モブ令嬢と王様の魔法薬(後)
帰国後は、籍を抜く為に即座に子爵領の神殿に向かった。
成人しているゾーイが籍を抜くのは、子爵を通す必要もなく思った以上に簡単で。
何故あんなに恐れていたのか、と前回が馬鹿馬鹿しく感じられる程だった。
だがそれは逆に『魔術師になる為クナに行きたい』と父に言えたのは、ひとえに留学試験に合格したという前提ありきの事後報告だったからだ、と今更ながらにゾーイに実感させることとなり、身体が震えるのを必死で堪えた。
僅かにでも、自信を付けた気になっていたことが恐ろしくて。
それもクナにいて、ロイがいたからだったのに。
今だって、シルフィアがいてくれたから。
もし普通に帰国の手段を取っており、帰ってきたことが父の耳に入って家に連れ帰られていたら、すぐに心が折れていたのかもしれない。
だとしても。
ようやくこれで全てが終わる──そう思っていた時だった。
対応してくれていた神官が戻ってきた。
先程提出した書類を持って。
「お嬢様、こちらの書類には不備が」
「えっ?」
「貴女はゾーイ・クロンメリン子爵令嬢でお間違いありませんね?」
「え、ええ……」
「身分証を再確認させて頂きます」
「こちらに」
「……ふむ。 失礼ですが、今までどちらに?」
「クナに留学しておりました」
「ああ、成程……申し訳ないのですが、こちらへ」
今の遣り取りにどんな意味があったのかわからないまま、ゾーイのみ別室へ連れて行かれた。
廊下を奥へと進んだ部屋で待っていたのは、彼女も見知った相手……老齢の神官長。
彼から聞いたのは、思いもよらぬことだった。
「──え……?」
まだ公にはなっていないが、既に子爵は父・シドニーから嫡男であるゾーイの弟・ブライアンへと移っているのだと言う。
「驚かれるのも無理はありません。 本当に数日前のことなのですから。 おそらく、連絡が行き違ったのでしょう」
なんでもここ数ヶ月、父は体調不良から家令と弟に執務を任せて伏せがちになっていたそう。『すぐに治る』と本人は息巻いていたものの、薬の影響からかふらついて階段から足を踏み外したらしい。
「そ、それで父は……?」
「……ご存命ではいらっしゃいます。 ただ外部には伏せておりますが、弟君が成人されると共に即座に爵位は移されました」
「………………は、」
漏れたのは、なんの息だっただろう。
ただ、酷く力が抜けた。
この国では女性より2歳早く男性が成人する。弟の成人と共に、という言葉から本当につい最近の出来事だったことを実感する。
「ご家庭に難しい問題があったのであろうことは、なんとなく察しております。 ただ、現子爵であらせられる弟君は、姉君の選択を拒まないでしょう。 老婆心ながら、一度お話しては如何かと」
「神官長様……」
答えを出せないまま俯くゾーイに、神官長はそれ以上何も言わず。先程の書類とペンを渡し、当主の名前の変更を求めた。
「これで貴女の籍は抜けました……なに、先程のはただの爺の戯言と思ってくだされ。 勿論、こちらからは書類の受理報告以上は致しません」
「……ありがとうございます」
当主変更については驚いたものの、何を言われても邸宅に戻る気はなかった。
だが、弟のことは少し気になる。
心配そうに待っていたシルフィアに、概要を話すと彼女も驚いていた。
ロイが暗躍したことで、円満に嫁いだ彼女は実家とも頻繁に連絡を取っている。どうやら寄り親であるエヴェルス侯爵すらまだ知らないか、手紙が届いたくらいのタイミングだったのだろう。
ゾーイは弟の誕生日すらハッキリとは思い出せない。
それくらい関わりのない姉弟だった。
物心ついた時には従順であることを強いられてきたのに、言われたことを真面目にやり家庭教師に褒められるゾーイを、父は『ブライアンが卑屈に育つ』と疎み、離れに追いやったから。
10代前半からは淑女学校に入れられたゾーイと、王都の学園に入れられたブライアンは物理的距離も離れた。
