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鬼神艶戯  作者: 黙ノ尾
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九章:不如帰

 特務適格者対犯罪取締機関本部《白亜》二階――〈雷帝〉の私室である会議室に緋の光が満ちた。部屋の出入口である鉄扉は重厚な役割の通りに通路へは一切の光を通さなかったが、遮光幕のない部屋の窓からは、未だ闇に沈む森へ幽光が解き放たれる。

 部屋の中心に立っていた弩劫は自らの掌に視線を落とす。

 彼女を拘束していた召喚の縛鎖が遂に解けたのだ。言弾の茨の蛇は女の体を名残惜しみ、白い喉を、豊満な胸元を、ほどよい肉付きの腰を撫で、太腿を締め付け、足首を離してようやく床に浮かび上がった巣穴に帰っていった。

 瞼を開ければ偽りの甲名を示す文字が消えていく。

 首の枷を外されたかのようにドコウは大きく息を吐いた。咳き込みさえしなかったものの不快が織り交ざる吐息は苦い。だがそれを最後に身を包む空気は澄んでいった。

 眼前の景色は何も変わらない。変わったとすれば己の虚偽たる名前が消え失せたことだ。解放という言葉の意味をドコウは改めて噛み締める。


「ほんまにええの? あの子達に直接会わんでも」


 一斤染の着物に身を包んだ紅は鬼を見つめた。彼女の背後には電源の入った音声拡張機が鼓動代わりの起動音を脈動させていた。

 鬼の肢体は淡光を放っていた。空気ではなく自らが澄んでいくのだと、ドコウは少し間伸びた考えを抱く。太筆で一筆なぞったかの如き墨髪の先端は光へと置換され、空中に音もなく溶けていく。鬼は顎を引いて肯定の意を示した。


『彼女達に何か伝言があれば僕達が必ず伝えるよ。先刻連絡があってね、首謀者は無事に封印された。もう召喚に怯える必要はない』


 ドコウは深々と頭を下げた。疲労が滲む頬を、解けた長髪が滑り落ちる。


「彼女達に懇謝の旨をどうか。多大な迷惑を何卒お許し下さいませ」


 紅は小さく頷き、必ずと強い瞳で答えた。


「ラオウ氏の件に関しては後日、黒耀と屠署から直接通達がいく思います。あんまり気ぃ落としたらあきませんえ」


 窓の外に宿る夜は部屋を黒で包み込む。

 紅の真摯な解に安心し、微笑んだ女の姿はゆっくりと宙に溶けていく。鬼は輪郭を失いながらも更に深く頭を下げる。

 鬼の姿は虚空へと散っていった。

 非業の鬼の散華に紅は目を細める。赤と名の付く者が見た赤は殊更に美しかった。

 室内は森の木々に日光を遮られ、未だに重々しい夜を抱く。森の朝は遅い。だが一日の始まりに敏感な木々達は光明を欲すように葉を揺らせた。

 この場に居ない人物は機械を通して、長い間口に含んでいた息を吐き出した。紅もまた疲労の滲む呼吸を慎ましく唇の先に滑らせる。ほ、と一息。紅の吐息が艶美な色香を纏う。


「ようやっと泣き声が止んだみたいやねえ。……ほんま痛ましい事件やったわ」

『全く長い狂歌(くるいうた)だった。……この件についてだが、君はどう思う。〈(あざな)いの琴姫(ことひめ)〉』


 紅は部屋を横切り、窓枠に指を掛けた。夜露に濡れた窓硝子に手入れの行き届いた爪で触れる。赤く塗られた爪先に雫が一滴落ちた。温度を感じる暇もなく一滴の水は白の床に消える。

