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鬼神艶戯  作者: 黙ノ尾
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十章:花ノ玉響

 太陽の光を吸収した敷き布と枕に鼻先を擦り付け、柔らか且つ滑らかな感触を頬と言わず体全体で堪能する至福の時。

 睡眠の時は下着しか纏わない習慣のため、阻害する感覚は一切ない。

 長い白銀の睫が震え、時間的な余裕をたっぷりかけて開かれた。滄海の瞳は睡魔の荒波を未だ征服出来ないらしく泡沫に揺蕩っている。

 うつ伏せの状態で眠る遊は掛け布から露出した自らの左腕を虚ろな目で見つめた。緩慢と掌の開閉を繰り返し、納得がいったように掛布の中へ戻した。

 十畳ほどの部屋は厚い青色の遮光幕によって薄暗い。その境目からは白い絨毯に一線を引いて、柔和な光が忍び込んでいた。

 何かの夢を見ていた気もするが思い出せない。

 夢現(ゆめうつつ)の中で雨音を聞いた気がする。だが現実、雨の匂いはせず、本日の晴天を少女に知らせた。

 退院から二日と半日。やはり馴染んだ部屋の匂いが落ち着くと、遊は溶けるような微笑を浮かべる。猫を思わせる欠伸をして体を捻り、陽光に背を向けた。脳内には二度寝の選択肢しかなく、忠実に睡眠欲の下す命令に従おうとした。

 頬が枕ではない弾力に触れる。


「ふにゃ……?」


 顔を上げると、直ぐ間近に知砂の寝顔。下着一枚の遊と大差ない格好――黒のタンクトップに恐らくは下着(ショーツ)一枚。

 眉間に、暖かな寝台に冷気が進入したことを咎める皺が寄った。無意識下に伸びた知砂の腕は遊の細腰を引き寄せ、ようやく納得がいったように穏やかな表情へと変わる。

 思考の鈍った現状、遊は知砂の胸元に顔を埋めて再び眠りに落ちた。

 鼓膜に蘇るのは小波の音でも風鳴りの音でもなく、安息と充足に満ちた呼吸音だった。



【十章:花ノ玉響】



 次に遊が意識を浮上させた時、鼓膜を叩いたのは珈琲豆を挽く音だった。

 目を閉じたまま匂いを吸い込む。

 良く知った苦味と似た匂いだ。慣れた手つきで淹れられる濃茶の飲料が、角砂糖と冷えた牛乳で甘い渦を描いて色と味を変える。時折入れる蜂蜜の飴色はとても魅惑的だ。

 朝の音と匂いに遊は枕を抱く。隣にあった体温は既にないが、僅かな残り香を肺一杯に吸う。かくいう間に荷物を纏めたはずの睡魔がそ知らぬ顔で戻ってきた。


「お帰りなさいなの……」


 寝惚け言語が炸裂している中、ふと豆挽き(ミル)の音楽が止んだ。

 子守唄が途切れたことで遊は体を縮こませる。一人で睡魔の世界に旅立つには静寂は心許ない。「むー……」と一鳴きしたところで部屋の扉が開かれた。

 遮光幕が開かれる音。瞼の裏に感じる眩い日光に遊は寝台の中に潜り込む。


「そろそろ昼時だよ、遊」


 声と共に、知砂がリビングから連れてきた蜂蜜と珈琲の芳香が五臓六腑に染み渡った。同時に空腹を思い出す。

 だが遊の体は動けない。睡眠と食欲は三大欲求の内の二大勢力だ。その二つが寝惚けた頭の中で抗争を繰り広げる。残り一つの派閥はどうやら少女には未だ無縁なようだった。生まれてこのかた十七年傍観を決め込んでいる。


「遊?」


 声は間近で聞こえた。

 知砂は掛け布に手を掛けながら微苦笑交じりに名前を呼ぶ。そして神業とも言える手際で掛け布を優しく剥いだ。温度差に遊は更に丸くなる。枕を抱き締め小さく唸ると、宥めと労いを兼ねた柔らかい感触が額に降りた。


