ヤーウェ〈間奏〉
この作品は完全オリジナルで、特定の宗教、国は関係ありません。
日陰を作るための布が千切れるほどはためき、焼け焦げてしまいそうだ。陽を避けることが出来たらどれほど幸せだろう。
砂漠を吹き渡る風が今日も荒れている。
風の音もまた、何かが鳴いているように聞こえる。叫び声が頭上を通り抜けて行くのだ。砂塵で空の色も濁っているに違いない。
あの日――息子のカダルがカルマトの次期族長であるアーヒラを殺した。
それから幾度陽が登り落ちたことだろう。けれど荒んだ風――熱を孕み打ち付けて来るものは我がイスマイールから離れないようだ。心に刺さる棘は痛いのか哀しいのかよくわからない。
ただ黒すぎる影が周囲に落ちている。
「敬愛するイスマイールの長様」
爺が夕刻になると塩を溶かした白湯を寝室まで届けてくれる。
だが身を縦には出来るが立ち上がり受け取ることは無理だった。脚に力が入らない。きっと棘が刺さったままなのだ。呪術師で取ってもらいたいが、それも何やらおっくうだった。息をすることも面倒な気がするし、第一、呪術師はイスマイールには縁起が悪い。
少し笑い、長は爺の方へ顔を向ける。
爺がいなければ一日中臥せり誰ともしゃべらないだろう。
「敬愛するイスマイールの長様」
爺がまた心配そうに呼ぶ。
爺は長である自覚を持って欲しいのだろうが、完全にあの日からカダルの父に戻っていた。
ヤーウェは三つの部族で成り立っている。その中でイスマイールは尊敬を集め、たぶん一番大きな部族だろう。武闘派と呼ばれるカルマトと事なかれ主義のドルーズと上手くやっていたと思う。
息子であるカダルがカルマトとやり合ったのはまだ信じられない。口は悪いが気さくな人柄は思いやりにあふれ、次期イスマイールを統べる器量があったと思う。
珠洲の村に対しても敬意を払い、捕虜に対しても優しく接していたと聞く。そのカダルが簡単に人を殺すとは思えない――たとえ近く決闘が行われるとしても先に相手を倒すなどという恥は侵さないと信じている。
現に現場に居た爺もカダルが殺した瞬間は見ていない。目の前にあったのは血まみれの懐剣を握っていたカルマトのシーアの姿だと言う。おそらくあの女がやったのだろう。そうは思うが、握っていたからと言ってシーアが即犯人だとは断じることは出来ない。イスマイールの紋章の入った懐剣はカダルの物だ。カダルが刺し、シーアは抜いただけと言われればそれで成り立つ。
「む……」
イスマイールの長は喉の奥からくぐもった声を出した。
自分の中から怒りが込み上げて来る。息子が罠に掛けられたことを怒っているのではない。今の自分にその冤罪を晴らす力がないのが腹立たしいのだ。
完全にカルマトの――いや、シーアの一人勝ちだ。
長は臥せったまま、渡された塩水を一気に飲んだ。喉が渇いていたがヒリヒリとした痛みと苦みを感じる。噴きこぼれるような怒りが味覚を変えてしまったようだ。
「まずいな……」
「敬愛するイスマイールの長よ。申し訳ありません」
「いや、違うんだ」
「しかし――」
「考え事をしていた。すまん。……塩は」
「は?」
「そう言えば塩はいくら備蓄があった?」
長は自分から血の毛が引くのがわかった。半ば忘れていたが珠洲の村である聖地を通らなければ塩の貿易は出来ない。こうして白湯に溶かして飲むだけの量はまだあっただろうか。それは民に十分いきわたるだけのものなのか。
砂漠のどこかのオアシスに塩湖があったと聞いたことがあったが詳しい場所はわからない。
現在、山への道はカルマトが封鎖しているようだが、それは国に取っての損失だ。すぐにでも解除し輸入せねば足りなくなるのは必須だ。
「……」
しかし今日の三部族会議にもイスマイールは呼ばれなかった。たぶんカルマトが中心になって仕切っているはずだ。
今のイスマイールは言いたいことも口にできない。議題にすら提案できないのだ。
イマーム(指導者)は持ち回りでドルーズの長がやっているが、指導者というより単なる司会者のようになっているという噂だ。平和な時のドルーズは頼りになるイマームだがこうした問題が起きた時は話にならない。
温厚なドルーズの長はシーアに踊らされていることだろう。
この前、シーアの渾身の演説を聞いた。聞こえるということはイスマイールの屋敷近くでやっているということだ。許可なく他部族の地で集会をやるのは許可制だが、それもあっさりと破ってくれた。
「――アーヒラは私の腕の中で亡くなったのです。最後に私にの微笑みかけてカルマトをこの国を頼むと」
彼い女の紅い唇から発せられるものは、よく透る声だった。
計算して作られている話だった。
爺はあの場での会話は成立していなかったと言っていた。確かに喉を掻き切られたのだからそれほど言葉なんて発せないだろう。
が、民は真実ではなく涙ながらにアーヒラの名を呼ぶシーアに引き込まれるのだ。
「――カダル、私はあなたを許しません!」
もしこれが本当ならばイスマイールの長はその地位を下りなければならないだろう。罷免などではなく次期部族長の責任を取り、一族すべてがこの国からの追放だ。追放とは言うが、砂漠では生きてゆけず結果的には自害しなければならなくなる。名誉なき自死だ。