 他者の声と言弾を借りて自らの状況を整理したがるのが雷帝の癖であった。声には学者然とした雰囲気と病的なまでに明朗な日和者が、背反しながらも共存している。


「封印かどうかは分からんのと違います? 現場に容疑者の血痕と体の一部……は発見されたようやけど、肝心の姿が何処にも見付からへんのやし」

『腕は残っていた。かつての故事に従えば、生きている限り、鬼はいずれ腕を取り戻しにやってくるんじゃないかな』

「暢気なもんやね、〈雷帝〉」

『各々遺恨はあれど、どうやら今回の幽戯(ゆうぎ)は終わりだ。そして山のような後始末は僕の仕事サ』


 紅は振り返ることもせず、暗がりの森を見つめていた。

 聞けば、ドコウの故郷は未開の山中だと言う。

 人類未踏の地は未だ多く、あるいは人目に触れないよう意図的に用いた呪いが働き続けている。

 森は最も身近な異界だ。(ももとせ)の力を持った八百万の者々が闊歩し、外界に生きる人間を拒絶している。山や川泉、森に海、島。かつて古の神と謳われた廻來天達は魂の古里たる神森(しんりん)を如何様に思うのか。そこならばまた平穏に日々を暮らせるのだろうか。

 鬼は祈る。偶像ではなく、産土に眠る地母神とも言える鬼の王へ祝詞を捧ぐ。(かしこ)み、日々の常々を語り、明日もまた何事もなく過ぎますようにと。

 元来の鬼神信仰は静かな祈祷と精神の平穏を齎す素朴なものだった。祈りは願いだった。

 だが人間の凶行に神々は和魂を砕き、怒れる荒魂となった。悪魂と化した邪神は争いの火種を呼び、いつしか気高い矜持を捻じ曲げ、人々を憎むようになってしまった。何処かで違えた歯車が歪な音を立てて足元で巡り廻っている。

 かつての人々にとって鬼は神だった。ならば鬼は、そして鬼神は誰に祈るのだろう。


「……神さんかて、祈りたいことくらいあるやろに」


 暗黒から白光が森を駆ける。白亜の城砦が、待ち侘びた白との邂逅に殊更の朝光を纏う。

 忍ぶ夜の遮幕を巻き上げて、直ぐ近くまで朝が来ていた。



【九章:不如帰】



 射光幕のない室内は昼過ぎの眩い光によって隅々まで照らし上げられていた。真白の陽光を透かせる木々の影が寒々とした内装の会議室に物静かな影を落としている。それは穏やかな春の色だった。開け放った窓からは春風に乗った森の芳香と土の匂いとがそよぐ。

 部屋の中心には四つのパイプ椅子があった。

 窓際に最も近い椅子には花誉が座り、窓の外を見つめている。隣には足を組んで欠伸を零している敬が居る。敬の頬や腕には包帯や柔布(ガーゼ)が巻かれているが本人に苦痛の様子はない。

 二人はいつも通りに常盤高校の制服を着こなしていた。いつもと違う点があるとすれば、残り二つの座席が空白であることだ。

 花誉の視線の先では円らな瞳の縞栗鼠が仲間と共に無邪気に戯れている。背中に黒い縦縞があり、しなやかで大きな尾は森の梢によく揺れる。頭上では鶯や不如帰、郭公、山鳩達が歌を奏で、春の交響曲を合唱していた。

 街の中に取り残された森は伐採や開拓が禁止されており、公道は街と黒白の城を繋ぐ四本の直通道路しかない。もう少し暖かくなれば大地は(ぜんまい)(わらび)、タラの芽などといった自然の恵みを授かることだろう。

 この広大な森の何処かには名のある廻來天が居るという噂があるが、なるほど強大な力ゆえに自然が守られているのだろうと花誉は考えていた。


「迷子の鳥が鳴いてるぜ」


 欠伸交じりに敬が足を組み直す。花誉は茫としていたことに気付き、意識を森から呼び寄せる。いつも唐突に投げ掛けられる会話の剛速球に慣れるにはそれなりの回数を要す。既に慣れ切っている花誉は即座に肯定の意を(ひょう)した。


不如帰(ほととぎす)ですか」

「そ。親とはぐれでもしたのかな」


 敬の脳裏に浮かぶのは、頭と体に青灰を塗し、胸元を白く、体を横縞で縛られた愛くるしい鳥だ。敬は鳥真似をしようと息を吸う。だが花誉は人指し指でその唇を封じた。


「ふぁ?」


 間近になったことで、花誉が愛用する桜の香水の匂いが喉を塞いだ。


「駄目ですよ、敬。不如帰は一日に八十八聲鳴かなければならないんです。鳴かないうちは例え喉が裂けても血を吐いても、逃れられない運命。人に鳴き真似をされるとその数だけ鳴き直さなければならないんです」