「……はぅ?」


 甘みに混じった煙草の匂いを嗅ぎ当てて瞼を苦心して開ける。

 最初に見た色は高貴な紫水晶(アメジスト)。瞬き数回、蒼海石(アクアマリン)はまだ睡眠の誘惑に勝てない。それが知砂の瞳の色であることを認識するのに更に数秒を要した。


「おはよ」


 満足げに銀糸を撫でる知砂の手。ふうわりと笑いながら、遊が寝台から身を起こす。低血圧というほどではないが、朝の起床が不得手な少女は現状が下着一枚という事態に気付いていない。


「おはよ、ちーちゃ」


 寝台の上に正座になり、何やらむにゃらむにゃらと非言語を話す遊に、知砂はいつものことだと大して気に留める風もない。

 白い肌に浮いた鎖骨と薄く慎ましい胸、先端の野苺、肋骨は辛うじて見えない細い脇腹、半紙に墨汁を一滴零した臍、水を弾きそうな太腿と細い足首。下着は白い肌に映える淡い桜色だ。知砂はあえて忠告をせずに、か細い肢体を余すことなく堪能する。

 やがて崇高な美術評論家の面持ちで首肯した。


「うん。起床一番からご馳走様、遊」

「ふぇ? ちーちゃん、ごはん先に食べちゃった……?」

「いやまぁ食べたいのも吝かではない。……いやうん、こっちの話。頑張って我慢するね。嗚呼ほら、顔洗ってきな? ご飯出来てるから」


 首を傾げていた遊だったが、促されるままに寝台から這い出る。返事ともつかない鳴き声を上げてふらふらと私室を後にした。小さな背中に知砂も続く。

 やがて洗面所からは、自らの痴態に気付いたらしき糖菓子色の悲鳴が上がった。

 知砂は殊更笑みを深くして、鼻歌混じりにリビングへ戻った。それは例えば、日常の彼女を包む皮肉などからは全くの無縁のもので、彼女の最大限の幸福を表現する微笑だった。



 早朝の入院劇から二日半。

 怪我は塞がり、魄の再生を促す護符を貰い受けて二人は自宅へと戻った。学校側には流行型の風邪と偽り、二人は公欠扱いになっている。

 暦表(カレンダー)の四月十八日、つまり今日の枠組みには赤ペンで創立記念日と書かれている。

 学校の誕生日が何故休みになるのかは在校生徒からすれば謎である。だが世の仕組みは学生にとって貴重な休日の送迎物に過ぎない。進学校ならば休日は補習に還元されるが、自由な校風の常盤南高校にはそのような考えは存在しない。伸ばすべき植物は酸素と水、そして麗らかな日光の下でそれぞれの成長に任せるというのが歴代校長に受け継がれてきた考え方だ。

 遊は未だ赤い頬のまま椅子に座る。

 全裸に近い状態で向かった洗面所で慌しく洗濯前の半袖シャツを纏ったらしい。現在もそれを着ている。黒の半袖シャツは知砂のもので、小柄な少女には未だ大きい。


「別に今更でしょうが」


 遊は頬を膨らませ、珈琲杯を両手で持ちながらそっぽを向いている。

 向かいの席に座る知砂は込み上げる笑いを止められない。知砂からすれば自らのシャツで身を包んでいる時点で十分に誘惑中との認定が下りる。朝食を兼ねた昼食を前にして、夜の馳走を眼前に運ばれた気分だ。前掛けを掛けて左右の手にフォークとナイフを握っている身内の獣を宥める。

 桜ん坊色の頬を指先で突きながら、知砂は蜂蜜色の笑みを浮かべた。


「拗ねない拗ねない」

「ぷー、です」


 最大の攻撃たる猫パンチも彼女からすれば愛猫の戯れだ。知砂の眼前の空気をてちてちと叩く白猫の攻撃は遠い。

 知砂は今度こそ底から笑った。遊の攻撃が及ばないのは、体が小さいために椅子に深く腰掛けると手が届かないからだ。元より遊が知砂を傷つけるはずもなく、廉恥の代替としての慌て振りが愛おしくて堪らない。

