幼き読書家
たしか小学三年か四年のころであった。母が私を本屋に連れて行って、好きな本を一冊買ってくれると言った。
私は当時すでにいっぱしの活字中毒者だったので、欣喜雀躍して店内を徘徊し、これと思った本を母に見せた。『さとし、ぼくのサッカーエース』という題名の大判の児童文学である。当時の私がこの本の何に惹かれたのかはわからない。おそらく後年よくやるように、おもしろそうなにおいをかぎつけたのだろう。
ところが母はあまりいい顔をしなかった。そして、こっちの本にしたらどうかと別の一冊を示した。灰谷健次郎の『プゥ一等あげます』という小説である。こちらは文庫本だった。
母がどんなつもりだったのか、いまとなってはよくわからない。大判のハードカバーである『さとし~』よりも文庫本の『プゥ一等~』のほうがお財布にやさしいと思ったのか。それとも聞いたこともないような人の書いた『さとし~』よりも安心と信頼の灰谷健次郎作品のほうをおすすめしたかったのか。(『さとし~』の著者は、西森良子という当時も今もまったく聞きおぼえのない人物である。)
いずれにせよ、好きな本を買ってくれると言っておいて、いざ本を持って行ったら自分のおすすめをゴリ押ししてくるのでは約束がちがう。私はねばった。母も内心後ろめたいところがあったのか、早々に折れて『さとし~』を買ってくれた。そして『プゥ一等~』も買った。これもどういうつもりだったのかよくわからない。
家に帰って、私は当然二冊とも読んだ。活字中毒者なので。その結果『さとし~』もまあ悪くはなかったが、『プゥ一等~』のほうはそれはもうとびきり面白かったのだった。
この一件から読書家として私が何を学んだかというと、大人や偉い人がすすめる本はおもしろいと期待できる、ということではなかった。自分で選んだとか、人からゴリ押しされたとか、そうした経緯はどうあれおもしろい本はおもしろいし、そうでない本はそうでないということである。人からゴリ押しされた本だから面白さにケチがついた、などということはないのである。
あれから三十年以上たち、私はいまでも自分の鼻で本を選んで読んだり、人にすすめられて本を読んだりしている。どちらの場合であれ面白いものもあれば面白くないものもあり、私はその結果を受け入れて責任を誰かに負わせることはない。幼いころから保っている読書家の矜持である。