 敬は鳥真似を飲み込む。代わりに口笛でもって一声鳴いた。


「鳥も大変だな」

「羽を所持していると勝負運が上がるとか」

「八十八回も鳴かなきゃならねえ忙しい鳥の助けを借りるほど、落ちぶれちゃいねえよ」


 「だろ?」と揶揄めいて問う声に花誉は肯定の意を兼ねて隣を仰ぐ。元より他者の力を借りての万能など求めていない二人は似た笑みを交わした。

 やがて砂嵐の雑音と共に音声拡張機が起動する。黒の画面に刻まれた文字はやはりいつも通りの二文字。期待すらしていない二人は拡張機と向き直った。敬はそのままの格好で、花誉は正面を向いて声が発せられるのを待つ。


『んや、どうしたい? 報告は皆の調子が戻ってからで良いと言ったはずだけれど?』


 声は別段驚いた風もなく、いつも通りののんびり口調だった。花誉は太腿の上で指を組む。


「司式・(たか)(つか)()()に代わり、補佐役・()(なし)()()が報告します。本日四月十六日〇三五一を以って、半月に及んだ鬼による傷害事件の参謀役と思われる茨生偉継を拘束。しかし、首謀者である朱天空須來は〇三三六に要求した応援を振り切り、逃亡しました」


 淀みなく告げられた言葉に、電子の彼方に居る人物は苦笑を浮かべた。


『心配しなくても良い。君達に否はなく、勿論咎めるつもりもない。これは僕の落ち度だ』


 花誉は指を組み替え、正面だけを見つめている。


「朱天空須來の血痕及び左腕が、新市街にある某ビルの屋上で発見されたという事実を私達に隠しているのも、その落ち度から来るものなのでしょうか」


 苦笑が不自然に止んだ。敬は頭の上で腕を組み、脳が欲する睡眠欲求をそのままに、大きな欠伸をしている。

 花誉は指揮官の弁明を待たずに言葉の歩みを進めた。


「容疑者の生死は現状不明。ですが現場に残された大量の血痕から、生存は絶望的との判断が分析班によって下されました。茨生偉継は黒耀によって書類送検。本人が事件の関与を認めたため、実刑判決が下されると思います」


 花誉の言う通り、首謀者の姿は忽然と消えた。現場に残された腕と大量の血痕は白亜の分析班でなくとも死を連想させるには十分だった。生存しているにせよ死亡したにせよ、逃亡の痕跡がビルの屋上で途切れていた。ビルの先には高層建築の断崖しかなく、目撃者も存在しなかった。

 指揮者は苦笑を嘆息へと変えて言葉を電子音に変換する。


『……流石は一般公募からの成績優秀者リストに入っただけはある。知砂は黒耀からの推薦だったが、あの子は如何せんやる気がないからねぇ。敬も黒耀からの推薦だった。遊の場合は特殊なケースとしても、か。うん、僕ァ部下に恵まれて幸せだなぁ』


 花誉は映像機から目を逸らし、窓の向こうを見つめた。


「今回の事件で嵩司と御秡如が負傷。……大変申し訳ないのですが、当分の間は任務から私達四人を外して頂けないでしょうか」


 声は事務的なものから一転し、深い悲哀を含んでいた。敬がちらと横目で隣を見ると全くの無表情だった。納得したように椅子に身を沈める。

 事件の責任は電子の向こうにあるが、こちらにも多少の否がある。花誉は指揮官より先に自分達の否を認め、見事に心理戦の要部を掌握していた。

 知力に長けた知砂と駆け引きに長ける花誉。確かに二人の慧眼を掌握した雷帝は賞賛に値する。しかしそれらの技量を存分に引き出すより先に丸め込まれる時の方が多くては、完全に宝の持ち腐れである。

 指揮官は、涙に濡れた声に少しだけ口早に言葉を発した。


『やや、僕も当分は書類の整理に忙しい。全くこの御時世に筆記でなければ駄目だなんて、黒耀の連中も頭が固いよ。君達の休暇はがっつりがってん受諾した、ゆっくり休んでくれたまえ! あ、お花見オススメ! お土産にやきそばパン買って来てね!』