 だがこれ以上笑いを積載するとご機嫌を損ねる場合がある。猫は気紛れで気難しい気性の持ち主だ。


「ゴメンゴメン。もうしないから許して、遊」


 遊の掌を受け止めて指を絡める。指の腹で華奢な手の甲を撫ぜると、途端怒りの赤が桃色に変じた。


「ね?」


 たおやかな知砂の微笑は社交向けの積み上げでも矜持の隠蔽でもない。年相応の微笑だった。無防備な、少し艶の交じる笑み。丁度珈琲に混ざった一匙の秘密と似た味をしている。


「ち、ちーちゃんは悪くないも……」


 すっかり俯いて、だが指先の関係は決して離すことなく遊が呟く。知砂は名残惜しげに繋いだ手の力を緩めた。遊もそれに従って結合を解く。


「さて。冷めるよ、食べない?」

「食べる」


 一転して食欲は旺盛だ。

 知砂はいつもの笑みを浮かべて、サラダボールの器に抱かれた色彩も豊かな野菜達に和風ドレッシングをかけてやる。その隣では薄膜の掛かった目玉焼きと厚切りのベーコンが美味そうな焦げ目を見せていた。そして焙煎したての珈琲。受け皿には蜂蜜や角砂糖が宝石の光沢を放っている。


「いただきます」

「ん。いただいてくださいな」


 既に先程の失態は彼方へ溶けたらしく、遊は両手を丁寧に合わせた。見計ったようなタイミングでトースターから焼き目も丁度良い食パンが飛び出す。遊は拙い所作でバターと苺ジャムを付け、案の定指先に零れたジャムを美味そうに嘗め取った。

 知砂は架空の隣席に座る獣の扱いを考えている。幻影を振り払い、自らも食パンに手を伸ばした。


 春の昼過ぎ、朝食兼用の遅い昼食。報道が背景曲として食卓に流れていった。

 半月に及んだ鬼の事件は黒耀の手に渡り、長い裁判が始まった。鬼が関連した二十七の事件、五日前の出来事を加算すれば二十八件に及ぶ 事件。その内、朱天童子が絡んだとされる事件は十六件。

 茨生偉継の罪状は朱天童子による擾乱を幇助した容疑と、器物破損、白亜職員に対する公務執行妨害に主軸が置かれた。主犯格である者の不在により議論が長引くのは必須だった。

 また、召喚という古い方法が用いられたことによって朱天童子の証言なしには議論出来ない部分が多々ある。召喚暴走における危険性、認知の有無、真意。多くの謎を抱えて鬼は闇に消えた。

 男性報道者と評論家が事務的な声で遺憾の意を示している。

 神経質そうな評論家の男は若者の犯罪の増加と円ノ衆に対する批判、白亜と黒耀に対する遠まわしな陰口を並び立てていた。彼の背後には彼の円坐天と(おぼ)しき金色の鸚鵡が止まっていた。口先八丁で有名な〈左顧右眄鳥(さこうべんちょう)〉の一種だ。男の背後で拡声器めいた声を上げて契約者の言葉の力を強めている。

 同族嫌悪の化身に知砂は嘆息を付く。更に言うならば定型文と化した円ノ衆批評も聞き飽きていた。

 穏やかな昼下がりを台無しにはしたくない。遊の視線が映像機に向く前に、自然な風を装って番組を変えた。

 間の抜けた背景音楽と大仰な効果音、そして不必要なまでの観客の歓声が室内を満たす。映像を切ろうかとも思ったが、青い双眸が学力試験の時さながらの真剣さで映像機に向けられていたので仕方なく操作機を置いた。

 京庵の町並みを新人の女性報道者が軽快な足取りと口調で紹介している。隣にもまだ出演者が居たが芸能関係の情報に疎い知砂はそれが誰であるか分からない。大仰なリアクションからするに芸人の類かもしれない。

 遊の蒼の瞳は羨望と共に映像機の彼方に向けられていた。知砂もまたその番組を見つめる。


『おおう、ここが京庵で有数の観光地である繚櫻橋(りょうおうばし)でやがりますかー?』


 やけに説明的な台詞だった。そして敬語も何もあったものではなかった。視線が画面の右端にあることから、誰かに言わされている感が甚だしかった。

 知砂は無表情のままに珈琲を啜る。優しさを一切排除した無糖の苦さが心地よい。


『ええとですね、今日は京庵中央区にやってきましたぜ! ここは京庵を流れる川の一本でですね、あ? ちょいそれ何て読むんですか、あぁ、はいはい。なんとか川だそうで! で、ですね! その川に沿って桜並木が長ぁく続くと言う訳です! 凄いですねー!』


