八章:夢ノ橋絶テ〈前〉
終わらない夢を見ている。
【八章:夢ノ橋絶テ〈前〉】
最後の一段を無音で踏み下ろし、遊は階段と廊下を繋ぐ場から僅かに顔を出して周囲を見回した。手を開閉し、何時でも武器を現せるよう心掛ける。
薄暗い室内は所々が朽ちており、壁の一つは完全に崩落して夜闇の腸を零していた。吹き荒ぶ風は都会の生温い風とは異なり、首を絞める冷え冷えとした温度を湛えている。
部屋の中心には遊に背を向けて立つ人物が居た。
肩に落ちる百日紅、纏う喪中の白菊。見慣れた祝事の代名詞である二色だが、今宵は純白に染みた鮮血の如き全く別の印象を与えた。
「誰そ彼は」
声はおよそ中性的で僅かに甘い。肩は細く、男装の麗人めいた印象を与えた。振り返った顔にはやはり翁面が掛けられている。
遊は一瞬だけ乱れた呼吸を補って大きく息を吸った。
翁の口元には歪な笑みが浮かんでいた。仮面が意志を持って笑っているかのようだった。
遊は用心深く歩を進め、久方振りのようにさえ感じる風の抱擁に従う。銀髪が撫で上げられた。
「朱天空須來さん。特務適格者対犯罪取締機関本部《白亜》及び特務審問機関本部《黒耀》より、半月間における召喚事件の重要参考人として逮捕状が出ています。ご同行願えますか」
遊はネクタイの結び目で光る銀章を辿りながら、白亜を出る前に知砂から預かった逮捕状を提示した。こうなることを予め予期していたのか。彼女ならあり得るかもしれないという思いを抱く。
空須來は笑みを称えたまま佇んでいる。向けられる視線は暗く重く刺々しい。
「私には私の目的がある、邪魔をしないでほしい」
「わたしにもわたしの目的があります」
「これは困ったね。意外にどうして頑固な子だ」
笑いに肩を小さく揺らせながら、翁面の頑なな様子は変わらない。だが遊も引くことをしなかった。逮捕状を折り畳み、再び胸元にしまう。
「同行を拒否した場合、わたしはあなたに強硬手段をとらなければなりません」
空須來の肩が不意に動きを止める。笑みの成分を減らしながら、視線の蛇を絡めた。
「……まるで私を負かすことが出来る、とでも言うような口ぶりだね」
遊は肯定も否定もせず、その場に立ち尽くしていた。内心は嵐の激流に満ちている。だが相手に悟らせることなく、湖面に漂う落ち葉のように気配を殺す。
その様子が更に神経を逆撫でたのか、空須來は一切の笑みを切り捨てた。
翁面が殊更の不気味さを強調する。式三番の神事を前に、嘲笑う邪神。巫女が総序の呪い歌の笛を吹く。
「面白い。では君の信念とやらを見せてもらおう」
空須來は眼前に拳を突き出して五指を緩慢と開いた。
火花の爆ぜる音と共に業火の奔流が収縮し、それはやがて一振りの刀へと変貌した。
鞘は既になく、二乗分の太さを誇る刀身は纏う焔と同じ色だった。凝結した黒血で練成したかのような禍々しい刃。
空須來は剣の柄を左手で握る。重さを確かめるために一振りすると空気の焦げ付く音が聞こえた。
鬼は両手で刀を構えることはせずに、そのまま半身の型を取る。どうやらそれが鬼の構えのようだった。
遊もまた手元に精神を集中させた。不可視の何かを辿り、下ろされた指先で宙をなぞると、瞳と同じ紺碧の召喚陣が指先に灯った。
創造する想像をする。
薄く閉じられた瞼に映るのは彼岸の光景だ。
波の連なる音が風を攫い、鼻腔を水の香りが満たす。足元は硬質な床でなく水底の砂へ、夜空は一瞬で晴れ渡る青空となり雲を流す。
人類が皆同じ言語を用いていた時の名残とされる自己の世界。内在世界に眠る自らの力の根源の名前を、心中で一文字ずつ大切に紡いだ。
次に目を開けた時、遊の瞳は空中の魄と呼ばれるものの片鱗が、より鮮明に捉えることが出来るようになっている。
空気中に含まれる水分を平伏させ、隷属させ、自らの手足とさせる異法。それは世界の秩序の代わりに人間が手にした異能だ。
手を伸ばせば魄の欠片は遊の魂の属性たる水へと形を変えた。
受け皿となった遊の両手の平へ生命の雫は収縮する。緩慢と両手を持ち上げ、そして空中に浮遊する一際大きな水球を叩き潰した。空中には二回り以上小さくなった小粒の水弾が無数の雨となり、浮遊している。祈祷のように合わせた両手を開くと、空中の水弾は手中へと吸い寄せられ、それは一振りの刀へと変貌していった。
銀と黒の二つの鍔を持つ、白鞘に納められた一振りの長き刀。抜刀すると同時に鞘は溶ける。
剣を抜く姿にいつもの穏やかな雰囲気は一切ない。鞘に全ての感情を封じ込め、研ぎ澄まされた攻撃性を水の滴る刃に宿す。蒼の瞳に蒼天の柔和さはなく、凍てつく氷塊へと転じていた。
「我が名は〈朱天童子〉空須來。赤鬼谷最後の亡霊として不在の鬼神に代わり、一族の無念を此処に晴らさん」
「特務適格者対犯罪取締機関本部《白亜》如儡師、御秡如遊。現時刻を以って実力行使に及びます」
二対の視線が交錯し、二つの影は同時に掻き消えた。
部屋の中央で二本の刀が噛み合い、甲高い鳴き声を上げる。遊の威神装具である刀、[時雨]の零す涙が鬼の刀身の上で蒸発した。
空須來は圧倒的に有利な立場に居る。遊は契約の名の下に超身体能力を手に入れてはいるが、単純な力技に関しては一般人のそれと変わらない。扱う属性と同じく、得る力もまた異なる。
そして鬼の力は常人とは比べ物にならない。遊の右拳と鬼の左拳が鍔迫り合いとして交わるも力の差は歴然だった。
空須來は目を細めて相手の力量を吟味する。片腕だけで刀を扱うこともそうだが、僅かに力を込めるだけで少女の靴底はコンクリ床を滑って後退した。手首だけの力で少女を押しやると、遊は鍔迫り合いから離れて距離を取る。
「卑弱なものだ」
鬼は犬歯を見せて笑った。
遊の中にある精神的な引鉄が何であるのかを確かめるために。
「ッ――うぁ」
閉じ込めた心の扉が無理やり抉じ開けられる。雑音の嵐が強襲した。
『遊』。濁流。『逃げなさい』。記憶の底へ沈んだはずの仮面の笑声が。『殺せ』。耳元で聞こえた。『ここに居ては駄目』。胃からせり上がる灼熱。『どうして』。飛び散る血と臓物の臭い。『為した事理の窔奥は万罪に値する。己は必ず後悔する事になろうぞ』。遊はその場で片膝を付く。『忌み子だ』。口を押さえるより早く、盛大に吐いた。『其の名の意味を忘れるな』。控えめに食べた昼食の名残、消化され掛けて粘土のような色合いになった栄養素を見る。『君が居る。これからも』。濁流の色が記憶と重なり、再度吐いた。『何故お前が死ななければならぬ。何時の世も人は何故そうも死に急ぐのだ』。胃液と鼻水と生理的な涙を袖で乱雑に拭う。『あんたならきっとあたしを殺してくれる』。震える足で立ち上がった。『わたしは』。精神的外傷が体を蝕む。『これは大罪になるだろう』。