 言う通り、本当に忙しいのだろう。子女の泣き声に慌てていた理由も存分に含まれているだろうが通信は慌しく途切れた。時計の長針を大量消費する無駄話も今回はなかった。言葉の最後に添付された要望は努めて無視する。

 花誉の口元には相変わらず穏やかな微笑みが浮かんでいた。

 静寂。


「……オレさ。(たま)にだけど、お前の敵じゃなくて良かったって心から思うよ」

「私は敬の味方ですよ?」


 きょとんと小首を傾げ、花誉は既に立ち上がっていた敬を見上げる。純粋無垢な新緑の瞳に映った自分の姿を見返しながら敬は頭を掻いた。


「うん、知ってっけどさ。なんつうか、なぁ?」


 花誉は疑問符を浮かべていた。繰り広げる舌戦は全くの無自覚下に行われている。

 敬は一拍の間を挟んで、何故か冷えている指先を揉み解した。気を取り直して拳を握る。


「んじゃあ、見舞いに行くか!」





「素直に見舞わせろよ、お前等」


 優しい乳白色で囲われた病室。清潔感と無機質さが同居する空間の扉と口を開け、敬は意の一番にそう言い放った。握られた拳は頼りなく開かれる。

 部屋には二つの寝台が並んでいたが、琥珀の瞳は窓際にある方に向けられている。

 遮光幕によって明暗の境にある寝台の上には遊の姿がある。

 寝台脇にある三脚椅子には遊と同じく、青い入院衣に身を包んだ知砂が座っている。婀娜めいた肢体を強調する薄着は同性でさえ甘い倒錯を引き起こす。

 敬の注釈が飛んだ原因は一つ。知砂の人差し指が遊の顎に添えられ、尚且つ二つの唇は僅か数センチの距離だったからだ。さながら毒林檎を飲み込んだ眠り姫に唇を重ねようとする女騎士の姿。

 敬の脳裏は眠り姫と騎士の性別は別だったように記憶している。話の真意を探るべく十秒ほど考えたが、知恵熱が出そうなので止めた。


「もうヤダ、このエロい人」

「妬いてんの?」

「馬鹿なのお前。オレが何時ンなこと言ったよ」

「相部屋が災いしたようですね」

「かよちゃ、けーちゃ」

「お。起きてんな」


 いち早く敬が復活し、寝台から届いた声に安堵の笑みを零す。


「既視感……。つうか何度目? これ」


 一人憮然とする騎士が呟くと、既に覚醒していた眠り姫は降り零れた吐息に小さな笑い声を上げる。そして少しだけ恥ずかしそうに仰向けの状態のまま掛け布団を引き寄せた。

 黒髪の騎士は顔の半分以上を隠した姫の額に唇を落としてから椅子に座り直した。ふんわり仕立ての寝台上に片頬杖をついて、一呼吸を置き扉の方を見る。


「で? あたしに何か言うことはないか、敬」

「病院で発情すんのは止めといた方がいい」

「良いシチュエーションじゃない?」


 悪びれる様子は塵一つ分もない知砂に、敬は嘆息を付いて室内に足を踏み入れる。後ろに続いた花誉が扉を襖でも閉めるかのような丁寧な仕草で閉めた。窓からは穏やかな春風と共に小鳥の囀りが吹き込んだ。


「元気そうで良かったです」


 敬は知砂の背後にある窓際に腰掛け、花誉は二つの寝台の間にある三脚椅子に腰を下ろした。遊は掛け布団から少しだけ顔を出して来訪者を仰ぐ。


「指揮官に報告してきました。休暇は受諾され、晴れて早い春休みです」

「へぇ」


 知砂は頬杖を付いたまま、生気の篭らない声で頷いた。敬は少しだけ不満そうだったが、仲間二人の体調を彼女なりに慮ってか異を唱えることはしなかった。


「調子はどうだ? オレなんか三時間で骨くっ付くんだけど」

「規格外と一緒にすんな」

「はわー」


 遊は掛け布団を下げると右手を持ち上げ、感覚を確かめるように宙を握った。肩から腕にかけての感覚が未だ濁っているらしく、横顔に僅かな影が差す。遊は時間を掛けて上半身を起こした。

