悪意はいつどこにあるのかわかりません10
特に何も起こらないまま美術の授業が終わり、安堵とも落胆とも似た気持ちで教室を出る。
よく考えたら、絵画や壺を「使う」って難しい。
身代わりの魔術が掛かっている魔力画であれば、身の危険を感じたときが「使う」場面なのだろう。壺を使うというのは、中に水を入れたり花を生けたりすることだろうか。絵画に至っては、鑑賞することくらいしか使いどころがわからない。とりあえず、今の授業で「使う」という行為にはならなかったようだ。
廊下に人が多くなってきたので、一階に降りて水場を探す。中庭に小さな噴水を見つけたので、とりあえずそこへ近付く。中庭は人が少ないので、ミュエルが出てきてもすぐ見つけてもらえるだろう。
噴水の中央には、壺を持っている水の妖精の石像が置かれている。その壺から流れ落ちた水が、妖精の足元に溜まっていた。水が溜まっている所は大きな杯のようになっている。
妖精の頭は私の背丈よりも少し高いくらいで、杯も豪華な夜会ドレスの円周くらいしかない。小ぶりな噴水だ。
その水面を掬うように壺を入れて、なみなみと水を汲む。
壺の中にできた水面は揺れて、そしてじわじわと低くなっていた。
外側を見ると、ポタポタと水滴が垂れ続けている。よく見るとヒビが入っていてそこから水が漏れ出していた。
「……」
壺の役割を果たしていない壺は、壺といってもいいのだろうか。
哲学的な疑問が湧いた。
やはり、これらはただの物なのだろうか。
私の乙女ゲーム知識とは何の関係もない、ただの所持品というだけで、何の機能もないのだろうか。
冷静に考えれば、専用アイテムだの出会いのきっかけだの、そう上手いこと作り出せるような物があるわけがない。そんな魔術もきっとないだろう。
けれど、そうやって諦めてしまうのは、私にとって怖いことだ。
乙女ゲームについての知識が架空のものなら、それを信じ込んでいる私はかなり変な人間だ。誰かに話したら、どうかしていると思われるだろう。療養という名目で領地から出られなくなるかもしれない。
それに、もし私の持つ知識が何の意味もなさないのであれば、私は今直面している事件に対する対抗手段を一切失うことになる。
ただ理由もわからず狙われていて、そして身を守るための術もない、状況を打開できる力もない。そんな状況にいるというのは、身の危険を感じる以前にとても精神に悪い。
せめて何か、私にもどうにかできる可能性がある、と信じていたいだけなのかもしれない。
水が溢れ続ける壺を眺めながら考えていると、いきなり私の隣に人が立った。
「リュエット嬢」
「わっ」
低い声に驚いて、壺を取り落とす。いびつな壺は妖精の足元に広がる水の中にそのまま沈んでいった。
振り向くと、すぐ近くにサイアンさまが立っている。驚いたせいで自分の心臓の音がばくばく鳴っているのがわかった。
「サイアンさま」
「すまない、驚かせたようだ」
「い、いえ」
こん、と小さな音が聞こえた。どうやら私の壺がそのまま水底に辿り着いたらしい。
小さい噴水だけれど、その底から壺を取り出そうと思えば制服の袖をうんと捲る必要がありそうだ。混乱する頭でちらりとそう思った。
サイアンさまの焦げ茶の目が、私の視線を辿って噴水へと向く。
「何か落としてしまったか? 手を濡らしているようだが」
「いえ、あの、大丈夫です。あとで庭師の方に取ってもらうのでお気になさらないでください」
「これで拭くといい」
きびきびした動作で差し出されたのは、サイアンさまのハンカチだ。真っ白な布はぴったりと正確に折られプレスされて、紙のようにも見える。角にはマドセリア家の紋章が刺繍されていた。
「いえ、大丈夫ですから」
「濡れたままではよくない」
ずい、と押し付けられて、私は一歩下がりながらお礼を言った。糊のきいた生地を濡れた手に当てる。
貸してもらったからには、きちんと洗って返さないといけない。お礼も付ける必要があるだろう。そう考えると、親切にしてもらったのにちょっと憂鬱だった。
サイアンさまに対する訝しみが消えないからだ。
ミュエルはヴィルレリクさまに対して怪しんでいるけれど、これまでのことを思い返してみると、私はサイアンさまのほうが不審に感じる。
それまで話したこともなかったのに、最近はよく姿を見かけ、そして話しかけられていた。やんわりと断っていることは伝わっているはずなのに、何度も外出やお茶に誘ってくる。
マドセリアで行われるお茶会についてもそうだ。展示会での無礼に対する謝罪というには不自然というか、誘いが少々強引に感じる。
「あの……、綺麗にして返したいと思います。ありがとうございます」
「気にしなくていい」
「いえ、汚してしまったので、お詫びもしたいですし」
「詫びというのであれば、これをあなたに受け取ってほしい」
そう言ったサイアンさまが私に差し出して見せたのは、綺麗なエメラルドのブローチだった。中央には角をカットされた長方形型のエメラルド、そして周囲には色とりどりの小さな宝石が配置されている。ちょうど鶏の卵くらいのブローチは、どう見ても年代物で、どう見ても高そうだった。
何これどういうこと。
「え、あの、サイアンさま?」
「ヴィルレリクからは何かを受け取っているようだ。私からの気持ちも受け取ってほしい」
「待ってください、こんな高価なもの、とても受け取るわけにはいきません!」
「価値は気にしなくてもいい。リュエット嬢、どうかあなたに持っていてほしいのだ」
気にしなくていいわけないでしょ。うちの馬車何台分なのコレ。
私は高速で首と手を振りつつ後退りした。しかしサイアンさまは、私が下がった分だけ距離を詰めてくる。背が高く体格の良いサイアンさまに迫られるとちょっと怖いし、その手に持っているものを押し付けられると思うともっと怖い。
「すみません、本当に申し訳ありませんが、お断りいたします」
「リュエット嬢。どうかお願いする」
「リュエットー!」
「ミュエル、あの、すみません、友人が来たので私はこれで」
校舎の方から聞こえてきた声を天の助けとばかりに私は逃げ出そうとする。
しかし、サイアンさまの方が動きが素早かった。私の手首を掴み、そのまま私の手の中にブローチを入れて握らせる。そして素早く距離を取った。
「失礼。どうか肌身離さず持っていてもらいたい。では」
「えっえっ、サイアンさま!」
体を鍛えている人は動きが速い。私が反応する前に、サイアンさまはさっさと遠ざかっていってしまった。
手の中に残ったものとその後ろ姿を交互に眺めて呆然とする。
「リュエット、大丈夫? どうしたの?」
「……サイアンさまが……」
手に感じるずっしりとした重たさに、私は思った。
もしかして、これが壺の効果による、キャラ専用アイテムなのだろうか。