鬼は少女の様子には興味も示さず、赤い刀を振るった。付着した水分が一瞬で気体と化す。闇の中、何処からか差し込む光源に照らされた刀からは陽炎が揺らいでいた。
「畏れではない何かに恐れている」
遊の反射神経より早く、鬼が再び猛進を開始した。
前髪が数本切っ先に触れて宙を舞い、蛋白質の焦げる異臭は刃に薙がれる。遊は胸元に添えた刀身で空須來の一閃を何とか停止した。
刀が震え擦れる音が響く。鬼は左腕に更に力を込め、遊の体を刀ごと吹き飛ばした。
「ッ――!!」
圧倒的な力量だった。少女の体は背後の壁に勢いよく叩き付けられる。器官から空気の漏れる音が微かに響いた。雑音が止まない。
鬼は追撃することをせず、その場で左腕を振り上げる。剣の刀身が業火によって、どくりと脈打った。
「[序段・座突葬奏]」
破壊の序曲を奏でるための指揮棒が断頭台の強欲さを兼ねて振り下ろされる。同時に床には黒い一閃の爪痕が刻まれた。鬼の爪は軌跡先にある遊の体を切り裂こうと地を這いずる。
空須來は表情一つ変えないまま、極めて事務的な思考で自らの勝利を予感していた。
遊は鬼の間接攻撃を正面から捉えていた。
背を預ける壁にはいくつもの皹が入っている。内臓や骨を破壊されてもおかしくない剛力だった。壁に左手を付き、苦心して剣を右手に持ち返る。
柄の中心に埋め込まれた蒼い宝珠の中で水が揺れた。空気中の魄が同時に傾く。
口内に残った胃液を吐き出し、迫り来る黒血の爪を見つめて遊は無意識の内に微笑を浮かべた。煙草の苦味が唇を撫でた。
――既視感のある光景だった。
刀に力を溜め、切っ先を地に触れるほどに低くした。
「[戯式・匣――水淼璧]」
名を与えなければ魄は形にならない。名を与えなければ契約は結ばれない。空中を漂う魄の名を呼べば青い雫となった虚ろな名が喜びに踊るのが見えた。
夜を爆音が引き裂く。
鬼は咄嗟に窓際まで後退していた。赤髪を爆風が乱すも、鬼の瞳は一点に向けられている。
音の源は水蒸気爆発によるものだった。
熱を帯びた白霞が空気と混じる中、遊は氷壁を具現化して熱波と衝撃から身を守っている。抑え込んだ水量からして然程大きな爆発には至らなかったが、部屋の壁面は爆発の余波を受けて崩壊の兆しが生じていた。
鬼の爪跡は遊の眼前で止まっていた。相殺されたのだ。
水と火。単純な化学反応だったが、円ノ衆はその理すら変化させることが出来る。万象に存在する神の名残としての物質を意のままに召喚し、操ることが出来る。創造のための想像。想像のための創象。現象としての幻証。
鬼は熱波に揺らぐ視界の中、少女を見た。遊も氷壁を再び虚空へと還し、鬼を見つめた。
翁面に亀裂が入る。
先刻力が衝突する中で長刀が二薙したのを鬼は見た。一つは爪牙を相殺するために、もう一つは。
鬼の視線は足元に向けられる。地面には鬼を追撃する微細な穴が点々と穿たれていた。
「氷の針と言ったところか」
水蒸気を剣先で祓い清めながら、遊は一歩前に出る。鬼の検分を頷きで肯定した。
「[戯式・霛――洯針]」
鬼の翁面は額から二つに別たれ、乾いた音を立てながら床に落ちた。
「中々面白い戯れになりそうだ」
現れた顔は映像で見るより遥かに美しいものだった。口元に浮かぶのは、微笑みというより創造神にあらかじめ設定された造形めいている。凍てつく氷像の笑みだった。
遊は投降の意を求めることを止めた。鬼は決して志しを曲げない。
鬼の纏う気配は外見と共に一転した。刻一刻と鬼の赤髪が伸びていく。左右のこめかみが盛り上がり、皮膚を貫いて赤い二本角が現れた。
朱天空須來は純血の〈鬼〉だった。
〈鬼〉とは力と知能、両方に秀でた種族であり、契約することが難しい廻來天に数えられる。純血の鬼ともなればその力は円ノ衆五人に匹敵するという議論もあるほどだ。
しかし力に驕ることはなく、素朴で質素な生活を好み、古来から森の神として崇め奉られてきた。他の廻來天の間においてもその認識は変わらない。だが古典学、古文書学、民俗学といったあらゆる分野の中では、ある日を境に廃絶され、恐怖の対象として描かれるようになった。
また、単に〈鬼〉と言っても、言語を用いない餓鬼、力に長けた牛鬼、速さに富む馬頭鬼など、各種族の交流は断絶しているが種類は著しく多い。
かつて【白澤】と呼ばれる賢者は、鬼を含めた全ての廻來天を分類する書物をこの世に残した。後に『超獣戯画』と名付けられた古文書には多くの廻來天の特徴や詳細が記されている。原本は世界に数冊しかなく、ヒノモトの考古学庁は内一冊を有し、厳重に保管している。
その古き書の中で、鬼は角の多さによって大きく五つに分類されている。
一本角を有する〈独角鬼〉。
二本角の〈双角鬼〉。
そして〈鬼〉。
〈鬼〉は異形の角を二本持つ以外は人と変わらぬ姿を持つ。上級鬼とも呼ばれ、他の二種より能力が高いことで知られている。
空須來はその中の〈鬼〉に該当した。しかし遊の瞳には驚きの波紋が広がる。
細く長く、後頭部に沿って伸びる角は猩猩の血よりなお紅かった。長さは一尺。
遊の視線はその角に注がれている。
異変があった。左側の角が根元から枝分かれしているのだ。二寸程の僅かなものだが、それだけで鬼の種族区分は別項目に行を変える。
「〈鬼神〉……」
〈鬼神〉。鬼族の中で最も能力と位が高く、人の姿を持つ神鬼のことだ。
能力が桁違いに高いために、人体の何処かに必ず能力制御の法を施しているとされる。空須來の場合、翁面がそれに該当した。地面に落ちた面の内側には幾何学的な呪言がびっしりと描かれている。
鬼神が能力を開放する時、二本角は複雑に枝分かれしていると言われる。
存在が表舞台に現れることは殆どなく、史実の中でも確認が取れている者は数えるほどしかいない。〈鬼神〉は人間界の王とは異なり、天性の力で鬼達を率いるという。蛮力を以って相手を屈服させずとも鬼達は鬼神に従属する。
その名に神を冠するところから見ても鬼達にとって畏怖の対象であることが窺い知れる。遍く鬼を統率する鬼神は鬼族にとっては魂の拠り所なのだ。
空須來の毛髪は既に腰ほどまでに伸び、力の解放が見て取れた。赤鬼とは全く的を射た呼び名である。瞳は変わらず、零度の貴金属を宿している。
鬼は笑う。感情さえない、空ろな哄笑が響く。
遊は時雨の柄をきつく握り締めた。
如何なる屈強な敵を前にしても、《白亜》に所属する者の矜持は撤退を良しとしない。少女と鬼は似ている。
雑音はもう聞こえない。仮面を狙ったのは無意識のうちだったが、今眼前に立っている者の姿が明確に理解出来た。
彼岸の喪失者だ、この者もまた。胸が軋む。