「未だ一部が完治していないんです、あまり無理をしたら駄目ですよ」


「……ん」


 花誉は乾いた左手で遊の額に掛かった髪を撫で上げた。妹を気遣う姉のような慈しみを持った声に、遊は大人しく手を下げた。支えとして背中に枕を挟んで、ようやく深い息を付く。


「知砂もです。寝台から出て良いとは医師からもまだ聞いていません」

「あたしは骨折だけだから平気」

「そういう問題ではありません。……遊は? 何処か痛みませんか」


 遊は左肩に視線を落とす。他にも斬られた場所はあるが、そこには一切の傷がない。

 円ノ衆はその殆どが驚異的な回復能力を誇る。また異能が介入した医術によって、現在では切断された肉体部分を再生、接合させるくらいの手術は容易に行えるようになった。

 円ノ衆の怪我は回復系の能力と医師免許の両方を持つ円ノ衆が行う場合が多い。一般の医療知識と共に高度な能力制御が問われる職業であり、世界規模で数を増やすプロジェクトが組まれているほどだ。

 遊は花誉の言葉に浅く頷いた。

 いつ施されても奇妙な感覚だと思う。夢の彼方に痛みを置いてきた違和感があった。他者の魄が自らの魄を傷つけ、また癒す。

 人間の魂と肉体と精神を繋ぐ魄は密接な関わりがあり、性質の違う他者の魄の力は妙薬にも劇物にもなり得る。自身の魄の接合に介入されることは決して気持ちの良いものではない。

 体が伝える大切な信号(シグナル)を飛び越えて、痛みを静止する医業。傷は塞がったはずなのに未だに痛む胸の奥。年の割に慎ましい胸元を数回撫でる。傷口のない場所にある痛みに首を傾げた。

 知砂は萎れる銀髪を一度だけ撫でると、椅子から立ち上がってベランダに繋がる扉を開けた。春の麗らかな風が黒い前髪を撫で上げる。


「快晴だねえ」


 着火音に次いで紫煙が(えん)(えん)()と立ち上る。彼の妖しは煙草の火から生まれた訳でもないだろうが、必ずとも言い切れない。長年愛用すれば情が沸く。付喪神が憑いて足が生える日も近いだろうが、如何せんこの嗜好品は消耗品ということでその可能性もなさそうだった。

 既に真上に差した太陽が手中の小型着火装置を光らせる。あるいはこちらなら存分に可能性があった。細長い筒状の着火装置は数回のオイル交換を果たし、長年彼女の懐にあるものだ。恐らくはこの鉛色が九十九()の果てになるまで使い込むのだろう。


「んん、美味い」


 下らない思考遊戯に耽りながら、煙草を吹かす。花誉が一瞬咎めるような目をしたが、紫煙が寝台に届かないように留意している配慮には気付き、止めた。


「そういや、あの預言者の真意は結局どうなったんだろうねえ」


 半月に及んだ鬼との戦いは結局双方とも大きな傷を負い、宴は終局を迎えた。

 全てが始まったあの朝に邂逅した隠者の黒影が思考を過ぎる。九十九()という名に反した闇の権化。まるで全てを見据えた上での言葉だった。花誉は知砂の双眸が見据える先を追う。


「預言はあくまで預言。真実ではありません」

「外れたんだよ。誰があんな辛気臭ェ奴の言葉を信じるかってんだ」


 窓の向こうに背を向けたまま、敬はまるで興味なさげだ。

 遊は数週間前の出来事を振り返る。考えてみても九十九の真理は分からない。彼を包むのは夜闇という生半可なものではなく、永劫明けぬ深淵の暗黒だ。出会うことは滅多になく、存在自体が噂のように曖昧で、尾鰭羽鰭を付けて化生へ転ずる。外套の奥に潜めているのは謎と闇、あるいはそのものだ。

 遊は頭を振って考えるのを止めた。花誉が少女の機微に気付き、優しく頭を撫でてやる。


「もう終わったんですよ、遊。大丈夫」

「んん」


 微睡交じりの温い会話に、知砂も思考を掘り下げるのを止めた。闇に陥っては預言者の思うつぼだ。煙の合間に欠伸を漂わせながら春の日和を堪能する。

 知砂は一般病棟の二階から何のことなしに病院の裏口を眺めていた。病院の外にある喫煙所は円筒の灰皿があるだけで年々喫煙者が廃絶される縮図でもあった。現に人の出入りが激しい入口ではなく裏口にある辺りからして、病院側が渋々この場を確保していることが分かる。

