目を通してみた。彼女は私の偏差値ではとても手の届かないほどの名門・美苑大学に在籍中だった。なるほど、彼女の佇まいからは美苑生らしいお洒落な雰囲気が見て取れる。年齢は二十一歳だった。私よりも一つ年上だ。
「私ったら。小田さんが年上だと知らずにタメ口で……」
思わず口を手で覆う。
「そんな、構いませんから。石川さんはおいくつなんですか?」
「今月二十歳になったばかりなんです。近所の短大に行っていて、冬休みの間このお店でこき使われてます」
「こんないいお店にいられるんだから、羨ましい限りですよ」
小田さんは顔を綻ばせる。
それから私たちは他愛もない話をした。大学生活はどうだとか、あそこのお店のクレープは美味しいとか、好きなブランドのこととか。
ひとしきり喋っているうちに、あっという間に昼休みの一時間が過ぎ去った。小田さんとは気が合うようで、とても楽しいひとときだった。
小田さんは流しに行き、食器を洗う。そこまでしてもらっては申し訳ないと私が言っている間に、彼女は洗いものを終えてしまう。それから二人でお店のエプロンを着て店頭に出た。私たちが接客に入ると、入れ替わりに母が休憩を取ることになった。
出窓からさんさんと優しい午後の陽光が降り注ぐ。その光の心地よさに私は目を細め、太陽を見上げてぐぐっと伸びをした。そうしているうちにまたお客様がやってくる。お馴染みさんとは他愛もない世間話もし、一見さんがショーケースの前で品定めに迷っていると「こちらがお勧めですよ」とオススメをしてみたり。
そんなゆったりとした午後の時間が流れていたのが一変した。乱暴に店の扉が開かれ、下品な笑い声を響かせながら高校生の一団が入ってきた。あの制服──この辺でも有名な不良高校の生徒だ。
長い付け爪をしたギャルっぽい女子生徒は喋ったり迷ったりダラダラと散々ショーケースの中を眺めまわして、ようやく「これちょーだーい」と言った。彼女が指差していたのはブルーベリーが乗ったタルト。
小田さんが丁寧に箱に詰めて商品を手渡すと、そのギャルっぽい女子高生はその場で箱を開けてタルトを取り出し、箱を床に投げ捨てた。そうして一口だけ食べると、彼女はタルトを床に投げつけた。
「まっずー。こんなん客に出すなっての!」
悪態をついているギャルに私は頭を下げ、
「至らず申し訳ございません」
淡々と口にした。こういったマナーの悪い客はたまに湧いてくる。その冷やかしにいちいち付き合っていたのでは、こちらの身が持たない。営業に関わらない範囲でそれらしいことを言って、あしらって早々に退散してもらうのが望ましい。
そうであるのだが、母が作ったケーキを無碍に扱われて腹が立たないわけがない。口では平静を装っていても、心の中では怒りが渦巻いていた。
そこに、ダン!! とレジ台を叩く音が響いた。振り返ると小田さんが美しいまなじりを吊り上げていた。
「あなたたちには、ここのお店の味は早すぎるわね。もっと大人になってから出直してきなさい!」
そう一喝すると、一人の男子がつかつかと小田さんに近寄った。
「おい、客に対してなんだよ、その態度は!? 店員の分際でよ!」
自分の怒声で勢いづいた男子が小田さんの胸倉を掴もうとした瞬間、彼女はおもむろにレジを開け、ブルーベリータルト代金四百三十円の小銭を男子高生の顔面に投げつけた。
「いてえ! 調子に乗ってんじゃねえぞ!!」
小田さんは黙ってその男子を睨みつけた。恐ろしく鋭い眼光が、女子の前で粋がりたい盛りの男子の相貌を射抜くように突き刺す。
時間にすれば数秒だっただろう。長く長く感じる睨み合いが続いた末、
「ちッ! 行くぞ」
と、根負けしたのを舌打ちで誤魔化すと、彼とその取り巻きたちは再び乱暴に扉を開けて、店から出ていった。
事なきを得たということでいいのだろうか?
意地を通した小田さんを見ると、まだ怖い顔をしていた。
「私、カンフリエのケーキが大好きなんです。それなのに、床に叩きつけるなんて……あんな風に侮辱されるなんて耐えられなかったんです……ごめんなさい」
私だってそうだよと心の中で呟き、無残な姿を晒すタルトを拾ってゴミ箱に入れ、ブルーベリーソースのついた床を雑巾がけした。
ふと床から彼女を見上げると、小田さんは凛とした風情で立っていた。粗暴を絵に描いたような連中を前にして一歩も引くことがなかった、その彼女へ私は尊敬の眼差しを向けていた。
小田さん。お姉さんっぽくて、それでいて毅然としていて──それはまるで、私の……。
と、ここで私は首を振った。そんなことはあるはずもない。彼女が私の理想としている人に近いなどということは。第一、小田さんは女性ではないか。
そこで、小田さんはようやく興奮状態から我に返ったように、私のそばに駆け寄って一緒に雑巾がけをしてくれた。丹念に、丹念に。
その眩しい横顔が私の視界に入ると、否が応にも胸の高鳴りを感じてしまうのだった。