人であれ鬼であれ神であれ、他者を傷つけるには相応の理由が存在しなくてはならないと遊は考えている。それは如何なる暴虐の肯定でも否定でもない。ただそこに癒えることのない魂があることが悲しい。淘汰の末に失われた心があることがあまりにも痛い。
「あなたとわたしは少し似てる」
呟きは誰に届くでもない。
「足りないから求めた。失うことが怖かった。一人は嫌だから」
遊は刀を握る。
「あなたを助けなくてはならない」
眼前の、悲しみと憎しみが同化して深淵に塗り潰されてしまった赤鬼を。
それは引鉄を自らに向ける相手もろとも抱き締める許容に等しい。
『立て。弱くては、誰も、何も、何一つ守れない。忘れるな』
三者三様の唱和。血で打ち込んだ心の楔。
「まだ、覚えてる」
刀身から一滴の雫が涙となって零れ落ちた。
剣を構え直すより早く、鬼の斬撃が襲う。脆くなっていた背後の壁は完全に破壊された。
■
夜を叩き割る轟音に、花誉はゆっくりと背後を振り返った。
彼女は今、林の中腹に居る。
来た時は数分足らずだった道のりが、今はもう際限なく続いている。符術によって空間が歪められているだろうことは明白だった。
振り返っても廃墟は見えず、周囲の建物も見当たらず、ただ闇に沈む木々達がざわめき合っているだけだった。天上にある召喚陣が発する燐光だけが暗闇を僅かに照らす行灯となっている。
月のない夜。酸素すら闇に染まり、肺腑までもが黒に穢濁する気さえする。
髪を梳く生温かい風と共に感傷を振り払った。
「あまり無茶をしていなければ良いのですが」
一人ごちた花誉の背中に不意に影が差した。体内に葉緑体でも持っているかのような肌色をした餓鬼が、累々と積まれた同族の頭上から飛び跳ねて鋭利な爪を振るったのだ。
花誉は気付いていないのか、未だ振り返らない。小鬼は殺意のまま花誉へ切りかかった。
だが血に穢れた鉤爪が届く刹那、鬼の体は空中で不自然に静止した。
花誉が振り返り、鬼の瞳を正面から捉える。新緑の緑は鬼火すら焼き尽くす燐光が宿されていた。
実力差を悟ることさえ出来ない哀れな餓鬼は牙を剥いて暴れた。鬼の体は微動だにしない。
「五月蝿い」
虫を追い払う要領で手を振るうと、鬼は闇へと引きずり込まれた。骨の砕かれる音と共に鬼の絶叫が響き渡る。
「……これで四十九体目。際限がありませんね」
見下ろす大地には気絶し、あるいは戦意を喪失した餓鬼達が女王に平伏して頭を垂れていた。中には手足を折られた者や、体の一部を喪失した鬼が激痛に震えながら呻き声を上げている。傷口からは灰色の芥が零れ落ちている。それでも痛苦が存在することが召喚の厄介なところだ。
強者に牙を剥く愚者は今の鬼で最後だったらしく、四十九匹分の憎悪と苦痛の中心に花誉は立っていた。
彼女の歩は召喚陣の真下で止まる。上を仰げば未だ沢山の鎖がぶら下がっていた。
双眸が細められる。
五十体目の鬼が瞳を開けようとしていた。耳障りな音をかき鳴らしながら鎖は一点に集う。
白亜の園で隠者が告げた言葉が蘇る。
花誉の口元は優美な笑みを描いた。心中に浮かぶものが例え何であれ、それを表に出さないのが彼女の流儀だ。
空気が弦の如く張り詰める。意識のある餓鬼は皆一斉に身を翻し、森の中へ逃げていった。
仲間の元に向かうにはもう少しだけ時間が掛かりそうだと冷静に分析する。
■
異質な空気を感じ取った敬は肩越しに振り返った。
入口の向こう側は超視力を以ってしても求める姿を捉えることは出来ない。
危険を告げる警報が頭の中でひきりなしに鳴り響いている。直感がけたたましく胸を叩いた。
「余所見してる暇があンのか?」
我に返った時には遅い。黒火と共に迫った拳を真正面から食らい、力のままに壁に叩きつけられた。
「……ッ!」
息が詰まる。器官が傷ついたのか、口から微量の血が零れた。
罅割れた壁に体を半ば埋めながらも意識は手放さない。切れた額から血が溢れ、頬を伝って流れた。
「痛ッてぇ……」
追撃が来ないのはそれとなく察していた。
眼前に立ち尽くす男――拷炎の腕に嵌め込まれた鉄錠は黒い炎を纏っている。
金の瞳は依然として挑戦的だ。仇を討つとは言ったが、恐らく本人にその気はない。
敬は口を汚す鉄味の唾液と小石を吐き出して口元を拭った。瓦礫に埋もれながらも鬼を睨み返す。見下ろす鬼の口元には微量の笑みが含まれていた。
「仲間の心配してる場合か、小娘ェ」
瞼の裏で踊る火花を追い払い、体の上にあった瓦礫を軽石のように蹴り上げて起き上がる。
「別に心配なんかしてねぇよ。……まぁ、もって五分だろうな」
敬は縮まらない身長差に少しだけ不満げに上を仰いだ。鬼火が逆光になって鬼の表情は完全には窺えない。
試す沈黙があった。僅かな逡巡の後、鬼の視線が背後の扉に向けられる。
廃墟の入口、具現化しつつある気配に拷炎は目を細め、それが同族の鬼であることを悟った。
「あの若造、地獄の釜の蓋を開く気か」
敬は喉の奥で笑う。古代の情報の代わりに戦意を宿した宝珠は輝き続ける為にある。
「まぁ外野は関係ねえよ、オッサン。今あんたの前に居るのはオレだろ」
両手の拳に嵌め込まれた鉄金を打ち鳴らして戦意を奮い起こす。闘いの猛りが敬の胸中を焦がし掻き乱す。試合再開の鐘を利己的に鳴らして右足で床を踏みしめた。
「それもそうだ。……、あン?」
鬼が再び前を向くとそこには既に人影はない。
「オレは今、楽しくて堪らねぇんだ」
胸中では喜びと脳内麻薬が巡り狂っている。
闘いの盤面には単純な理論しか存在しない。強者か弱者、生か死、自身と他者、勝利と敗北。明快なものが彼女は好きだ。複雑怪奇な計算式は苦手以外の何物でもない。
笑みを纏った宣言が鬼の懐で告げられる。
「[彼岸艶華]」
十指の延長上に弧を描く火炎の花弁。
鬼の腹腔を基点に咲き誇った火炎が巨体を吹き飛ばした。口からの鮮血が鬼の軌跡を描く。
鬼は爆風と共に反対側の壁に叩きつけられ、巨体は壁を突き抜けた。壁の向こうは今まで居た試合場上と同じだった。景色としては面白くないが、大事なのは対戦相手だ。敬は軽やかにステップを踏む。
「これで痛み分けだな。あと、さっきの言葉そっくり返すぜ」
濛々と土煙が立ち込める。瓦礫に半ば埋まったまま、鬼は小さく痙攣していた。
琥珀の瞳が疑心に細められる。鬼の口元から吐き出されたのは血でも嘆きでもなく。
「だァっはっはっはっはっはっはァ!!」
喜悦に染まる笑い声だった。
巨大な瓦礫が乗ったまま、鬼は腹筋の力だけで起き上がる。足元の残骸も粉砕された。
両足を踝まで地面に埋めながら鬼は歩を進める。両足が泥沼を歩むように沈み込んでいるのは、どういう理屈なのか敬には検討も付かない。敬の中では「不思議な事象」という簡素な感想で句点が付く。