 日陰のひんやりとした空気と街を抜けていく風が攪拌され、知砂の最も好む温度になっている。後であそこに吸いに行くべきかと考えていた。


「吸い過ぎは体に毒どすえ」


 声に知砂は首を傾げて扉の方を向いた。

 庭に咲く枝垂桜の白い花弁が一陣の風に吹かれて宙を舞う。巻き上げられた花弁は二階の病室に優しく降り注いだ。

 ほぼ白に近い枝垂の着物に桜鼠の帯を巻いた人物が、病院の慌しい日常を背景に立っていた。手には短冊状の竹で編まれた小籠が握られ、その上には網目状の肌をしたメロンと柔らかな色の白桃、鮮やかな林檎、程よく糖点が付いた実芭蕉(バナナ)が入っている。定型と化したお見舞いセットを抱えてもなお見栄えが良いから不思議だと知砂は煙草の先を下げる。

 注意を受けた事実はさておき、知砂は窓枠から背を浮かせて軽く会釈した。


「どーも」


 口には変わらず煙草を挟んだ簡素な挨拶に、紅は特に気を悪くした風もない。長く伸びた髪は着物に映える杏色をしていた。

 リノリウムの床にからころと朱塗りの下駄が鳴る。手中の籠を僅かに持ち上げて優美に微笑んで見せた。


「お見舞い」


 外の雑音が部屋に滲んだ。敬が反射的に窓際から腰を浮かせ、床に着地した。


「おわ、紅姉さんじゃん!」


 花誉と遊もまた腰を浮かせたところで、視線を一身に集めた紅は手でそれを制した。


「久し振りやねえ」


 嬉しそうに微笑む姿は戦闘と血が溢れる白亜には相応しくない。だがその実力は準指揮官を束ね、且つ副指揮官を支える実力を持つ〈臘月ノ牽連〉の一角だ。

 臘月ノ牽連の中には如儡師を率い、自ら前線を切り開く者も居る。

 〈綯いの琴姫〉の異名を持つ彼女は前線を退いて久しいが、二つ名は未だ京庵に反響していた。攻防に優れる技術力、柔和な人格からも彼女の指揮と指導を望む如儡師も多い。

 そして敬と花誉を二年間に亘って指揮した人物でもある。

 先刻の花誉と同じく扉を両手で閉めた紅は下駄の音を鳴らして寝台の脇に立つ。花誉が自ら座っていた椅子を明け渡して立ち上がると、紅は困ったように微笑んだ。


「何もそないに緊張せんでもええやないの。うち傷つくわぁ」

「いや、だって牽連が果物引っさげてやってきたら誰だって吃驚するよ、姉さん」

「せやけど心配やったから」


 敬が、動けない遊の代わりに籠を受け取る。花誉は扉近くにある給水筒で茶を入れ始めた。


「そういや、オレが入院する度に来てくれてたもんな」

「敬は元気過ぎるんよ」


 遊は敬の籠を両手で受け取り、おずと紅を見上げる。


「ありがとうございます、紅さ……」


 敬称に慣れないために語尾が掠れていたが、名の通りの色をした瞳が慈しみを滲ませて細められる。滑らかな指が銀糸を撫でた。遊は安堵して素直に撫でられている。


「遊は相変わらず恥ずかしがり屋さんやねえ」

「はうぅ」


 遊と知砂は白亜に属して三年間、指揮官が変わったことがない。千跳んで九十五日間変わらず、電子音の彼方から指令を受けている。

 ただ週に何度か眼前の指揮官とは必ず顔を合わせた。奇異な偶然は恐らく彼女の恣意によるものだ。白亜に属する前、入隊の際も彼女と出会ったのを覚えている。紅色の瞳は、すれ違って言葉を二言三言交わす度に微量の悲哀を付加していることを遊と知砂は知っていた。