関わらざるを得ない父と、身勝手な愛情を押し付けてくる母とは、良い家庭とは言えないにせよ一応家族らしい交流はあったものの、弟は他人も同然で、言葉を交わした記憶は驚く程少ない。
一番最近の記憶すら、前回の結婚式で儀礼的に言われた『おめでとう』の一言だけ。
最も会話をしたのは、母の葬儀だった。
お互いに無表情で涙もなかった。
会話は覚えていないような短文の遣り取りのみだったけれど、彼がなにか少し驚いて、笑ったことだけは覚えている。
「気になるなら会ってみたらどうかしら。 行くのではなく、呼び出せばいいわ」
「ええ……そうね。 そうしてみる」
その日は領を出る前に、時間と場所を指定した手紙を出してから港近くの街まで戻り、エヴェルス侯爵家が保有する邸宅へ泊まった。ベリル家の商会が一時的に荷を保管する際、よく使わせて貰っている場所らしい。
家に縛られていたゾーイの不安を、本人より皆が理解してくれていることに、涙が出そうになる。
(……ブライアンには、誰かいたのかしら)
きっと、辛いのは自分だけじゃなかった。
少し考えればわかりそうなことを、わかろうともしなかったことに胸が苦しい。
掻き毟るように胸に手をやり歯噛みした。
──とんだ欺瞞だ。
多少思いを馳せてみたところで、それでも自身と……精々身近な人の幸せしか考えておらず、その中に弟は含まれていないのだから。
翌日、赴いた手紙の場所──母の墓の前に、弟は先にいた。
母の美貌を受け継いだ弟ブライアンは、とても中性的だった。今では美貌をそのままに、すっかり背が伸び男性らしくなっている。
前回で見ていなければ、一瞬誰かわからなかったかもしれない。
薄情かもしれないが、母を悼む気持ちはあまりない。この場所を選んだのは、ただ弟との思い出があまりにもなく、他に適当な場所が思いつかなかっただけだ。
「……ブライアン。 来てくれてありがとう」
「ん。 コレ」
籍は抜けたが、余所余所しくも姉として掛けた言葉。拒絶し不敬と言われる想像もしていたが、特に気にした様子もなくブライアンはゾーイに手に持っていた花を渡した。
献花ではなかったらしく、可愛らしくブーケにされた花は貰ってみるとよく出来た造花で、図鑑でしか見た事のない花だった。
「コレは……」
「卒業おめでとう。 学園と、なにより子爵家からの」
「ありがとう……貴方も、おめでとう」
「うん。 ……ふっ」
「不謹慎だったかしら」
「いや、全く。 こんなめでたいことってない」
(ああ……)
やはり、弟も苦しめられていたのだ。
もっと話をして共有すれば、なにか違っただろうか。
「……ごめんね。 姉らしいこと、何もできなかった」
ブライアンは少しゾーイを見てから、墓に向けて視線を落とすと、小さく土を蹴る。
綺麗に整えられ、花で飾られた母の墓を汚すように。
「覚えてる? 葬儀の日。 『僕の顔は母に似てるか』って聞いた僕に貴女は『似てないわ』って言ったんだ」
「──」
言われて思い出した。
思い出せなかった、会話の内容を。
『表情が違うと全く違って見えるのね』
確か、そんな風に続けた筈だ。
「覚えてるわ。 貴方は少し驚いて、笑った。 さっきの貴方みたいに」
「うん。 だから……それで充分だよ。 僕には意味があった」
どんな気持ちでそれを言ったかまでは、ゾーイには思い出せなかった。おそらくは本音であっただろうが、母に対する複雑な気持ちや見た目へのコンプレックスからの否定でもあったのだろう、とは思う。
それでもブライアンがその言葉になにか思うところがあった、というのなら、きっと共有は望んでいない。
大してわかり合わないまま、勝手に受け止めるのでいいのかもしれない。
「僕は貴女が嫌いじゃなかった。もう会うこともないかもしれないけど……姉さんも元気で」
「ありがとう。 ブライアンも」
予定していた時間が余る程、短い邂逅。
ふたりは握手して別れた。
「……もういいの? 随分短かったけれど」
「ええ」
泊まっていた邸宅に再び戻ると、シルフィアの夫であるコルネリウスが朗らかに出迎えてくれた。