「面白ェ、面白ェぞ! 人界に降りたのは久方振りだが、嗚呼こりゃァ面白ェ娘が居たもんだ!!」
距離は再び始点に返る。運動競技を思わせる正当な間合いを取り、両者は相対した。一六〇センチメートルの影と二〇五センチメートルの影が睨み合う。
敬は鬼の心臓を指差した。
「あァ?」
「規則だから一応言っとく。投降しろ、じゃなきゃ叩き伏せる」
金の瞳が瞬き、首を傾げて言霊の真意を探る。探るまでもなかった。犬歯を見せて二人で笑う。
「断る」
「なぁ、そりゃそうだ。そうだと思ったぜ」
鬼は未だ喉の奥で笑いながら、小さな影を見下ろす。
「ならばどうする、小娘ェ」
「決まってる。難易度最上の本気モードだ」
鬼は笑みを消し、地面に片膝を突く。両拳を地面に叩きつけると業火が渦を巻いた。
「闘争はそれでこそ色を増す。嗚呼良い、実に明快な答えだ。まこと好ましい気質よ、戦巫女。我等が闘争に妥協は無意味だ。同じ志を持つ者と戦えることを嬉しく思う。ならば持てる全力を以って挑まなくては戦士の名折れ。〈黒枷〉の異名を持つ拷炎の焔、しかと味わうが良い」
健康な浅黒い肌は黒々とした剛毛へとすり替わっていく。地面に付いた十指の爪は鋭く伸び、肌と同じ黒色へと変化する。筋肉や骨が収縮し伸縮し、減り、あるいは増え、別の何かへと置換されていく。
鬼火に照らされる拷炎の影は容量を増していった。敬はその様子を唖然と見上げている。
やがて鬼が頭を一振りすると、伸びた体毛がばさりと靡いた。圧倒的な筋肉が上着の羽織を破り、皮膚すらも窮屈そうに押し上げていた。
身丈と浮かび上がった影は既に人のそれではない。
拷炎の体は、満月の夜に対峙したラオウを連想させるほどに巨大になっている。あるいはそれを凌ぐ大きさと圧倒的な筋力を持ち合わせて。浅黒い皮膚は墨色の剛毛に覆われ、肩部の筋肉が一際隆々と盛り上がっている。上に伸びた曲線を帯びた二本角。人間と狂牛の遺伝子を合成し、更に歪曲させた姿があった。
知性を称えた金の瞳が細められ、その口元が蒸気を吐き出して開かれる。
「此れが俺の本来の姿だ、小娘ェ。さァ闘争を始めようぜ」
「望むところだ、暴れ牛」
■
指先が微細な生体反応を示して脈動する。感覚を辿るままに握ろうとして、半ばで不自然に停止した。
三階と二階を隔てる床は貫かれ、宙を書類が舞っていた。壁に背を預け、紫の瞳が虚ろに空を見ている。瓦礫の中には上階と共に落ちた事務用机がいくつも転がっていた。
熟練した兵士の如く一糸乱れぬ足音が冷酷無比に、処刑を知らせる合図となって近づいてくる。
「…あー、何で後衛のあたしがこんな前衛に出張らなきゃなんだろう。キャラ的にもっとこう、格好良く活躍すべき場面じゃないのかなー……」
壁に叩きつけられた背骨が軋む。咥えた煙草に灯る火は命を代弁するかのように微かだった。右手の突き立てるべき中指は真逆方向に曲がっている。
「嫁入り前だってのに何てことをしてくれるんだ」。言おうとして止めた。口から零れたのは悪態ではなく血痰と微かな紫煙。奥歯に詰まった小石を吐き出し、鈍い嘆息を付く。
漆黒の背広を纏う者は二人を隔てる最後の瓦礫を二分に別つ。
「何故能力を使わない? 力を使え」
声は敵対者のものだ。
知砂の電子眼鏡は絶えず警告を告げている。冷たくなっていく右腕の感覚。自由な左手で煙草を摘み、広がっていく血溜りで揉み消す。それから背後の壁の力を借りてなんとか立ち上がった。しかし自力で立つことは難しく、未だ壁の近くを離れられない。
「……我ながら、とんだ失態だねえ」
言葉は自嘲の念を滴らせる。咳き込み、服を朱に染めながらも正面を見据えた。
「茨生偉継。特務適格者対犯罪取締機関本部《白亜》及び特務審問機関本部《黒耀》より、今月初めから今日に至る一連の召喚事件の重要参考人――朱天空須來に加担したものとして、あなたにも同行を求めます」
偉継の右目に僅かな感情が灯ったが、矢張り直ぐに漆黒の闇に塗り潰される。偉継の左手が掻き消えると共に、知砂の背後にあった壁は大きく穿たれ、砕けた石は夜に落ちていった。
「貴様のような人間が容易く口にして良い名前ではない」
声には般若の面と同じ、憤怒の形が宿っている。顔を隠す仮面が感情の代行人としてこちらを睨み付けていた。
知砂は床に点々と落ちる自らの赤を見下ろす。
司式の役割から逸脱したこの行動は本来なら規則違反だ。権利を剥奪されるには十分な理由になる。
司式とは即ち指揮を司る者。指揮官の補佐として、本来なら白亜から指揮を下す役職だ。
言うなれば指揮官見習いが本来の〈司識〉。司識は即ち、卓見した思考を見込まれた役職である。
だが命令違反などで処罰を受けた〈司識〉は〈司式〉へと格を落される。予め設定された式にのみ従わざるを得ない歯車の部品。それはヒノモト特有の言葉遊びから齎された不名誉なまでの悪名だった。
知砂が初めて第一区に足を踏み入れた際、双肩に与えられたのは指揮官の未来を約束された司識の立ち位置だった。そして異例の三日という短さで彼女は司式へと格を落とされる。
「ここに立つのは、あたしが願ったことだ。……まーそういうことにしておこう」
噛み殺した言葉は自戒の意味を含み、苦みのあるそれを飲み込んだ。
狭まった距離、吐息すら掴める距離で二人は視線を錯綜させる。鬼の左手は手刀の型を取り、静かに知砂の喉元に添えられた。僅かな力を入れるだけで咽喉は容易に砕かれるだろう。
先程二人が対峙した三階、その床は正しく手刀一振りで砕かれた。
遊と分岐した踊り場の先にあった三階は、蛍光灯の無遠慮な光が眩い会社の内装を忠実に再現していた。それが歪みによって生じたものか、はたまた現実の姿かは分からない。
知砂が部屋の中心を見据えると、漆黒の背広を纏う女性が立っていた。偉継が音もなく左手をかき消した次の瞬間、知砂の足元は完全に崩壊していた。
肉眼で見る鬼の力は圧倒的だった。
「あの方の贄となるがいい」
黒の瞳が見開かれ、同時に鬼は後ろへ大きく下がった。指には一閃の赤が散っていた。
「……何をした、貴様」
「惜しかったかな」
知砂が低く笑う。その眼前、空中には狙撃用銃の視線を思わせる赤線が引かれていた。
「触れたが最後、俎板ごと綺麗に二等分。[符術一式・環断]で御座います、お客様」
知砂を挟むように転がった左右の瓦礫には一枚ずつ札が貼られていた。知砂の眼前を走る魔線はその二つの札を繋ぐ弾頭だった。
偉継が左手の手刀を振るうと、礫石に貼られた札が石ごと切り砕かれる。知砂は何度目とも知れない嘆息を零して歩を進めた。