 花誉が寝台脇にある小机の上に音もなく茶碗を置いた。

 茶碗の湖面は即席では出せない上質な色合いになっており、紅は遊の銀糸から手を離して質素な碗を持つ。遊が名残惜しげに紅の掌を見た。


「花誉、雷帝の所では無理してへん?」

「大丈夫です。先程長期休暇を搾取してきました」


 直立不動の姿だったが声には照れが滲んでいる。紅は気付かぬ振りをしながら手中の碗を赤い唇に運んだ。

 知砂は煙草を咥えて静かに外を見ていた。春の風が小波のように聞こえる。


「うん、おいし」

「有難う御座います」


 即席の茶で品評会もないだろうに、花誉は慇懃に頭を下げた。紅は順を辿って四人の少女を見つめる。杏の髪は感情を表し、滲み出した(そほ)に変わる。


「報告は雷帝を通して聞きました。彼に代わり、労いに」


 白雪に咲く椿の声音は静かに届く。知砂は紅を見つめ返し、舌先に疑問を乗せた。


「あの鬼人の処遇は?」


 未だ長いままの煙草を携帯灰皿に押し付ける。警報機に悟られる前に紫煙と火の名残が掻き消された。紅は日常のたおやかさを忍ばせて、横顔は職務へと戻る。


「詳しいことはまだ。せやけど主犯である朱天が行方不明である以上」


 そこまで言って紅は言葉を切った。

 知砂は知っているという意志を込めて小さく頷く。夜明け後の僅かな時間で集めた情報を元に、指揮官に行くよう求めたのは知砂自身だからだ。

 各々の脳裏に浮かぶ砕けた刃。連行される時でさえ彼女は一言も発しなかった。

 外傷はいずれ癒える。だが心的なものの傷口は癒えることなく、あるいは痕として残る。血膿を零し、激痛に吠え猛り、痛苦の中で救いを欲する。かつてその傷を塞いだはずの糸は切れた。あの少女は喪失に耐え切れるのだろうか。


