うつろう記憶
十九世紀のイタリアにアミルカレ・ポンキエッリという作曲家がいた。「時の踊り」というのが代表作である。というより、それ以外の曲はいまではほとんど演奏されない。私も一曲も知らない。しかしながらその「時の踊り」はたいそう良い曲で、あちこちで耳にする。おそらくたいていの人は一度や二度は聴いたことがあるはずである。
二〇〇二年に小柳ゆきというポップス歌手の歌う「Lovin' You」なる曲が発売されて、いくらかヒットした。「時の踊り」をアレンジした曲である。これが大胆かつ爽やかな、すこぶる良いアレンジであった。私はこれを初めて聴いたあと何年かのあいだ、原曲の「時の踊り」の記憶が上書きされてしまって思い出せなくなった。思い出そうとしても、ひとりでに「Lovin' You」のほうにすり替わってしまうのである。
音楽のことにかぎった話ではないが、とかく記憶というものはあてにならない。
「ばななのくに」という歌がある。外国の童謡か何かに鶴見正夫という人が詞をつけたものらしい。私はこの曲をごく幼いころに合奏したことがある……ような気がする。なにしろ子供のころのことで、記憶はまったく不確かである。幼稚園の発表会か何かの演目だったのか、それとも小学校の音楽の授業でやったのか。また、私は何の楽器を担当したのか。まるでわからない。ただ、合奏したという記憶だけがある。
記憶がおぼろげなのは、いつどこでどんなふうに演奏したかという背景の事情だけではない。曲そのものの記憶も怪しい。というのも、この曲は四拍子なのだが、私が合奏したと記憶しているのは旋律こそ似ているが三拍子の曲なのである。
この謎は長年私の頭を悩ませていたのだが、最近になって新しい事実が判明した。じつは私が「ばななのくに」だと思って記憶していた三拍子のメロディは、まったく別の曲のものだったのである。「河は呼んでる」という歌で、一九五〇年代に公開された同じ題名の映画の主題歌であるらしい。
おそらく私は子供のころに「ばななのくに」と「河は呼んでる」のどちらかを合奏し、もう一方も聴いたことがあったのだろう。メロディが少し似ていたせいで二つの曲の記憶が混ざってしまったのだ。そして結局のところ、合奏したのがどちらの曲だったのかはわからないままである。