「三階から落ちる時に咄嗟に使ったんだけどね。残念ながら[環断]の残りは瓦礫に潰されて使用不可能。運が悪いったらないね」
鬼の手刀が振るわれる。今まで知砂が居た場所に大きな亀裂が生じた。
知砂の歩みは一定の間合いを保ったまま停止する。
「投降を求めます」
片腕を折られ、複雑に砕けた骨は皮膚を突き破って血を零していた。それでも知砂は眼前の咎人に警告を告げ続ける。
「先ずは、過去にあなた方が関わった事件に関してです。赤鬼谷の虐殺、そしてあなた個に対する非人道的行為。我等白亜と黒耀は一連の事件の前に、これらの事件に関わる者を裁くと盟約しました」
偉継は黒々とした瞳で射殺さんばかりに知砂を見つめていた。
「投降し、そして関係者を裁けば、私達の苦しみは癒されるのか」
ぽつりと零れた声は頼りない少女の物だった。知砂は二の句を飲み込み、眼前を見据える。
「お前達はいつも自らの保身しか考えていない。異形が恐ろしい、異能が恐ろしい、他者の目が、存在が! 法の下で裁かれたとて、それで一体誰が報われるというのだ?! 金を積み上げれば全てに決着がつくとでも思うのか? ……愚かしい、何故私達の苦しみは下らぬ物として淘汰される運命にある!?」
悲痛な叫びが切々と響いた。
知砂は偉継の返答を前以って予測していたようだった。鬼の言い分も十分に理解している。言葉は彼女の本心ではない、規約に則ってしたためたに過ぎなかった。
偉継が慟哭と共に自らの面を取り払う。
肉を突き抜ける音と共に現れた角。左のこめかみから即頭部に掛けて、風化した骨を思わせる角が一本だけ伸びた。面に隠されていた左目は鬼族特有の金眼に染め抜かれている。
「この白角一つで貴様等は私を異端と決め付けた。産み落としたのは貴様達人間だったにも関わらず、な。……つくづく簡単で傲慢な生き物だよ」
「〈鬼人〉、か」
「……ふん、白亜の刑死者はそう簡単に驚きはしないか」
面を丁寧に懐へ仕舞いながら、左目に禍々しい光を宿らせた女は自嘲気味に呟く。
対する知砂は口元に真新しい煙草を咥えながら、鬼と目を逸らさずに言葉を紡いだ。
「泣き叫んで怖がるのが好みならそうするけど?」
「口の減らない女だ」
〈鬼人〉。
それは『超獣戯画』鬼の節・第五項目に記された、人間と鬼の間に生まれた混血種を指す。半人半鬼といえる非常に稀有な存在であり、その能力は独角鬼、双角鬼より格段に高く、〈鬼〉と同等の力を持つとさえ謳われる。
本来、人間と廻來天の間に新しい命が宿ることは極めて稀だ。廻來天は不確かな存在ゆえに神木や霊泉にて命が生じることもあり、龍や一部の鬼などがそれに該当する。鬼人は有と無が混ざり合った結果に生まれる数少ない事例である。
鬼人は人間と変わらぬ姿を持つが、類稀な力の特性ゆえに能力を上手く抑えることが出来ない個体が多い。
鬼神は自らの強大な力を押さえ込むのに相応の時を有するが、言い換えれば相応の精神と時間さえ掛ければ精緻な制御が可能だ。しかし鬼人は半永続的に不安定な能力制御を強いられる。故に体の何処かへ何らかの制御術印を施し、能力の安定を図る。偉継の場合はそれが般若の面だった。
知砂は鬼の正体を見ても、先と変わらない温度の声を紡ぐ。
「あなた達の経歴と生い立ちについて、真に勝手ながら調べさせていただきました。あなたの両親は共に人間だった、円ノ衆でもない。系譜の何処かで鬼の血が混ざったとするのが一つの仮定だ。現に父方の祖先を辿ると浸潟の山間地方に辿り着く」
そして年月を経て、鬼の血は一人の少女に先祖返りとして現れた。
空須來と偉継の繋がりを運命と名付けるには、二人の関係はあまりに呪術めいていた。それはまるで英雄の登場しない御伽噺の一節だ。無慈悲な叙述は死の腕が主人公を抱くまで続く。呪いを運命と名付け、偉継は鬼に付き従った。身内に捨てられ、孤独から救い上げた空須來は、まさしく彼女にとっての神なのだろう。
「分からないのはあなた達が目指す先だ。同族を暴走の危険を冒してまで呼び起こし、この街に混乱を招いた。……あたし達を贄と言ったな。空須來の真意は何処にある。何故この地を舞台に選んだ」
左側だけに鬼の特徴が現れた偉継の体半分には人間の血が流れている。半鬼として異能を持ち合わせていたことが不運を招いてしまった。彼女が生まれていたのが京庵だったのなら、こうはならなかったのかもしれない。だがそれは何もかもが結果論だ、口に出すのは止めた。
「あの方の御心は私だけが知っていれば良い。人としても鬼としても半端者だった私に、あの方は居場所をくれた」
鬼は鋭い爪を振るい、過去のしがらみを断ち切る。解は聞けそうにもなかった。
「……まぁ別に、あんたの存在理由にケチつける訳じゃないけどさ。あたしもここで死ぬ訳にゃあいかないんでね」
知砂は制服の内嚢から数枚の札を手に取る。幾何学的な文様が暗闇に浮かんだ。
「慢心か信念かは知らぬが、力を使わずに死ぬことを後悔させてやろう」
二人の口元には同種の笑みが刻まれた。知砂の一抹の同情心は直ぐに掻き消されることになる。
■
花誉は組み立てられていく円陣を読み解いていた。
文字と文字が絡み合い、新しい文字になる。生じた言葉から生命が派生する。精緻な設計図は魄を隷属させる言魂の役割を担っているのだ。
足の骨が砕かれた餓鬼達は這ってでもこの場から逃げようとしている。その姿は紛れもなく、天上の何かに恐怖していた。言葉を持たない彼等がそれほどまでに畏怖する存在。
召喚術はやがて一つの円を描く。鎖は円陣の中心に集まり、一本の長大な鎖となった。鎖は大きく跳ねて円の向こう側へ吸い込まれる。同時に雷光が閃き、円陣は完全に消失した。赤の燐粉が宙を舞う。
突如光源を失った森は闇の胃袋に飲み込まれた。
そして、何かが轟音と共に降臨する。
距離としては約五十メートル。木々をなぎ倒し、餓鬼を数匹圧殺させ、新月の夜闇に殊更暗い影を刻む巨体。二つの金の瞳が五メートルほどの高さから見下ろしていた。
闇に慣れた目で花誉は異形の生物を見返す。金の視線は無遠慮に花誉の肢体を嘗め回した。
血色が悪く汚れた丼鼠の皮膚は過剰な筋肉が押し上げている。だがそれ以上の贅肉が弛みを帯びて全身に纏わりついていた。体には生物の頭蓋骨や骨片で過多に装飾された防具が宛がわれている。所々に未だ肉片や黒血を張り付け、腰に巻かれているのは虎皮ではなく萎びた獣の皮だった。
額からは餓鬼族にしては長い部類に入る、曲がりくねった一本角が伸びている。手にした棍棒は生物の大腿骨に巨石を荒縄で縛りつけた禍々しい鈍器だった。
悪食の餓鬼を統べる〈王餓〉の異形だった。