そして長を無くしたイスマイールの民は解体され今のままだとカルマトに吸収される。カルマトは実質二倍の人口と権力になるわけだ。
「……」
ただ裁判すら開かれていないのに一方的に責められるのは納得がいかない。
アーヒラを殺してイスマイールに利はない。利と言えばむしろカルマトの次の族長にシーアの息子がなるのだから。
そう考えた途端、イスマイールの長に冷たい汗が流れた。
そうか。
やはりそうなのだな。
シーアという女は〈恐ろしいほど美しい〉と評判だった。が、今は〈美しいが怖ろしい〉と思う。呪術師特有の吸い込むような黒目がちな眼差し。あの眼に狂わされた男は多いだろう。いつもしっとりと濡れている唇に惑わされた男も多いはずだ。カルマトの長ですらあがらうことが出来なかったのだ。
そのカルマトの長だが、長男であったアーヒラが亡くなり、すっかり気の抜けた老人のようになり下がったらしい。武闘派で知られた彼が一日中閉じこもブツブツと声なき声を上げているそうだ。
もっともイスマイールの長である自分も閉じこもってはいるが。
「……敬愛するイスマイールの長様」
爺と向かい合っていると侍女が出入口で深々と頭を下げている。
気のせいか頭のベールが小刻みに揺れている。
「どうした? 入りなさい」
爺が不審がって声を掛けた。
「いえ、あの――」
侍女が言いよどむのも珍しいものだ。と、思っていたらその原因がわかった。「入らせてよ。お話があるの」と後ろから勝ち誇った声が響いたのだ。
「……」
「三部族会議で決まったこと、伝えにまいりましたの。カルマトの義務ですから」
鼻にかかった甘い声で残酷に吐き捨てるのはシーアだ。つんと顎を上げると、イランイランの香りが周囲に流れた。
「あ、ご機嫌いかがでしょうか。け……敬愛なるイスマイールでしたっけ?」
彼女は唇を抑えおほほと笑った。
「イマームと珠洲の村について話し合いました。ご子息のカダルのこともね」
「……」
「今すぐにでも村に逃げた者も捕まえ監視下に置きたいのですけど、アーヒラの葬送の儀にも時間がかかりましたでしょう。結局、相手に準備する時間を与えてしまいましたわ」
「――準備?」
「ま。ご存じなかったんですの? 登山道に罠が掛けてあるようです。岩の投てきと落とし穴が確認されましたのでカルマトは引き上げております。窮鼠猫を噛むということもありますしね。罠自体はたいしたことがない原始的なものですわ。でもやはり……ねえ」
「念には念を入れるということか。まあそうだろう。珠洲の村はデンジャーの薬を唯一創れる村だしな」
カルマトとすればカダルは殺しても、あの珠洲の村の薬師は怪我なく手に入れたいだろう。
研究所設立を失敗したがために、強く出られないだろうが。
「それに腐っても御山は聖地だ。珠洲の村以外の者の立ち入りは怒りを買うだろう」
「あら。敬愛するイスマイールの長が迷信を?」
「……現に山の樹木が建築の邪魔をしたと聞いておるが」
「存じておりませんわ」
シーアは形のよい唇の口角を上げた。
都合の悪いことは知らないフリを押し通すらしかった。
「それよりも貿易をどうするかだ」
「はい?」
「まだいくらかは蔵にあるだろう。だが山が罠だらけではゴッドラムへの道は閉ざされたも同然だ。塩が無くなれば民の命に関わるだろう」
イスマイールの長は長い溜息をつき、なんとか上半身を起こした。意地だ。
「……珠洲の村と和解せよ」
「無理ですわ」
シーアは即答した。
「向こうには罪人がいます。匿えば同罪。それに珠洲の村は我々ヤーウェの傘下にあります。命令に従うべき存在に和解はありえません」
「……また民を殺す気か」
「アーヒラを殺したのはあなたの息子、カダルでしょ」
シーアは勝ち誇った笑みを崩さない。
イスマイールの長は身体の痛みと心の辛さで手が震えた。
しばらく睨み合いが続いた。
話し合いで和解をしたいイスマイール。
力で押し、村を吸収合併したいカルマト。
目を反らしたのはイスマイールの長だった。次期族長のアーヒラを殺したのがこちらとされているだけに無理は言えない。
力関係はもうあってなきがごとしなのだ。
「―――大変です、シーア様」
時間が止まったかと思ったが、どうやらシーアのお付きの侍女がそれを動かしてくれたようだ。
細く堅い声の女が転がりながら部屋に入って来た。
「何よユグノー。良いところだったのに」
女は白い髪、赤い目をしていた。
そういえばゴッドラムの女を助けたとか聞いたことがあった。どうしてここに居るのかはわからないが。
「だからどうしたのよ。帰ってから報告しなさい!」
「……それが……」
「何よ!」
「サソリが――サソリが……城壁に開いた隙間から内部に侵入し来て……」
ユグノーと呼ばれた女は全身を震わせながら「二対の鋏角と尾が二本あって」と報告し、「気持ち悪い」と何度も口にした。
「デンジャーだっ!」
イスマイールの長は思わず叫んだ。
デンジャーが国に侵入して来たのだ。
恐れていたことが始まってしまった気がした。
読んでいただきありがとうございました。




