日曜日の音楽
母はローマ・カトリックの信者であった。それで日曜ごとに近くの教会に行って礼拝に出席した。母のお供で、信者ではない父と私と弟も一緒に礼拝に出た。父はともかく、子供だった私と弟にとっては退屈な行事であった。
この礼拝というやつは具体的には何をするのか、参列したことのない人にはよくわからないだろうが、じつは毎週出ていた私もあまりよくおぼえていない。なにしろさっぱり興味がなかったもので。まあ、お祈りの文句を唱えたり、聖書の一節を朗読したり、歌を歌ったり、神父の説教を聞いたりするのである。メイン・イベントはキリストの肉体に見立てた焼き菓子をみんなで食べるというもので、それだけ聞くとなんだか猟奇的に聞こえるが、教団の内部においてはそれなりに筋のとおった説明があったはずである。私も説明を受けたことはあるはずだが、忘れてしまった。
いくらかおぼえているのは、歌についてである。今はどうなのか、またどこの教会でも同じかどうかはわからないが、我が家が当時かよっていた教会では『典礼聖歌』という聖歌の楽譜の載った本が何十冊か用意してあり、礼拝のつど参列者に貸し出していた。この本には四百曲ぐらいの聖歌が載っていたと記憶している。一回の礼拝で歌うのは、そのうち十曲ぐらいである。
この聖歌というやつ、歌詞はたいてい聖書の文句を借りており、総じて抹香くさい、教訓臭ふんぷんたるしろものである。が、曲調には独特の味わいがあり、叙情的な名曲といってよいものすらある。たとえば「ごらんよ空の鳥」とか「ガリラヤの風かおる丘で」といった曲は信者の間でもかなりの人気があり、礼拝でこうした曲を歌うときは声の大きさからして違ってくる。
信者ではなく信心のカケラもない私が今でも折りにふれて思い出すのは、「呼ばれています」という曲である。歌詞の元になっているのは、「マタイによる福音書」二十四章から二十五章にわたる一連の説教だろうか。人間いつ死ぬかわからないのだから常にその心構えをして生きろという話だと私は理解している。その歌詞を、落ち着いた雰囲気の、それでいてメリハリのきいた印象的な旋律に乗せて歌うのだ。この曲を思い出すと歌詞の教訓くささなどはいったん脇に置いて、頭の中で曲を追いながらしみじみと自分の生活を振り返ってしまう。
もし私が信仰心の厚い人間であったら、もっとたくさんの聖歌をいつも頭の中で思い出して、ついでにその歌詞の説いている教訓も思い出しながら毎日暮らしていたかもしれない。想像すると「ウヘー」という気持ちになるが、見ようによってはそれもまた良い生きかたであるかもしれない。
「そこに音楽があるから」はこれで終わります。