「悪ァ悪ァ悪ァ悪ァ汚ォおォ汚ォ汚ァ亜ァ!」
口腔が開かれ、狂気に汚れた叫びが林を貫いた。林の各所で餓鬼達が王を怖れ、悲鳴じみた鳴き声を唱和させる。
王餓は一歩前に出ようとして不自然に動きを止めた。四肢を、先の餓鬼達と同じように鎖が拘束していた。
「亞ェ?」
鬼は両腕を振るい、先ずは腕の拘束をいとも簡単に破壊する。次に四股を踏むように片足をそれぞれ持ち上げると、拘束という名目も空しく容易に砕かれた鎖の破片は芥へ還った。巨大な足裏が再び他の餓鬼を踏み殺す。思想も感情もない、純粋な悪行だった。
「おンなのにおイがすル」
間伸び、野太い声が遥か上空から降り注いだ。意志はあるようだった。しかし餓鬼同様、その脳球に収まっているのは単純な行動原野に過ぎない。
警告は無意味。召喚された者は体を構成する魄か魂を砕かなくては、あるいは術者を倒さなければ止めることは出来ない。
濁った金の瞳は正確に花誉を捉えていた。鬼の口元が欲望に歪み、発達した犬歯が覗く。
「て亞しもイでカう。おラのヨめニなレ」
花誉の顔に、仲間と分れて初めて表情らしい表情が浮かんだ。嫌悪と言い換えて相違ない。
瞳の感情は移り変わり、鬼の足元に憐憫と共に向けられる。体の各所から骨を突き出して塵と化す餓鬼には目もくれない。
彼女が映すのは、鬼の巨体によって根元から折れた木々の群れだ。時間と水、大地の祝福を受けた賢人達は寡黙だ。しかし痛みはある、訴える術がないだけだ。
可憐な口元が刻んだ言の刃は林を抜けた一陣の風によって王餓に届くことはなかった。
そして突如、大鬼の握る棍棒が半ばから切断される。同時に鬼の巨体が傾いだ。
「エぁ?!」
大鬼は反射的に地面に片手を付き、地に伏せることを防いだ。
しかしその手首さえ何かに切断され、綺麗な断面を生じさせる。大量の芥が宙に舞った。鬼が驚愕に目を見開くより早く、次は残された手足が不可視の刃に切断されていく。
悪臭を噴き出す口から離れた位置で、凝結した二酸化炭素の微笑を浮かべる少女が立っていた。苦痛で血塗れた絶叫が微笑みの背景曲となる。
王餓は激痛にのた打ち回り、木々が粘土細工のように吹き飛ぶ。汗と涙と涎を零しながら鬼は磨り減っていく肉体を痙攣させた。
「手足を捥いで飼う、でしたか。実際にされる側になった心地は如何ですか? ……尤も、私はあなたのような愚かしい生命体を飼育するのは御免被りますが」
王餓の体は無慈悲に四肢の先から一定のリズムと間隔で断ち切られていく。末端は体から離れると同時に塵となり消えていった。
解体目的の手術台に上げられた被験者たる鬼は激痛に身悶えながらも攻撃の停止を試みようとするが、口から出るのは最早意味を成さない叫び声だけだった。金の瞳からは汚泥のような涙が零れる。
それは麻酔のない、生きたままの解剖さながらの痛苦だった。
「名を酌み交す価値もない。二度とこの世界に踏み入るな」
花誉の背後で新月の空に浮かぶ赤い月が軋む音を立てて哂った。
絶叫と共に、王餓の命は刈り取られる。
■
血と胃液が混ざった反吐を飲み干して少女は笑う。
握り込んだ拳は骨が軋み、黒革は焼け焦げていく。指先に再構築の赤い召喚術式が灯ると一瞬の内に真新しい物へと置換した。
今、世界には二つの魂しかない。
血に刻まれた家系図も、敬うべき御筋との確執も何も存在しない。元より彼女にすれば全て紙以下の価値しかない。願いは一つだった。
色の異なる拳が何度も打ち合わされる。衝突、激突、追突、刺突。火薬が爆ぜる音を立てながら時折肉を叩く鈍い音となる。破壊と闘争の戯曲は止まらず、応酬が止むこともない。
拷炎の一際大きい振りが、咄嗟にしゃがみ込んだ敬の頭上を掠めて髪を二三本攫っていった。直接当たっていれば首ごと吹き飛んでいただろう。敬は恐怖することなく、足払いを仕掛けて鬼の体制を崩そうと次の手を打つ。だが健固な巨体は生半可な攻撃では揺らがない。敬の蹴りは半ばで止まった。
敬の顔が僅かに歪む。拷炎は一瞬の静止を見逃さず、拳を垂直に自らの足元に打ち下ろした。
鬼の右拳は地面に半ばまで埋まり、白と黒のタイル床を砕き割る。拳は、敬の利き足の僅か数センチという所に埋没していた。
敬は両手を地面に付くとブレイクダンスの要領で体を回転させ、間近になった鬼の顎目掛けて垂直の蹴りを放った。流石に脳が揺らぎ、鬼は後退せざるをえない。
敬は跳躍して同じく距離を取った。右拳を前に左手をわき腹に付け、すぐさま戦闘の構えを取る。鼻孔から一線の鼻血が伝った。
鬼は蹴られたまま上を向き硬直していたが、ゆっくりと正面を向いた。口元には笑みが浮かんでいる。蹴りによって傷つけられた口腔や剛毛に覆われた体のあちこちから血が滴っていた。
敬もまた似たり寄ったりの状態だった。途中で焼け焦げたシャツを脱ぎ払い、上半身は半袖シャツ一枚になった。二の腕には早くも青痣が滲んでいる。口元や頬、大小合わせれば両手の指では足りないほどの傷が数十分の闘いの中で生じていた。
鼻血を啜り、前を見据える。
戦意は依然として燃え続ける。体内で燻る戦火。
敬が好むのは公明正大な一対一だ。武力と矜持を持ち、自らを倒そうと武器を振るう戦士を欲している。相手が敬意を払うに値する強大な敵であればあるほど悦楽は増す。過去に味わった正当な勝利と共に彼女の脳はひきりなしに、あの感覚を欲した。武道場である家の血筋がそうさせるのか。それすらどうでも良いことだった。
「楽しけりゃ何だっていいんだ」
敵の扱う炎は肌や空気、舞う埃を焦がす。煤けて汚濁した汗が頬を伝い、床に零れた。雫は鉄板の上で踊り狂う水滴の様を呈し、時間を掛けて気化する。室内は陽炎が踊り、歪んでいた。
アドレナリンとエンドルフィンの交響曲が大音量の十六ビートで脳に韻律を刻む。
拷炎の黒炎、敬の純火。扱う属性は全く同一なものの、相手の扱う火に触れれば熱い。自らの力で隷属させた物質でなくては、炎はたちどころに体を襲う。
円ノ衆の力の根源になるのは契約した円坐天の恩恵によるものである。そして異能の源である円坐天は人間とは異なり、契約をせずとも力を扱える。
廻來天が何の力も持たない人間と契約を交わす理由の一つは、安らぎの地へと身を置けることだ。朧が実としての確証を得ることは存在理由の付与に匹敵する甘美な命題だと言う。
「でもオッサンは契約してねえんだな」
零れた言葉は気化せずに鬼へと届いた。互いに荒い息を整えるためだけの気休めのつもりだった。鬼は黒毛を荒馬のように振るうと、汗が散って所々で焦げる音が上がった。
「当たり前ェだ。俺等は戦鬼。魂の安定など求めちゃいけねェ」
