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飄然草  作者: 千賀藤兵衛
第八部 そこに音楽があるから
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ガブリエル・フォーレについてのとりとめのない述懐

 クラシック音楽で私の好きな作曲家といえば、まずはガブリエル・フォーレを挙げなくてはならない。一八四五年生まれ、一九二四年没のフランスの作曲家である。

 一九九五年のこと、フォーレの生誕百五十周年を記念して、いろいろな演奏会でフォーレの曲が演奏された。全国的あるいは全世界的にそうだったのかどうかはわからないが、すくなくとも私の住んでいた某地方都市ではそうだった。

 私の母はピアノをひく人間だったので、この年はいくつもの演奏会に駆り出されて、フォーレの歌曲の伴奏をした。当然自宅ではその練習をし、高校生だった私はしょっちゅうそれを聴くことになった。それが私のフォーレとの出会いであった。母はまた、フォーレの曲の入っているCDをいくつも買ってきて家でかけた。フォーレの曲が好きだからというより、単に研究のためだったのだろう。それが気に入ったのは私であった。母の買ったフォーレのCDを聴いた回数は、母よりも私のほうが断然多いはずである。

 当時の私はフォーレの曲の何がそんなに気に入ったのか。まずはその感傷的な節回しである。「シシリエンヌ」や「夢のあとに」といった有名な曲を思い出してみれば、それは明白にわかる。私はおセンチな少年だったので、こういったものが気に入るのは当然であった。だがそればかりではない。

 フォーレは戯曲「ペレアスとメリザンド」の上演に際して演奏される音楽、今でいう劇伴BGMを作っているが、そのなかに「アンダンテ」と題する曲がある。演奏時間わずか一分程度の短い曲で、例によって感傷的な旋律だが、終わりのほうに二カ所ほど音を大きく外したところがあるのが非常に印象に残る。おそらくこれが鍵である。

 その音の外れているところは感傷一辺倒ではない変化を曲にもたらしており、そこに私は自由の息吹とでもいうべきものを感じたのだと思う。その音外れはフォーレにとっても下手をしたら曲をだいなしにするおそれのある一手だったはずであり、にもかかわらず彼はそれを選択したのである。そしてその自由さが、感傷的な節回しと同じぐらい、あるいはそれ以上に私の心をとらえたのだ。

 フォーレはこの「アンダンテ」をふくらませて、「幻想曲」というフルートのための曲も作っている。おそらく自分でも気に入った旋律だったのだろう。この「幻想曲」のほうも良い曲である。


 もちろんそんな理屈を考えたのはもっと年を取ってからで、若いころはただ単に聴いて心地よいと感じていただけである。

 青春の多感な時期にふれた音楽というのはおそろしいもので、フォーレばかり聴いていた時期はほんの何年かであったのに、二十年以上たったいまでも何かにつけてその調べが思い出される。「パヴァーヌ」、「小ミサ」、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」といった鉄板の名曲から、「ある僧院の廃墟で」、「この世のすべての魂は」、「マンドリン」、「五月」、「我らの愛」、「タランテラ」、「クリスマス」、「イスファハンのバラ」、「月の光」といったあまり目立たないであろう歌曲の小品、さらには組曲「ドリー」や組曲「ペレアスとメリザンド」、それに先に述べた「アンダンテ」と「幻想曲」。どれも思い出した瞬間、心が若返ったように感じるのは気のせいだろうか。


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