 同伴の芸人などそっちのけで女性報道者はマイク片手に走り回っている。報道の自由というか存在自体が自由な女だ、と知砂は思った。

 珈琲の杯から唇を離し、卓の彼岸を見る。


「……何、行きたいの?」


 薄紅の唇に苺ジャムが零れていた。

 咥えたパンと一緒に頷く姿に、知砂が否定の決断を下せるはずもなかった。





 京庵中央駅前。私鉄道が走る区画の中では最も旧市街に近い、新市街五十二区。

 駅舎は京庵新市街運営委員会の観光課が祈願し懇願した設計図の元に設立されており、外装と内装は共に京庵の町並みに相応しい歴史の重みを感じさせる風貌をしている。実情は今年で築二十年の、若さも滴る老若男女に優しいバリアフリー設計だ。私鉄、公鉄、地下鉄の合流地点であり、一日の利用者数は国内でも随一の値を叩き出している。

 待合場所として有名な広場には樹齢五百歳を超える大桜〈春姫〉が桜色の腕を持ち上げ、美麗に立ち尽くしている。彼女は何処かの山麓で一人の人間と恋に落ち、悲恋の末に枯れ果てた桜の末裔であるという伝説がある。母たる山桜の秀麗さを引き継ぎ、彼女はこの地に根付いた。


「あたしはデートを期待してた」

「四人でデートだよ?」


 紫煙を燻らせる声は僅かに不満げだった。黒のキャミソールの上は白吹雪(フロスティホワイト)の薄ジャケットを羽織り、下は黒のミニスカート。脚線を強調する黒のガーターベルトと同色のパンプスによる完全装備。尻からは獣尾の代わりに電子手帳のストラップである鎖が下がっていた。

 対する遊は粗めに編まれたブイネックの白セーターを纏っている。モコモコ成分過多のセーター下にはライトクリームのキャミソールが覗く。下は高貴な青(ロイヤルブルー)のハーフパンツ。動きやすい運動靴は白生地に色も鮮やかな水玉が描かれていた。銀の頭にはプルシアンブルーという渋い色合いの鳥打帽(キャスケット)が乗っている。帽子のこめかみ部分には葡萄酒色(ワインレッド)の聖石が輝く。

 財布機能を兼ねた電子手帳と煙草しか持ち歩かない知砂とは異なり、遊は帽子と同色の小さなドラムバッグを持ち歩くようにしている。腰に結わえられた鞄は突然の任務にも対応出来るように持ち運びやすく軽量のものだ。

 遊は真珠色の電帳を畳んで隣を仰ぐ。煙草の火が灯された部分は上を示している。


「ちーちゃ?」


 遊は知砂の不満の原因を解明出来ず、困ったように首を傾げる。

 そして回答を思いついたらしく知砂の手を握った。知砂の煙草の先端が少し下がる。


「えへへ」


 握り返される感覚を感じながら、遊は対岸の歩道を繋ぐ信号機が変わるのを待っていた。受信したメールの内容はもう数分で到着するとのことだった。

 視線を大通りの彼方に向けると、巨大な映像機に映った男性報道者が淡々と日々の出来事を告げていた。

『登山者十二人の神隠し事件』、『海竜の鱗に船頭を引っ掛けたことによる訴訟問題』、『人狼と狼人の結婚を認める抗議活動』……。

 人だけでなく廻來天もまたこの地で多く生きている。その数だけ問題は生じる。それでも遊はこの街が好きだった。

 車道の信号は交通量に則って変色した。静止する機械の代わりに人が巨大な流れとなる。押し寄せる大波に流されないよう、知砂の手を強く握った。

 人と音で満たされた酸素の中に融解しない童話が重たく鳴り続ける。


『精々道を違えぬことだ。さもなければお前も戻れなくなるぞ』


 視界を一瞬、燃え猛る赤髪が過ぎった。


「――ッ」


 遊は反射的に振り返る。が、多種多様な種族で溢れる広場に想像した人物を捕らえることは出来なかった。

 斬られた肩を鑢で磨がれた。あるいはそれが思い浮かべた人物との接触だったのかもしれない。静謐に響いた不和の声に呼吸が乱れる。忌憚の凶話、濁流の奔流が耳元で流れそうになる。