僅かに温度差のある、らしくない言い回しに敬は首を傾げる。口元に浮かんだ微量の笑みは初めて見る類いのそれだった。
白亜に囲われた牛鬼と同一の棘が男の体に茂っていく。鬼の周囲を取り巻く召喚の鎖は真名には届いていない。敬と相対する鬼は自らに甲名を与えるほどに力を持った存在だ。知砂の言葉が思い浮かぶ。
僅かなしこりを残したまま、会話は強制的に区切られた。
拷炎の巨体が閃く。敬は迫り来る巨拳を躱し、太い腕を駆け上った。速度をそのままに鬼の顎骨目掛け鋭角的な膝蹴りを繰り出す。
「……ッぐ、ゥ……!」
視界が揺れ、鬼の喉から僅かな苦痛が漏れた。
追撃を行うために敬が鬼の頭上で体を捻ると、その脇腹に乱雑に振られた鬼の拳がめり込んだ。肋骨が連続して折れる音と共に敬の体は横薙ぎに吹き飛ぶ。
鬼は未だ焦点の定まらぬ視界の中、少女の体が壁に追突する前にその体を尾で拘束する。だらりと弛緩した体を一切の容赦なく床に叩きつけた。
床に縫い付けられた敬の口からは鮮血が散る。血と泥に濡れた少女の体の上に、無慈悲な鋼の蹄が掲げられた。迫り来る鉄槌の一撃を敬は虚ろな目で見つめている。
そして距離が虚無に呑まれる前に敬の手は鬼の前足首を掴んだ。
小さな体躯から繰り出されたとは思えない強力と共に鬼の体の均整が崩れる。百キロを軽く超える鬼の巨体が宙に舞い、壁に激突した。
「がァァアあああああああああ!」
「御汚、負雄烏汚オ悪大緒逐牡男嗚お乎追ォ応!」
意味を成さぬ猛りの声と共に二つの影が激突する。拷炎の黒と敬の緋色が正拳として交わった時、それは起きた。
「ッ……!」
それまで巌の堅牢さを保持してきた拷炎の左腕が芥と共に霧散したのだ。
鬼は目を見開き、距離を取った。敬もまた虚を突かれて追撃を引き戻す。
鬼は自らの手を見つめた。赤い火花が爆ぜる。それは敬の焔でも、まして拷炎自身のものでもない。その体を縛る召喚陣が鬼の体に張り巡らされ、明滅を繰り返し始めた。
「なんだよ? どうした、オッサン。早く続きしようぜ」
敬の足が調子を刻む。楽しい遊具を眼前に差し出されて、嬉々と喜ぶ子供の顔だった。
純真な狂気に近いそれに、鬼の瞳は少女の額に角がないことを確かめていた。
「時間がねェんだ、俺にァ」
「時間? 時間なら未だあるぜ、あんたもオレも未だ動ける。死んでもいねぇ。下らねえ話はしねえんじゃなかったのか」
「嗚呼、そのつもりだったんだがなァ、人生上手くいかねェもんだ。忘れンな。俺は召喚された身の上だ。力を振るえば振るうほど、魄の消耗が激しくなる」
鬼は召喚によって縛られている。下法召喚という強制的な拘束がある以上、世界はその魂が物理世界に長く留まることを許さない。魄の消耗が激しくなり、やがて至る結果は強制送還。最悪の場合は暴走ということになる。
拷炎は自我意識を保ってはいるが、戦いが長引けばどうなるのかは分からない。召喚者がおめおめ送り還すはずもない。
「還んのかよ?」
「馬鹿野郎。上物の女を前にして、ンな下らねェ退路を選ぶかよ」
正当な決闘を願う者同士、この戦いが曖昧な結末を辿ることだけは避けたい。現状、戦いは長引けば長引くほど互いにとって有益な事態にはならない。
人間である敬の体力の限界か、牛鬼が贄を欲する悪鬼となるか。
どちらも碌なものではない。早々に決着をつけなければならないようだった。敬は兎も角、鬼の体は契約に縛られている。
「……あー、クソぉ!!」
構えを解くと、少女は腹の底から大声を放った。
鬼は面食らって目を瞬かせる。
「な、なンだ、いきなり」
「勿体ねぇの! ……あーもう、オッサン! 次に京庵来る時はちゃんと自分の力で来いよ! つうかそんなに強えのに何であんな奴に召喚なんてされんだっつうの! 馬鹿! あ、違う馬じゃねえ、牛! 牛鹿! 鹿でもねえや! 牛!」
鬼は暫く硬直したままだった。限界を知らせる時計の砂は既に落ち切っている。
種族は違えど求めるべきものは同じなのだろう。敬は地団駄を踏みながら本気で悔しがっていた。尚も何事かを怒鳴っていたが、拷炎の聴覚は徐々に音が拾えなくなっていた。
長く伸びた鞭を思わせる尾で己の背を叩き、意識を呼び戻す。
「くっ……、だァっはっはっはっはっはァ!! くくッ……、こいつは本当に上玉だ! 嗚呼、確かに勿体ねぇ! こういう闘争は十の朝と十の夜を跨いでやるもんだ!」
鬼は両拳を地面に打ちつける。建物が一際大きく軋んだ。
「決着だァ、兜我師。抜きなァ」
「……そうなる、か」
互いが互いに笑みを交わす。口元に浮かぶのは戦士としての矜持、胸中は楽しい玩具を遊具箱に片付ける子供のそれだ。
焔が散り咲き、笑みは枯れる。灰となって再び舞い戻るために。
拷炎の黒い炎が渦となる。片膝をついた鬼の足元は黒々とした劫火が燃え狂っている。
地面に突き立てた両腕の手首を拘束していた武具が解け落ち、地獄の煮え釜へと飲み込まれていく。黒炎は鉄金を咀嚼するかように収縮を繰り返した。やがて鬼が手を抜くと、渦の中心から伸び立つ焔は鬼の角へと宿り、角はその色を黒へと変えた。
「[囚刑・業魔炎]」
宣言と共に鬼の膝は骨の砕ける音を上げて背後へ曲がった。生々しい音と共に生体は変化し、鬼の体は第三の形態に至る。
それは半人半獣。先程と変わらぬ上半身に、牛の下半身が加わった。尾は長く、体は焔と同じ深淵の色だ。黒火は鬼の体に降り注ぐ。
幾千の闘牛士を退けてきた、無駄など一切ない荒牛の姿だった。
黒く輝く角に触れれば、骨も残さず焼き尽くされるだろう。〈獄卒者〉系統が扱う焔は正に地獄の業火と言い換えて相違ない。一切の容赦がない獄卒の心構えだ。双塔の焔が鬼の角に凝縮されている。
「さァ、惜しいが最後だ」
敬は拳を叩き合わせた。
一度。
目を閉じる。暗闇。
二度。
名を呼ぶ。
三度。
暗闇に生じる緋の鐘声。
目を開く。胸の前で一際力強く叩き合わせた。
四度。
炎の蛇が宙を這い、風が髪を撫で上げる。同時に周囲で踊り狂っていた敬の炎が消えた。
鬼の瞳に疑念が宿る。暗闇を照らすのは黒火だけだ。彼女の領域に燃える戦火は一切ない。
「気を抜くなよ、拷炎。十の朝と十の夜を越えた時が今だと思え」
敬は体を低くすると左腕を後方へ向けた。手の甲を上に、空気が焦燥する音だけが響く。
拷炎は四足を撓めて大地を蹴った。
黒炎を宿した二本角が夜に軌跡を作り出す。二人の間にあった瓦礫が拷炎の二本角によって粘土細工のように削り取られた。猛進は止まらない。
「御汚、負雄烏汚オ悪大緒逐牡男嗚お乎追ォ応!」
拷炎の猛々しい咆哮。
敬は左手の五指に一本ずつ力を込めて、内側へ折り曲げていく。鐘鳴が鳴り響いた。
開花の音。
距離は零となり二つの世界が交わる。鬼は二本角を以って少女の臓腑を抉ろうと身を屈める。