ゾーイは彼をジッと見詰め、静かに尋ねた。
「コルネリウスさん、図鑑はお持ちです?」
「──ええ。 少々お待ちください」
コルネリウスは年齢より幼く見える顔立ちで愛想良く微笑む。だがそこには、商人らしい抜け目のなさが窺えた。
ゾーイは宛てがわれた部屋で、少しの間一人にして貰い、図鑑を開いた。
セトルローズ。
とても美しく、ラガリテでは観賞用として割とよく見られる花だが、他国ではあまり見られない。
切り花にすることもあるが、贈る場合は絶対に鉢植え。毒があるので、素手で持つと危険だからだ。
(やっぱり……)
ゾーイは学園で薬学を専攻しなかったので現物は見ていないが、うっすらと覚えてはいた。
触れたらかぶれる程度であり、経口摂取しても簡単に死ぬようなものではないが、自然排出されにくく体内に蓄積されやすい。
長期に渡り摂取すれば、臓器によくない影響を及ぼすことは容易に察せられる。
わざわざ造花を用意していたくらいだ。
元々卒業祝いとして、くれる予定ではいたのだろう。
短い会話の中のブライアンの言葉を、自身に向けた不穏な意味で受け取ることもできるだろうが、そうではないと思う。
(ブライアン…………)
おそらくは正しく祝いの花束であり、同時にメッセージ。
推測でしかないし証明は難しいが、ブライアンは数年前……きっとゾーイがクナに渡る頃から少しずつ、セトルローズを父に与えていたのだろう。茶かなにかに盛って。
──父は、このまま死ぬ。
それが予定より早かったのか、遅かったのかはわからない。
わかっているのは、前回にはなかったこと。
そして、セトルローズがトラキレールで一般流通されていないこと。
ブライアンにセトルローズの知識があったとも、また生花から取り扱えた、とも思えない。
盛ったのがブライアンの任意であれ、誰かのアドバイスと加工品がなければ、できなかったことだ。
「知りたいことはおわかりに? なにかご説明が必要ではございませんか?」
図鑑を返しに行ったゾーイは、コルネリウスからの含みのある言葉に少し迷ったものの、首を横に振り穏やかな笑みで返した。
「いいえ。 ……感謝以外に言葉もありませんわ。 改めて、ありがとうございます」
「お役に立てたなら幸いです」
聞くにしても相手は彼ではない。
また、ずっと後でいいように思う。
(早く、会いたい)
翌日。
行きとは違いゆっくりしたペースで一行はトラキレールを出た。船が進むのは、クナであってラガリテではない。まだロイとは、当面会えない日が続く。
今度はラガリテでの再会を約束し、ベイル夫妻に丁寧に礼を述べたゾーイは、下船した。
そこからの日々は、平穏で、大して代わり映えのしないものだった。
アーノルドの助手としての仕事は、思っていた以上に彼がずぼらでいい加減だったので、意外と大変ではあったけれど。我儘を言って得た職だけに、楽な仕事しかないよりも、ずっと気は楽だった。
「アーノルド先生、また食事を抜きましたね? 私が仕事をしているのは、先生を不健康にする為じゃないんですよ!」
「うるっせぇなぁもう~。 食ってるよ、ホラ」
「携帯食料じゃないですか!」
時間が出来たお陰で、アーノルドは自身の研究が捗るらしく、それは良かったものの……没頭しがちになるので、食事を抜いたり携帯食料で済ましがち。
他にも色々だらしなく、助手になって数ヶ月で、ゾーイはすっかり逞しくなった。(ならざるを得なかったとも言う)
慌ただしく喧騒に包まれた毎日で、ふとした瞬間に自分を振り返り、苦笑する。
トラキレールの価値観に抗いつつも縛られ、良くも悪くも令嬢らしさがいつまでも抜けなかったことに気付いて。
「……なんだよ?」
「いつの間にかこんな小姑みたいになってしまったわ……」
「小姑って(笑)」
「ロイに嫌われたら先生のせいですよ?」
「ないない。 むしろ俺がロイに嫌われたら、そりゃ君のせいだがな? そっちのがあるわ」
「まあ、先生は私に甘いですからね」
「う~ん、否定はしない」