「鬼は現状行方不明。黒耀の審議は早くて三日後から始まります。うちの考えが正しければ」

「黒耀はあの子鬼を飲み込むな」


 低い、血の滴る声だった。

 遊が知砂を見つめ、紅は痛みを堪えて瞳を閉じた。手繰り寄せた糸は切断されて血膿に塗れている。


「……知砂。あんたはんは未だ」

「まぁ事実決定権は向こうにある。あたしが口出し出来ることじゃないか」


 知砂は口元に笑みを食み、窓枠から背を浮かせる。ごく自然を装って、知砂は紅の言葉の先を制していた。紅は目を閉じる。二人を心配そうに見遣る遊の頭を知砂が撫でた。


「ドコウさんは、どうなったの?」


 遊の問いに紅は少女を見る。空中に浮かんだ言弾の殻は鎧を崩落させ、既に彼女が拘束下に置かれていないことを伝えた。


「屠署には行ってないよね?」


 紺碧の瞳を紅は正面から見据える。崩壊した言弾の名残に触れながら上官は首肯した。


「うちが責任をもって送還しました。その点は大丈夫」

「強い詞でしたから不安はありましたが、紅指揮官が送還したのなら安心です」

「あら嬉し、花誉から褒められるなんて。うちもまだまだ現場で働けそうやね」


 花誉は紅が浮かべた満面の笑みに撫でられ、手持ち無沙汰に持っていた盆で顔の半分を隠した。


貴重(レア)だなー」


 花誉を仰ぎ見た敬が率直な感想を述べる。最後は完全に顔を隠してしまった。


「て、照れてなんてないんですからね」

定型句(テンプレート)をそのまま使うなんてらしくないねぇ、花誉」


 知砂は苦笑のままに花誉の発言を引き継ぐ。


「兎も角。〝弩〟は元より、〝劫〟は他方で「取り返すことの出来ない約束」だからね。おまけに本来の意味では「長くとても長く」の言弾を併用してる。大した奴だよ、全く」


 空須來の真意を垣間見たのは遊だけだ。

 鬼の慟哭は全てではないにしろ、あの辻裏で遊の中に届いた。ドコウへ委ねた甲名はまるで鬼の願った未来を重ねたようだった。

 四人の胸中は異なるが目下の問題は一応の解決を見た。全てを告げた紅は手中の椀を傾けて最後の雫を飲み干す。


「皆、あんまり無理せんといてな」

「大丈夫だって、姉さん。心配すんな」


 敬の朗らかな声に花誉が頷く。

 遊は紅の甲に指先で触れた。紅が顔を上げると遊の笑顔がある。

 彼女達は傷を負っても歩み続ける道を選んだ。傷口を結わう糸は切れ、それでも誰かが穏和な掌で傷を塞ぐのだろう。紡ぎ手たる紅は自嘲めいた胸中の干渉を払い、立ち上がる。


「ほな、うちはそろそろお(いとま)しまひょか」

「もう行っちゃうの?」

「堪忍な、遊。それに皆も。もう少し気張っておくれやす」


 紅は自らを見上げる蒼の瞳を正面から見つめ、名残惜しげに銀髪を撫ぜる。蘇るかつての盟友の姿に赭色の髪は再び杏に色を戻した。


「嗚呼そうや、忘れとった。敬?」

「んぁ? なんスか?」


 遊と知砂に贈られた果物に手を伸ばしかけていた敬の指先、林檎が鮮やかに兎の姿となった。遊は感嘆の意を述べるも、動物的直感に優れた敬は冷たい汗を林檎の果汁と共に滴らせた。


「あんまり暴れ過ぎるんのも考えもんやね。馬頭鬼との対戦を見させてもろたけど、あれは赤点さんや。花誉も、あまり敬を甘やかさんよう気ぃ配りやす」


 絶対零度の金網に拘束された二人は身を固めた。

 知砂は本日二本目の煙草を無言で咥える。

 慣れない叱咤に花誉の背筋が伸びていた。椿事(ちんじ)が続くなぁと煙草のフィルタの奥で呟く。椿の名残を漂わせる紅は相変わらず穏和な様子だ。


「……あー、もしかして例の事後処理は」


 言わなければいいのに敬は紅を見上げる。反対に、花誉はゆっくりと頭を下げた。


「うち」

「すいませんッしたァー!!」


 直立不動のまま、頭を下げて角度九十度の謝罪。真名が口から半分抜け出すような敬の叫びに、紅は上品に着物の末尾を翻して笑みの余韻と共に踵を返した。

 花誉が陳謝の意を兼ねた見送りのためにその背中を追うが、紅は首を振って貞節に断った。

 再び四人となった室内は春風と沈黙が吹きすさぶ。

 暗雲を頭上に浮かべる敬に、遊が爪楊枝で刺した林檎兎を差し出していた。


「け、けーちゃ、林檎。林檎食べる? 兎さんだよ?」

「御見通しだねぇ。流石に同情するよ」


 花誉は盆を置くと知砂の隣に立ち、気を改めて窓を全開にした。

 知砂は煙草の先に火を点して風を焦がす。遮光幕が後ろに靡き、待ち兼ねていたように不如帰が鳴いた。

 四人は声の主を探して街並みを眺める。

 所々が桜に染まる京庵は一見して穏やかな観光地だ。

 しかし闇は何処の世界にも存在する。部屋の四隅に蟠る微かな名残、人心の中、ないしは廻來天の中にさえ。

 片腕を残して、鬼の姿は春霞に消えた。離別の痛みを一人の少女に残して、世界は歌い踊り戯れる。舞台に立つ者が居る限り宴は続く。九十九の告げた予言の端を血で滲ませて。


「……宴か。戯言みてえだ」

「鬼はそれでも、(ことごと)不帰(かえらず)の王を()つのでしょう」

「空須來さんもきっと信じてたはずなの。……でも」


 歪んだ願いと気付かずに鬼は千年を生きた。

 血族を殺され、身に胞衣(えな)を纏い、能面で心中を隠蔽し、鬼は戯れた。それでも制止する者とて現れず、救いの鬼神と相見(あいまみ)えることあたわず、一人の鬼は偽神と化した。偽りの神を演技し続けた。


「『鶯のかこひの中に不如帰。獨り生れて己れ父に似ては鳴かず。己れ母に似ては鳴かず』、か」


 病院の外に区切られた街は空気までをも桜色に染め抜く。

 謎を孕んだ闇は、少なくとも病室から見える世界には何処にもなかった。

 春鳥が帰る場所を求めて歌を紡ぐ。

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