 遊は不規則な息を吸った。


「ちース。遊、知砂」


 鼓膜を叩いた音が親友の声であると判断するのに時間は掛からなかった。

 遊が正面に向き直るとそこには見知った友人の姿があった。彼女達の背景も日常のものだ。

 此処は辻裏ではない。悪夢の燐粉をはためかせる毒蛾が何処かへと飛び去っていった。


「二日振り」

「旧市街も新市街も凄え人だぜ。観光シーズンだもんな」


 敬は迷彩色のカーゴパンツ、上は犬の足跡が白く印刷された橙の半袖シャツを着ていた。履き慣らした愛用の運動靴は健在で、何より動きやすさを重視する彼女らしい格好だった。首には飛行用眼鏡と、電子手帳に連結したヘッドホンが掛けられている。

 花誉は銀緑の桜が散るワイシャツの上に白百合色の薄いカーディガンを羽織っていた。下は薄紅色のプリーツスカートで、白い素足をワイシャツと同色のタイツが隠している。足は優しい木肌のショートブーツ。肩には飴色のショルダートートバッグが掛けられており、その姿はお散歩途中の御嬢様を思わせた。


「今日和、お二人とも。お誘いに甘えて来てしまいましたが、怪我の方は大丈夫ですか?」


 長い髪を束ねた鼈甲の簪が春光を反射する。桜を模して作られた一品に通る鈴がしゃなりと鳴った。邪を祓う神妙なる音に遊は知らずの内、安堵する。


「骨はくっついたし、一応は」

「遊はどうです?」


 何処か上の空だった遊の手を知砂が優しく引く。遊は慌てて三人を仰ぎ見た。


「ふぇ? あ、うん、もうへーキだよ」


 ぱたぱたと開いた手で宙を叩く。

 敬が帽子越しに遊の頭を撫でた。覗き込む琥珀は心配そうだ。


「……おい、知砂。病み上がりに無茶させてねえだろうな」

「企業秘密」


 内側も外側も創痕は体中を締め付けている。幼き頃よりずっと、誰も彼もが遅効性の毒を孕んだ鉄条網の中に囚われている。密閉された花園は茨に覆われ、濁流の底に沈殿した。

 全てが終わった訳ではない。忘れはしない。悲愴の泥流に奪われた両親と隠蔽された真実を。

 遊は強く頷いた。

 例え毒に犯されても膝を折ることはしない。俯いていては、立ち止まっていては誰も守れない。

 道を違えることは決してない。三年前のあの日から、傍に大切な人と畏友が居る限り、己は守るために、そして両親の死の意味を知るために剣を握ると決めた。


「ん。もう大丈夫」


 突風が四人の間を抜けていく。悪戯な春色の風に道の各所で歓声が上がった。


「っしゃ、んじゃあ花見行こうぜ花見!」

「時期的には少し早いですが、今年の繚櫻橋は丁度満開みたいですよ」


 春姫の花弁が降り注ぐ。

 知砂は遊の手を取って歩き始めた。言葉はない。だが遊は分かっている。だから背後を振り向くことはしなかった。

 知砂の掌を握る。握り返してくる感覚に笑みが零れる。

 歩み始めた横断歩道、十字に区切られた大通りを歩く。

 だが突如、大通りのビルに埋め込まれた巨大な電子版が緊急速報を表示した。四人は反射的に顔を上げる。


『先程十四時三十八分頃、京庵中央東五十二地区の繚櫻橋付近で酒に酔った花翁(はなおきな)が呪いを用い、周囲百メートル付近の植物を超育成しました。呪を受けて樹齢百歳級の若い木々達が一念発起、抗議活動を行っています。五百歳以上の老木は花翁と意気投合し、宴を開催の模様。以下は白亜及び黒耀の隊員に向けられた勅令です、緊急事態として最寄りの戦闘員は強制出動。現場の沈着活動へ向かって下さい。なお、一般の方々は被害が拡大する恐れがありますので、くれぐれも現場付近には向かわないようにして下さい』