今となってはロイの心配もなんとなくわかるくらい、アーノルドが自分に甘いことをゾーイは理解している。
何故かはわからないが、ゾーイ自身アーノルドには特別な親しみを感じていた。
だが、それは互いに男女のそれとは違う。
所詮は他人の気持ちなので、アーノルドの気持ちを断定することはできないけれど、彼からもそういった意識を感じたことはない。
彼から受ける安心感と気楽さは、時折酷くゾーイを苛めたけれど、だからこそここに残って良かったと思えた。
忘れてはいけないことが、沢山ある。
それらは同時に、離れているロイへの想いを増してくれていた。
ロイとの再会は、卒業から約半年後。
最終学年の後期から、ロイが復学を果たしたことによる。
気が付けば過ぎるようなあまりに短い時間なのに、物凄く長く感じた時間だった。
「ゾーイ……!」
「ロイ!」
船から降りるロイと彼を待っていたゾーイは、姿が見えると互いに駆け出していた。
凪いだ広い海。
夏の強い日差しを反射させ、ゆらゆらと揺れながら煌めく海面は、穏やかに白い飛沫を上げながら時を塗り替えていく。
それはまるで今のゾーイの頭の片隅に過ぎる、これまでの記憶のようで。その儚さへの漠然とした不安から、今という一瞬を留めるように、ロイを強く抱き締めた。
「……会いたかった」
「ごめん……待たせて」
「ううん。 私の方が待たせたでしょう? 何度も……何度も!」
「……ゾーイ」
ギュッと強く抱き締め返した後。胸に感じる彼女の涙を拭いたくて、ロイはそっと身体を離した。
シャラリ、と小さな音。
チェーンを零れ落ちる水のように輝かせながらふたりの間に落ちたのは、回帰薬の入ったペンダント。
それを拾うと、ゾーイはようやくあのことを口にした。
「もう、使ってはダメだわ。 使いたくないし、使わせたくないの」
「──」
ロイは僅かな沈黙の後、ゾーイの頬に流れた涙を優しく拭うと、柔らかな微笑みを向けて小さく頷く。
大きく振りかぶって海に向かって投げたペンダントは、美しく宙に弧を描いた後、一瞬だけ小さな水飛沫を上げて波間に消えた。
「ごめんなさい……」
「いいんだ」
後悔はしていないが、アレがどれだけの価値のある物かはゾーイにだってわかっている。
おもわず口をついて出た謝罪の言葉を消すように、ロイは唇を落とした。
拭っても溢れ続ける涙を拭いながら。
「僕と生きて欲しい……不確かな未来を」
そう言ったロイがジャケットの内側から取り出したのは、ペンダントではなく指輪で。
それには魔法も魔術もない。
あるのは彼の色の石と、不確かな誓いの言葉だけだ。
涙を流しながらもようやく笑ったゾーイは、嵌めた指輪を空に翳す。
石よりもロイの瞳の方が輝いて見えた。
「──ん?」
「どうしたの、ディー」
「ちょっと待ってろ」
海岸線を妹のトルディと歩いていたディーデリックは、妹を安全な場所に残して岩礁に向かう。
先行していた愛犬のプラムが、ひっきりなしに吠えている。
どうもなにかを見付けたようだ。
ふたりの家は没落した貴族家。
爵位を返納する判断が早かった為に生活はできている。
だが裕福な生活に慣れていた両親は、このことを機に不仲になり離婚、父は家を空けることが多く、家庭環境はあまり良いとは言えなかった。
また、逃れるように居を構えた先で、周囲と馴染めずにいる。
幼いながらに兄は、貴族ではないのに周囲の平民とも違う自分達の行く末を案じていた。
「……よし、取れた!」
干潮で現れた岩と岩の間に挟まっていたのは、美しいペンダントだった。
「売れそうだけど……」
「売っちゃうの?」
「調べてからの方がいい。 物凄く価値があるかもしれないぞ!」
「凄い! お手柄だねプラム!!」
「わんっ」
「王家の秘宝とかかも……いいかトルディ、このことは俺達の秘密だぞ」
「うん!」
それは少年らしい、物語の影響を受けた言葉に過ぎなかった。
少年はまだ、これがただのペンダントとしか思っていないのだから。
──今は、まだ。