敬の左手は遂に拳の型となり、それと同時に敬は腕を大きく振るった。光。
「狩派兜式練武第六段、[白蓮]」
泥土を貫く一閃の白。刹那の間、鬼の腹腔に白い花弁が咲き誇った。
白い蓮の茎は敬の左手に繋がっており、微細な制御の元に置かれていた。
天上に咲き誇るという聖なる華が獄卒鬼を焼き尽くす。
時間にして数秒の開花だったが、鬼は爆音と共に後方へ吹き飛ばされた。大砲を思わせる一撃によって腹腔を射抜かれた拷炎の巨体は一瞬の間を置き、地面へと叩きつけられる。
耳を裂く静寂が尾を引いた。
「気ぃ抜くなって言ったじゃねえか……」
敬は溜めていた吐息と共に、力を込め過ぎて震える左手を下ろすと鬼の下へ歩み寄った。室内の黒火は消え、敬の放った蓮の名残が踊っている。
拷炎は四肢を地面に突き立てて立ち上がった。だが力が入らず地面に崩れ落ちる。敬がしゃがみ込んで拷炎の顔を覗き込んだ。
「……終わっちまったなァ」
鬼は犬歯を見せて爽快に笑った。敬は膝を抱えて鬼の笑顔を静かに見返す。
「楽しかったな」
「嗚呼、俺もだ。死出の花道にゃァ申し分ねェ華だった。……お前の火は燃えねェんだな」
「オレは殺したくて戦ってる訳じゃねえもん。それにオレの円坐天はオレ以上に楽しいことが好きなんだ。だから最後まで攻撃の補助しかしねぇ」
鬼は変わらぬ笑みを浮かべていた。逆方向を向いた右腕を地面に付き、少女を見つめる。
「……俺の処罰はどうなるンだ。屠署に連れて行くのか?」
「オッサンは召喚されただけだろ、前科もなさそうだ。この闘いはオレの私闘。気にくわねえかな?」
鬼は自らの左手を開閉し、緩く首を振った。その角は徐々に光を失い、白へと色を戻していく。
「俺ァ良い。十分楽しませてもらった。……だが、同胞は、あいつ等は。……ラオウとドコウはどうなる? 俺ァこの場合敗者だが、頼む。それだけは教えてくれ」
真摯な瞳には利己や私欲など一切浮かんでいない。綺麗な色だと敬は思った。
「……ラオウは朱天の召喚が暴走して人間を殺したんだ、だから今は屠署に居る。弩劫はそれを知ってもう一度召喚された。今は白亜で保護してるよ。悪いことは誓ってしてねえ」
あまり驚いてはいなかったが、それでもその溜息には彼らしからぬ寂寥があった。拷炎は既に悟っていたのだろう。
「そォか。……あの馬鹿が人を食ったっつうのは本当だったか……」
「……別に慰めてる訳じゃねえけど、召喚暴走ってのは一時的な錯乱状態になるんだと。だから」
鬼は分かっているとでも言うように頷いた。瞳は伏せられ、意識の底へと向けられている。
「……あのラオウの奴は馬鹿野郎でな、村でも一番の臆病者だった。それが豪傑と名高いドコウの所に婿に行くとなった時にャあ俺も驚いたなァ……」
敬は言葉が見つからず、鬼の話をただ聞いていた。
「嗚呼分かってる、そうなっちまったもんはもうしょうがねェんだ。俺は全ての真意を確かめるために来た。お前が言うンだ、嘘はねェんだろう」
「じゃあオッサンは何で、何でラオウがそうなった元凶の奴に召喚されたんだよ」
敬の言葉には疑念が宿っている。鬼は右腕を宙に持ち上げて直ぐに下ろした。
「……知ってるとは思うが、俺等の一族は能力の扱いが下手でな。召喚された奴の後を追うなんて芸当は到底出来ねェ。鬼神様が居た頃にャあともかく、俺等は誰に干渉されるでもなく生まれ、死んでいく。そういう慣わしなンだよ」
鬼は体を半転させ、仰向けになった。獣の半身は緩慢と芥に還りつつあった。
「俺は若頭として、同じ鬼として、あいつ等に起こったことを知らきゃならなかった。例え己の誇りを曲げても、元凶であるあの若造の駒になってもな」
「……良く分かんねえ」
鬼は呵々と笑った。体は魄となりつつあるが苦痛はあるはずだ、痛みは召喚者が対象を拘束する鎖でもある。それでも拷炎の顔に苦しみはなかった。
「俺はあいつに、朱天の小僧に二人の末期を聞いた。酷ェ話だ。だがそれも嘘だと分かった、嘘だと知らしめたのがお前だ。だからもう良いンだ」
「同族よりオレを信じんのか?」
「馬鹿野郎、思ってもねェことは言うな。俺は拳を合わせりゃ相手の善悪くれェは判別出来る」
「すげえ自信だ」
敬は思わず苦笑するも、鬼は自らを否定しなかった。強い瞳だった。
やがて鬼の体は淡い光を放ち始める。召喚された者に与えられる強制的な理に従い、体は虚空へ帰する。闘いの中で大量消費された拷炎の魄は既に大半が失われてしまっている。
鬼の瞳は天上を眺めていた。敬は鮮烈なまでに清々しい横顔を見つめる。視線に気付いたのか、鬼は首を動かして少女を見つめた。
「なンだ、玩具取り上げられたガキの顔してンぞ」
「また戦いてえ」
闘いの中にあった凛々しい花が散る。敬は縋るように、消えていく欠片に指先で触れた。
「お前ェ等、寿命短ェしなァ」
「また来いよ、拷炎。オレはまたあんたと遊びてえ」
無理なのは互いに分かっていた。鬼はもう二度とこの地を訪れたくはないだろう。仲間を失い、鬼の血で染まったこの京庵の地を。人間を厭う心はなくとも、誇り高く仲間思いである彼等が誰かの円坐天になる可能性は低い。
「生きてたらどっかで会う時もあらァな。勝者が辛気臭ェ面すんじゃねェ」
既に透明になりつつある体で、それでも鬼は笑ってみせた。
敬が頷くと同時に、鬼の体は一切の余韻なく消失した。
無言の悲しみだけが寂然と残り、敬は掌を握り込む。
「戦いの終わりは死ではない」。誰かの声がした。
「敬」
名を呼ばれて緩やかに顔を上げた。
気が付けば周囲は本来の風景に戻っていた。室内は広く、崩れかけた受付口の前には水瓶を抱えた石像が立っていた。噴水に水はなく、代わりに埃が降り積もっている。美女の表情も何処か物憂げだった。
廃墟の入口である場所には街の光を背負って立つ人物が居た。
「花誉」
現実の感覚を確かめるために名前を呼び返す。今が例え夕暮れでなくとも、彼女達が居る場所は鬼と亡者が蠢く魔城だ。
「お疲れ様です」
規則正しい足音が室内に響く。廃墟の向こう側は街の夜光が煌めき、あの林は忽然と消えていた。
花誉は敬の隣に立つと拷炎が居た場所を見つめた。敬も同じく罅割れた床に視線を落とす。
そこにはもう何もなかった。朧な存在は軌跡を残すことすら許されない。黒々とした焦げ跡だけが焼きついていた。
「オレは未だここに居るよな、花誉」
琥珀の瞳は一点を見つめている。花誉は小さく頷いてみせた。
確証を哀調へ変ずる術とてない。敬は頭上を仰ぎ、願いを託した。
「オレに難しいことは分かんねえよ。……けど、拷炎のおっさんが本当にやりたかったことは、きっと」