 長々と強制出勤の口上が述べられた。

 四人は大通りの中心に立ち尽くしていた。信号は未だ青。


「ね、ねぇ、ちーちゃん? あのね、あれって」

「何も言うな、遊。言わないで」


 知砂の手を引く遊。知砂は直ぐに彼方へ目を逸らせた。


「あ、あう……」

「あれでは花弁が散ってしまわないでしょうか」


 現実と映像機から目を逸らし続ける知砂の隣で、花誉がぼんやりと呟く。その隣の敬は楽しげに足踏みをした。


「うは、凄え! 桜の木の根っこってああなってんだなー」


 およそ見当違いの感想を抱いていた。

 報道者の背後では繚櫻橋付近の映像がリアルタイムで流されている。

 巨木の中の一本、その腕に若い女性が抱かれていた。大木は土の足跡を道路に描きながら何処かへ向かって歩いている。どうやら老木の一柱のようで、向かう先には京庵が誇る歓楽街があるはずだ。

 よくよく見れば、木に抱かれた人物は先程映像機で見た『激突! 京庵ぶらり旅』の新人報道者だった。マイク片手に半狂乱で何事かを喚いている。その隣には大の字で引っかかっている芸人の姿があった。こちらは完全に気絶しているらしく白目を剥いていた。


「どうします……?」


 半ばまで灰になった煙草を咥える知砂と花誉が見つめ合う。


「どうするも何も。花見に行った先の肝心の桜が家出中とか、どうなの……」


 映像は止まらない。泥酔した花翁は扇子を両手に不可思議な舞を踊り続けている。近辺の雑草までが太古の姿を思い起こし、翁の周囲は広大な林へと変わっていく。


「春、ですからねぇ」


 既に悟りの境地に達した一言に、知砂は名残惜しげに繋いだ手を離した。

 春は植物の目覚めと共に花や不可思議が咲き誇り、人々は魄の夢を見る。

 既に大通りを抜け、空に跳躍している敬が背後を振り返った。


「先に行ってるぜ!」

「無茶したら駄目ですよー」


 既に駆け出し、敬は街へ消えていく。

 街の各所で少女を焚き付ける激励の言葉が飛ぶ。可燃性の彼女は心からの遊戯とばかりに、大空へ焔で以って一輪の花火を咲かせた。

 遊は隣を仰ぎ、知砂を見つめる。


「行ってきな。あとあの浮かれ爺はあたしが川に叩き込むから残しといて」


 携帯灰皿にぎしりと煙草の先を押し付ける姿は少し怖い。遊は困ったような笑みを浮かべて曖昧に頷く。

 蒼穹の瞳は明星と共に強い意思を宿していく。

 知砂は日常の温度が完全に失われる前に、細腰を引き寄せて帽子を取った。そして銀糸に唇を落とす。見送りの合図。遊は目を閉じて儀式に従う。

 皆が皆、自らのことに精一杯で二人を見咎める者は居ない。

 道は直ぐ前にあった。隣には大切な人が居る。だから彼女達は此処に居る。

 知砂の手が離れ、遊は鯉口を切った居合い刀の如く、一直線に街を駆ける。

 そして両足を撓めて壁を蹴り上げ、電子版の報道者の顔を両足で踏み、更に空を目指した。


 街の咆哮が駆けた。


 歓楽、歓喜、憤怒、悲哀、悲愴、憎悪、狂乱の繚乱。それ以上の闇を孕む鳴き声。

 多様な言語と人々、そして交錯する感情の連鎖。遊はそれに正面から立ち向かった。風が銀糸を撫で上げる。春風と重力からの解放が心地好い。

 そして彼方より飛来した蒼き龍が少女の影と融合を果たし、街の向こうへと消えていった。



【鬼神艶戯 了】

書き終え……2010年11月10日

修正校正……2012年02月05日

原稿用紙換算……430枚

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